第六篇 自由という名の暴走列車
年が明けると3年生は自由登校になり、教室も閑散とした日が多くなる。
こんな時にまともに授業をする教師もなく、だいたいは世間話か趣味全開の授業をして無為な時間を潰していた。
この時期大変なのはむしろ生徒の方で、彼らの大部分は受験のラストスパートに入り、勉強机にかじりついている。
我が高校の進学率は予備校進学も含めるとほぼ100%だ。
私も大学に入る前は、それこそ死ぬ気で勉強した。他の元から真面目な学生から見たら、「なんだそんなもの」と言われるかもしれないが、私なりに死ぬ気で頑張った。
その甲斐あって、見事浪人せずに大学に合格し、教員免許も恙なく取得して教師に収まり、今に至る。
大部分の教師はその時の苦労を忘れ、学生達に強く勉強するように言っているが、それぐらいしか大変な経験がなかった私にはそんなことは言えない。
それが生徒達にも伝わっているのか、私の授業はいつも弛緩しているような気がした。
今日の授業も、種田山頭火あたりを自由という点を強調して話していたら、大部分の子達は自由にスマホを見ていた。
まあ、この時期に真面目にしろと説教するのも億劫だし、彼らとの別れもすぐそこだ。私も目くじら立てず好きにさせていた。
尤も、例によって谷畑君だけは真面目すぎるぐらい真剣に話を聞いていたのだが……。
「なんでもありですよね!」
「そうだねえ」
こういう唐突すぎる谷畑君を見るのもあと1ヶ月程度と考えると、何か感慨深いものがある。
今まで散々迷惑をかけられたが、それがなくなると寂しさを感じるのだから人間は現金なものだ。
「今日の先生の授業を聞いて思ったんですよ、今までの私は型に囚われすぎてたんじゃないかって」
「先生からすると谷畑君はもう少し型にはまった方が良いかな」
せめて卒業までの残り少ない間、普通の女子高生らしい日常を1日でも多くとって欲しいと心から思う。
彼女の生き方は現状、型にはまっている部分を見つける方が難しい。
「そこで私は思いつくまま一句ひねってみました! 先生の忌憚ない意見を聞かせてください! いきます!」
そう言って谷畑君はわざとらしく咳払いをする。
今日は超寒い
マジ死ぬ
あ、コシビロダンゴムシが本当に死んでる!
「・・・・・・」
反応に困る句だった。
教師として生徒の自主性を褒めるべきなのだが、この句には褒めるべきところが見つからない。
そもそもコシビロダンゴムシとはどんなダンゴムシなのか。
心にもないおべっかを言えれば楽なのだが、私の神経構造でそれは不可能に近い。それが出来ていたら今頃教頭にはなれていた。
そして熟慮の結果私が出した答えは、
「まあいいんじゃないかな」
絶望的に当たり障りのないものだった。
「これ結構自信作なんですよ先生! 今日山から登校している途中に、道ばたで死んでいるコシビロダンゴムシを見つけて、これだって思ったんです!」
「山……」
個人的にはこの句が作られた経緯より、どうして山から登校する羽目になったのか知りたかった。
どういう状況になると、そういう登校ルートが構築されるのだろうか。
「それと、もう1句思いついたんです。今!」
「谷畑君は基本的に頭の回転はいいんだけれどねえ……」
当意即妙で句がひねられるのなら、決してバカではない。むしろ散々考えた末があの程度の私より、頭の回転は速いはずだ。
ただ成果に関しては、私とどっこいどっこいだったが。
「それじゃあいきますね。心して聞いてください!」
「ああ」
先生
旧年中はお世話に
なりました
今年も
超よろしく!
「……ああ、よろしく」
句ですらなかった。
「いやあ、そういえば先生に年賀状出してなかったこと今思い出して。友達はだいたいスマホでぱぱっとやっちゃうけど、目上の人にはちゃんとはがきで出さないと。でも先生の住所知らないし……」
「最近はプライバシーの問題から、生徒どころか教員も電話番号さえ載せないからね。分かるのはホームページに書いてある代表電話ぐらいか」
世知辛い世の中になったと思う。
しかしそれはあらゆる時代の年寄りが思うことだ。
私が若い頃も、浮かれてはしゃいでいる(私は徹頭徹尾地味だったが)連中を見て、年寄りが「これから世の中どうなるのかね」と嘆いていた。しかし、そう言われていた人間達が、今は同じことを言っている。
自分が歳を取ったことを痛感せざるをえない。
いずれ谷畑君でさえ、歳を取ったら若者を見てそう思ったりするのだろうか。
――いやないか、彼女に限って
彼女が老け込む姿は全く想像できない。
「……何感慨にふけってるんですか?」
「ああ、先生も随分歳を取ったなって。谷畑君を見ていると、よりそう思うよ」
「何か意味が分かりませんが、とにかくはがきが出せないなら面と向かって話すべきかなと思って。それと句を見事に合致させました! まさに一石二鳥ですね」
「残念ながら見事に合致できなかったね。100%年始の挨拶だったよ」
「そんなあ……」
さすがにこれには私も言葉を濁せず正直に言う。こんな私にも国語教師として譲れない一線があった。
谷畑君がガックリと肩を落とした。
私にはここまでショックを受けた方がショックだ。
「せっかく卒業までに成長した私を見せて、先生を安心させてあげたかったのに……!」
「安心させたかったらまず国語の勉強をして欲しかったなあ」
心の底からそう思う。
「いやでもあれですよ、それはそれ、みたいな! はあ、結局最後まで駄目生徒のまま卒業かあ……」
谷畑君がため息を吐く。
いちおう自分の成績の悪さには、ある程度の負い目を感じていたようだ。
毎日あまりに堂々と私に会いに来ていたので、そんなもの全くないと思っていた。
「まあ、学校の成績なんて卒業できればそれで充分さ」
彼女以外にも成績が振るわないまま卒業した生徒は大勢いる。
ただ彼女ほど印象に残る生徒はもう現れないだろう。
「そう言われても……。うーん、なんだろう、最近卒業が近づいてから、何かエモくなってるというかセンチメンタルになってるというか……」
「学生時代なんてそんなものさ。先生もこう見えて、高校の卒業式で泣いてしまったんだよ」
「えー先生がぁ?」
随分と馬鹿にしたような顔で谷畑くんが言った。
そう言った彼女の気持ちが誰より分かるのは、情けないことに他ならぬ自分自身だ。
「先生は君と違って活動的でも、何かに情熱をもって取り組んでいるわけでもなかった。ただこの時期になると何かやり残したことはないかと、心だけが焦ってしまい、ちょっと情緒不安定……というのはあれか。まあ感傷的になるもんだよ」
「やり残したこと……」
谷畑君は私の言葉を口の中で何度も繰り返す。
その後、結局何も言わずに谷畑君は国語準備室から出て行った。
後日聞いた話によると、その日の彼女は今まで見たことがないほど大人しく、教師生徒問わず誰もが病気を疑ったそうだ……。