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第五篇 暁の決死圏

 冬の足音が確実に近づいてきた今日この頃。

 そろそろクリスマス商戦の準備を始める商店街をよそに、国語準備室はいつも通り平和だった。


 私は自分で入れた下手な珈琲を飲む。

 この珈琲は焙煎した豆をミルで砕いてドリップしたものだ。大して味も分からないくせにコーヒーメーカーまで買うほど、私は珈琲作りにはまっていた。

 その筋の人が入れればもっと上手くなったのだろうが、私の腕でもそれなりに美味しいのだから、日本の技術力は素晴らしい。


「ふー……」

 ブラックの珈琲を一口のみ、私は大きく息を吐く。

 この本に囲まれた空間で優雅に珈琲を飲むというのが、たまらなく心地よい。

 一国語教師が、大文豪にでもなったかのような気がした。


 窓の外では、部活に汗をかく生徒達の姿が見える。この時期は大きな大会があるようで、どこも真剣だ。


 思えば私は学生の頃からこんな感じだった。体育系どころか文化系にも属さず、日々のらりくらりと生きてきた。

 そんな人生が一生続くのだろうなと、当時から思っていた。

 だがこの歳になって、そんな生き方を許さない教え子が現れるとは思いもしなかった。


「ずずー」

 私の許可も得ず、勝手に入ってきた谷畑君がサーバーに入っている残りの珈琲を飲む。

 彼女は珈琲を飲む際、必ずどこかから持ってきたの時前のミルクと砂糖を大量に入れていた。

 そんな物を入れたら、珈琲の本当のおいしさが分からない……と言えたら格好が良いのだが、私自身そこまで詳しいわけではない。

 ただ年長者として見守っていることしか出来なかった。


 美味いと思っているのか不味いと思っているのか、さっぱり分からない態度で谷畑君は珈琲を飲み干し、


「暁ですよ先生!」


 例によって前置きを一切省き言った。

 今回はかなり難易度が高く、全く想像できない。

 ただ、対処法は心得ている。


「今度はどういう用事かな?」

 自分で言うのもなんだが、私もまあ慣れたもので、とっとと用件を促す。前段階でいちいち反応していたら、余計疲れるだけだ。


「はい、今日先生授業で春眠暁を覚えず、な話をしてたじゃないですか」

「ああ、授業の孟浩然(もうこうねん)の漢詩の話か。春眠 暁を覚えず 処処 啼鳥を聞く 夜来 風雨の声 花落つること 知んぬ多少ぞ……。先生も中国語で言えたら格好いいんだけどねえ」


 残念ながら私は中国語が話せるどころか、中国に行ったことすらなかった。

 いちおう漢詩は白文でも完璧に読めるが、高校国語教師としてそれは当たり前のスキルだ。


「そう、それです。私先生の話聞いて思ったんですけど、あれ厳しすぎません!?」

「どういう意味だい?」

「ネットで暁について調べたんですけど、それって日の出のことなんですよね。それで、春は眠いから寝過ごして日の出が見られない、って話らしいんですけど、そもそも日の出ってめっちゃ早いじゃないですか!」

「ああ、そういうことか。今の基準で考えたら確かにかなり早いかな」

「でしょ! 春の話だから、だいたい5月ぐらいの日の出を調べたんですけど、遅くても4時50分だったんですよ! 私その時間爆睡してました!」

「先生もだ。ただこれは当時の中国の話で、当時は電気も時計もないから、太陽の動きが生活の基準だったんだよ」

 そう言って納得してくれたらどれほど楽か。


 もちろん現実はそんなに容易くない。


「それはそれとして、とりあえず中国の日の出も調べたんですよ。そしたら6時ぐらいで、これなら納得できるかなあと思ったんですけど、やっぱりその時間も私は寝てて納得できませんでした」

「だから孟浩然の時代は――」

「あ、そういうのいいですから」


 いつものように即退けられる私の真っ当な意見。

 私もだんだん慣れてしまい、抵抗を覚えることさえなくなってきた。


「それで私思ったんです! 実はこのもうもう……なんでしたっけ?」

「孟浩然だ」

「そう、その()()()()はその漢詩を書いてる時、海外旅行にバカンスしてたんじゃないかって」

「うん」


 私は頷いた。

 もうこれ以上何を言っても無駄だと悟った。


「それで日の出がめっちゃ遅い国を調べたんです! そしたら理論上極夜の国が、1番日の出が遅いって言うじゃないですか。それで1番中国に近そうな国がフィンランドだから、きっとフィンランドでこの漢詩を書いたんだと思うんです!」

「いやさすがにそれは……」


 これには突っ込まずにはいられなかった。

 そもそも極夜は春に起きるものではない。

 そして当時中国……というか唐からフィンランドへのルートが開拓されていたという話は、聞いたことがない。


 真っ当な教師ならその点を指摘し、彼女の無茶苦茶な理論を修正しただろう。

 だが私にはそこまでの情熱も使命感もなく、ただこの珈琲が冷める前に彼女との話が終わらせられれば、とだけ思っていた。


 そんなどうしようもない教師である私が出した結論は。


「……まあ考え方は人それぞれだな」


 だった。


「ですよね! やっぱり先生ならそう行ってくれると思ってました! それじゃあ私は近々フィンランドに行って、()()()()の足跡について調べ、自分の理論を証明してきたいと思います! お土産楽しみにしていてくださいね!」

「ああ、楽しみにしてるよ」


 お土産に関しては。


 後日お土産と一緒に彼女から聞いた話によると、当たり前と言えばそれまでだが、彼女は孟浩然の足跡は見つけられなかったらしい。しかし冬至近かったこともあり極夜は体験できたそうだ。それだけでも彼女の旅には意味があったのだと、私は教師として思う。


 ちなみにお土産はムーミンのぬいぐるみだった。


 同じ物を出勤途中のおもちゃ屋で見かけたことは、もちろん黙っていた。

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