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第一偏 山のあなたまで何マイル?

  秋の日の ヰ゛オロンのためいきの ひたぶるに 頭髪にしみて うら悲し


 私の名前は印旛金馬(いばきんま)。将棋好きの父親と専業主婦の母親の間に生まれたバブル世代ど真ん中のオッサンで、その波に乗らず安定を求めて高校教師になったしがないオッサンである。


 担当は国語。文学少年だったわけではなく、「まあこれならギリギリ教えられるか……」という、打算の元選んだ科目だ。真面目な教師諸兄が知ったら、「何たる不謹慎か!」と、叱責されそうな理由だ。幸いにも、最近の新人教師には同じような理由の子が多く、彼らのおかげであまり肩身の狭い思いをしなくて済んでいるが。


 そんな、私のモットーは平穏無事に生きること。波風なく定年することが目下の夢だ。いや、就職してからずっとそんな感じだった。ここまでくると、我ながら安定志向を通り越した、枯死志向ですら無いかと思える。


 そんな私の人生に波風を立てる教え子が、今目の前にいた。


 彼女の名前は谷畑(やばた)ちなみ。

 なかなかの美少女で、端から見る分には目の保養になる。しかし、面と向かって話せば、彼女がとんでもない暴走列車だと誰もが気付くだろう。

 好奇心という凶器で、私の平穏をどんどん奪っていく、悪魔のような女子高生である。第三者には彼女の貴重な青春を私の方が浪費させているように見えるが、実際は逆だ。


 そして今日も今日とて彼女の迷惑行為は始まった――。


「先生、山のあなたって何人ですか?」


 国語準備室で教頭に提出する書類をまとめていると、いきなりやってきた彼女がそんなことを聞いてきた。

 私はあまり勘が鋭いタイプではないので、初め目が点になる。


「先生、今日の授業で山のあなたが遠くに行くと行かないか言ってましたよね?」

「ああ、上田敏の海潮音の話か……」


 今日の授業で教えた内容だ。うろおぼえとはいえ、それがしっかり記憶に残ってくれたのは教師冥利に尽きる。こんな私だが、それを感じる権利ぐらいはあるはずだ。


 だが彼女の場合、その残り方が明らかにおかしかった。


「それで気になったんですよ! 山のあなたってどちらさんかなって! 何か想像したら、こう、山小屋の女主人みたいな……」

「残念ながらそのあなたは、人という意味じゃあない。向こう側、ぐらいの意味だな。もともとカール・ブッセ……ドイツ人が書いた詩を上田敏が訳したもので、その訳の素晴らしさ、優雅さから――」


「あ、そういう話はどうでもいいんで」


 私の講釈がすっぱりと断ち切られる。

 こちらは教師冥利とは呼べない。


「じゃあ結局人じゃなくて場所の問題なんですね。その、幸いがあるっていうのは。あなたさんが持ってるわけじゃなくて」

「場所……まあ場所と言えば場所か」

「じゃあその山ってどこにあるんでしょうか。えっと、詩を書いたのがドイツ人て言うのなら、多分ドイツの山ですよね。それに何か大変そうだから最高峰だと思うんですよ。となると……」

 谷畑君が私の前でスマートホンを弄り始める。このあたりは今時の女子高生だ。


 それにしても彼女のように可愛らしい少女が、こんな存在感も頭髪も薄い老いぼれの所に頻繁に来るのはどうかと思う。

 以前それが原因で、あらぬ疑いまでかけられた。


 私が彼女の入れあげている、と。


 この歳で独身とはいえ、いまさら恋愛に身を焦がす自分でもない。お互いのためにも、出来ればこのかび臭い部屋にはなるべく来ないで欲しかった。


 そんな私の内心など全く気付いていない様子で、谷畑君は自分のペースで話を進める。


「あ、出ました! ツークシュピッツェ山! 標高2,962m! あれ、意外に低い……」

「先生もドイツで一番高い山を初めて知ったよ」

「じゃあ、あれじゃないですか。富士山の方が多分高いから、もっと幸いが多くあるんじゃ。訳した人も日本人ですし。となると富士山の標高は……3,776m! やっぱり全然高い! 計算すると役1,3倍ある! これはつまり幸せも1.3倍って事ですよね!?」

「さあ、どうだろうな……」


 それにしても良くそんなに指がさっさか動くなあと思いながら、私は適当に答えた。

 私なんて最近スマートホンに変えて、ようやく電話の受け答えが出来るようになったのに。


「あれ、そういえば山のあなたの次はなんでしたっけ? 実はところどころだけしか覚えてなくて……」

「まあ誰しもよくあることだな。正確には、山のあなたの空遠く 幸い住むと 人のいう (ああ)われひとと()めゆきて 涙さしぐみ かえりきぬ 山のあなたに なお遠く 幸い住むと 人のいう、だな」


 さすがにこの程度の長さの詩なら何も見ずにそらで吟じられる。

 何十年も教えていれば、いやでも頭の中に入るものだ。


「それを分かりやすく言うと……すみません、忘れました! 授業でやったのは覚えてるんですけど、何か小難しくて覚えられませんでした。もう一回教えてくれませんか?」

「……山の向こうの空遠くに幸せがあるというから人に尋ねて行ってみたが、結局得るものもなく涙を流しながら帰ってきた。そしてまた人に尋ねたら、本当はもっと遠い場所に幸せがあると、そんな内容だ」

 情緒もへったくれもない説明だが、そうでなければ谷畑君が聞いてくれそうもないので仕方が無い。


「じゃあつまり富士山なら幸せがあるって可能性が高いってことじゃないですか! ドイツから日本は遠いですし、標高も1.3倍ありますし、まず間違いありませんね!」


「そうなる……のかなあ」


 少なくとも彼女の頭の中ではそうらしい。

 まさかカール・ブッセも上田敏も、後世になって自分が関わった詩で富士山に幸せがあると言われることになるとは、夢にも思わなかっただろう。解釈は人それぞれとはいえ、彼女のそれは突き抜けていた。


 彼女のトンデモ理論に依れば、富士登山をする年間数万人の来山者がその幸いと出会っていることになるが、大人としてそこは黙っていた。


「あ、でも空遠くだから、ヘリコプターが必要ですよね。えっと、富士山飛んでくれるヘリコプターってあるのかな……。あ、それより場所が重要よね。ここが東京だから富士山の向こう側の空遠くって言ったら……富士宮上空?」

「具体的な場所だなあ」


 陸上自衛隊が良くその恩恵に与っていそうだ。


 とりあえず山頂上空という考えは彼女にはないらしい。

 もっとも、彼女の場合それを言ったら「成層圏まで行けば大丈夫でしょうか!」とか言いだしそうだが。


「よーし、それじゃあ私週末にそのあたりまでちょっと行って来ます! 先生、最高に幸せになった私に嫉妬しないでくださいよ!」

「私が見た限り今の君は充分幸せそうだがね」

「ならば最強になった私にもはや敵はありませんね。週明けの私にドンミスイット!」

そう言うと谷畑君は入ってきた時と同じような唐突さで、国語準備室を出て行った。


 私はそのバイタリティーを他のこと、たとえば部活などに活かせないのだろうかと心底思いながら、無言でその背中を見守った……。


 後日――。


「わーん、自治体から許可が下りませんでしたー!」


 想像以上の悔しがり方をした教え子が、再び国語準備室を訪れるのだった。


 ――いや、ヘリコプターの方はどうにかなったのかい。

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