シチューを食べよう
やさしさに包まれたなら……
柔らかく吹く風が草原に生える草の穂を優しく撫でている。
男の子と友達がその草穂のうねりの中にいた。二人は怖いものなど無いかのように、気の赴くままあちこち駆け巡る。摺れて千切れた草の葉から滲み出た匂いが辺り一面を漂い、遥か高い上空から甲高い鳥の鳴き声が響いてくる。草原を流れる小川には、世界中のいきものを調べてきた学者でさえ思わず息をのむような、鮮やかな色をした魚たちが、ゆらゆらと泳いでいる。しだいに、二人の服は湿った土や草で汚れていった。
疲れてお腹が空くと二人は、座れるような柔らかい場所を見つけて腰を降ろした。男の子はおばあさんに作ってもらったお弁当が入っている包みを取り出す。布を解き、葦で作られた箱の蓋を開ける。中にはサンドイッチが入っていた。
二人はバターや甘い香りのするジャムで手を汚しながらサンドイッチを食べた。心地よい風が頬を撫でるように吹きぬけてゆく。
空になった弁当箱を布で包むと、男の子はそのまま寝ころんだ。空は透き通った青色で柔らかそうな雲の一団が視界を軽やかに横切っていく。ぷちっぷちっという音がして男の子が体を起こすと、友達が敷き詰められた草を1つ1つちぎっている。
何をしてるんだろう?
男の子が覗き込むと友達は千切った草を編みこんでいる。しばらくするとそれは輪になっていくのが分かった。最後に友達はどこからか花を見つけてくるとそれに挿して男の子に差し出した。
「ありがとう」
男の子は照れながら受け取って、頭に乗せた。
徐々に日が傾き、空は黄金色に塗り替えられていく。のどかな雰囲気だった草原には影が落ち始め、風も冷たくなってくる。遠くから獣の遠吠えも聞こえてきた。
座って楽しい話をしていた二人も段々と言葉が少なくなった。男の子は何とか話をしようとあれこれ考える。けれど、思いつかない。そうしていると友達がいつの間にか立っていることに気づいた。友達は儚げに笑って、
「じゃあね」
友達は男の子を残して歩き出した。
「えっ……」
突然のことに男の子はうろたえた。心が削り取られていく恐怖に言葉にならない声を上げる。
そんな顔でそんなこと言わないでよ……
わけもわからないまま立ち上がり、引き止めようと必死に手を伸ばす。けれど、その姿は幻のように色を失い、どこかへ消えてしまった。
男の子はその場で生きる意志を失ったかのように呆然と立ち尽くした。草の穂はそんなこともおかまいなしに冷たい風に吹かれてざわざわと揺れている。
男の子の目から今にも涙が溢れ出しそうになる……そうして、男の子の意識は草原から離れていく。
そっと目を開けると見慣れた部屋にいる。
温かそうな毛布が男の子の首元からびっしりと何枚も掛けられ、額には水で冷やされたタオルが乗せられている。
男の子はぼんやりと天井を見つめ、風邪を引いて朝からずっとベッドの上で眠っていたことを思い出す。そして今までに起きた出来事が夢であったことに胸を撫で下ろす。泣いていたのか目はうっすらと涙で滲んでいた。ただ悲しく、さみしい夢だったとしか感じられなかった。
男の子はそっと体を起こした。窓の方へ顔を向け、耳を澄ます。閉められたカーテンの隙間から見える外の景色は、すっかり日が落ちて真っ暗で、木々の輪郭のみが黒い紙絵のように見えた。その先の森からは風で枝をしならせた木々の葉っぱどうしが当たって擦れる音を基調に、虫たちの風鈴のような鳴き声と鳥たちの大笛のような鳴き声がリズム良く聞こえてくる。
ふと、どこからか甘くて香ばしいにおいが部屋の中に流れ込んでくることに気づく。どうやらドアの向こうから漏れてくるみたいだ。毛布をめくりベッドから出る。体中に何かが張り付いている感じがする。首を曲げて体を見回すと着ている衣類が汗でぐしょぐしょになっていた。
ドアの前に立ち、静かに扉を開くとそのにおいが一気に流れ込んできた。男の子は居間を照らしている明かりがまぶしくて目を細める。そして部屋いっぱいに満たされたにおいを嗅いでいると無性にお腹が空いてくるのを感じた。
台所からはかちゃかちゃと物音が聞こえてくる。男の子は手で目を擦りながら、よたよたとまだおぼつかない足取りで台所に向かった。
中を覗き込むと、石造りの床の上に造られた竈に火がくべられ、蓋のされた大きな鍋から湯気が上がっていた。その中からはぐつぐつと何かを煮込んでいる音が聞こえてくる。そのすぐそばでおばあさんが食器を洗っていた。しばらくしておばあさんは鍋の蓋を取り、柄杓でそっと中身を掬って味見をした。そして少し首を振ってうなずくような仕草をすると鍋の蓋を戻し、テーブルに散らかっている材料を片づけた。
男の子はその鍋から香ってくるにおいに心を躍らせつつそっと台所に入った。おばあさんは入ってきた男の子に気づくと、
「おや、もう大丈夫なのかい? 熱は……どれ」
ゆっくりと男の子に近づき、腰を屈めて男の子の額に手を当てる。
「だいぶ、下がったようだね。あら、大変。汗で下着が濡れてるわ。今、替えの服を用意するから、ちょっといらっしゃい」
「うん」
男の子はおばあさんに連れられ寝室に向う。おばあさんは部屋の明かりを燈すとベッドの横に置かれた洋服タンスを開き、中から替えの服を取り出した。
「じゃあ、まず上着から……」
「え、でも一人で着替えられるよ」
「いいのよ。熱は下がってるけれど、まだふらふらしてるようだから大人しく言うことを聞きなさい。それに一人で着替えられることは知ってるよ」
おばあさんは一人で着替えようとする男の子を優しくなだめた。
「……うん」
男の子は頷き、おばあさんに手を貸してもらいながら服を着替えた。
「これでよしと……じゃあテーブルの椅子に座って待ってなさい。もう少ししたらシチューが出来るから」
おばあさんは男の子を居間に連れて行きテーブルの椅子に座らせた。そして少し急ぐようにパタパタと靴の音を立てながら台所に戻っていった。男の子は膝に手を付いて静かに待っていると夢での出来事が脳裏に蘇ってきた。しだいに心が沈んでいくような気持ちになった。
「おや、どうしたんだい」
出来上がったシチューを持ってきたおばあさんは、うつむいてしょんぼりとしている男の子を心配そうに見つめた。
「うん、あのね……」
男の子は夢での出来事を話した。たとえ夢であったとしても友達と別れてしまうことがあまりにも怖くてたまらかったことを……そしてそれが現実でも起きるんじゃないかということを。
「そうかい。それならまずこのシチューを食べなさい。そしてぐっすりと眠ること。そして明日起きて学校に行きなさい。そうすればまた会えるから」
おばあさんは手にしているお皿を男の子の前に置いた。たっぷりと盛られたシチューからもくもくと湯気が上がっている。
男の子はおばあさんをしばらく見つめ、それからお皿に添えられてあるスプーンに手を伸ばし、ゆっくりシチューを掬う。綿飴のような湯気を顔に受けながら口に運ぶ。バターと小麦の甘くてこうばしい香りが中でいっぱいに広がる。大きく切られた人参やじゃがいもはしっかりと煮込まれ、とろける様に形を無くしていった。
最初はぎこちない様子で一口ずつ食べていた。けれど、気づけば夢中になって頬張り続けている。口の周りがホワイトソースで汚れていることにも気づかない。暗くどんよりと落ち込んでいた表情は男の子らしい温かなものに変わっていった。
おばあさんは隣に座りその様子をそっと見守った。それから上着のポケットからごそごそと何かを取り出すと男の子に差し出した。
「そうそう、今日の夕方にあの子がやってきてね、この手紙を渡して欲しいって」
「……」
男の子は二つ折にされたその手紙を受け取ると大事なものを扱うかのようにゆっくりと開いた。
これに今日の授業でやったことを写してあるから
あしたまた会おうね
別の紙に、丸みのあるかわいらしい字で先生が話したことがきれいにまとめられていた。男の子は手紙に目を戻し、二行だけの文章をじっと見つめる。表情がだんだん綻んできた。
「よっぽど心配してくれたんだろうねぇ。だからしっかり食べてぐっすり休んで学校にいかないとね」
おばあさんは微笑みながら優しく語りかけた。
「うん。でも、もう大丈夫だよ。明日は学校に行くよ」
男の子は嬉しそうに笑う。そして、またシチューを食べ始めた。
ありがとうございました。