蓮と楼
「アウリス!」
部屋のドアを勢いよくライが開けるとそこにはアウリスがベッドに伏していた。ライは急いで駆け寄り、アウリスの体を揺らす。
「アウリス! 大丈夫か!」
「んっ…… ライ? ライ! ハクレイは?!」
跳ね起きたアウリスは部屋の中を見渡しハクレイの姿がないことを確認すると勢いよく立ち上がった。
「ああ、あいつなら走ってどこかに行っちまったぜ、あれだけ走れりゃもう大丈夫だろ」
「追わなきゃ!」
アウリスが動き出したその時、ロキも部屋に入ってきた。ライの全力ダッシュに追い付けずに時間差が生じたのだった。
「はあ はあ、無事だったか」
ライがロキの言葉に頷いてからアウリスに告げる。
「なあ、もういいんじゃねぇか? ロキの言うとおり、後はあいつの勝手だろ? 応急処置もしたしもう充分じゃねえか?」
「そうだぞアウリス、あいつにやるべき事があるんだったら俺らは邪魔出来ないぞ。それともあいつに一目惚れでもしたってのか?」
「違うんだ、僕が気を失う前に見たハクレイの目にはこれから命を捨ててでも何かをしようとしてる強い意思を感じたんだ。おそらく自分の力が及ばない相手に対してだと思う! だから放って置けないよ!」
「あのなぁ…… 分かったよ。まあ追うなら反対はしねえけど俺はここで待つぜ。今回ばかりは気が乗らねえな。動く気になんねぇんだ」
「分かった! 少し待ってて!」
ライの言葉に即答すると、一瞬一秒を惜しむようにアウリスが外に飛び出して行った。その姿を見送り、意外とばかりにロキがライに視線を移す。
「放っておいていいのか?」
「まあな、そもそも見つかる訳がねぇよ、あいつはどこかに向かったんだろうがこっちは目的地を知らないしな。どうせすぐに戻ってくるさ」
「それもそうだな、まあそれまで待つか」
そう言ってロキはリュックから本を取り出すと椅子に座ったのだった。
「はぁはぁはぁ……」
膝で手を支えながら肩で息をしていたハクレイが忌々しく傷を覆った包帯に手を当てる。
この傷さえなければいつまでも走り続けられるのに……
それでも怒りが鉛のように重くなった足を動かさずにはいられず、再び駆け出した。
「やっと見つけましたよ!ハクレイ様」
聞き覚えのあるその声に抑えていた感情が一気に吹き出す。声が聞こえた方角に視線を向けると建物の屋根に殺意を向ける相手がこちらを見下ろして立っていた。
「ドウシン!! 貴様! 何故裏切った!」
ハクレイは屋根の上にいるドウシンという男に叫び、歯が砕けそうな程くいしばる。
「いつまでも下っ端じゃ面白くありませんからね。貴方と違い私には将来を約束されていた訳ではありませんので、夢を見たくなったのですよ」
数日前
いつもと変わらぬ穏やかな日常、街は昼下がりの陽気に包まれて明るい賑やかさで満ちていた。そんな雰囲気を一変させるような切迫した声と馬の嘶きを引き連れて黒装束を身に纏った傷だらけの男がハクレイの元に現れた。その男は全身血まみれで息も絶え絶えにどうにかたどり着いたようで、あまりの必死さにハクレイは言葉を失っている。
「ハ ハクレイ様……此度の任務は楼の罠でした……任務中に多数の伏兵に襲われ、リハク様が戦闘の末に亡くなられました……リハク様はハクレイ様にあとを頼むと……私がついていながら……申し訳ありません……ギョクレイ様はやつらの囚われの身に……」
そこで男の息が絶えた。信じがたい内容と目の前で事切れた仲間を目の当たりにしてまばたきも忘れるほどに思考が掻き乱されていく。
どういうことだ! 父上が死んだと? ギョクレイが? 何があった!
状況が全く分からないまま、ハクレイは陰謀に翻弄される事となる。
ハクレイはたくさんの仲間と共に、ヨリュカシアカ州の北部にあるセキレイという街に住んでいた。ヨリュカシアカに属している訳ではなく、セキレイの街とその周辺がリュリュカナという一つの州としてハルト王国に属している。ハクレイの家はリュリュカナを束ねる存在であった。表向きは騎士として、裏では水面下で動くような働きをしていた。一般的には騎士の家は戦争時の軍の指揮を執ることや、日常では警備や警護を使命としていたがリュリュカナの騎士は戦争時は戦列に並ぶが、それ以外は要人の暗殺や諜報など影の役割を担っている。現在の州候、リュリュカナでいう頭首はハクレイの父リハクであった。リハクには子供が二人いるがいずれも女の子であり、姉のハクレイと妹のギョクレイは誰もが認める仲が良い姉妹である。跡継ぎに男の子が生まれることをリハクは望んでいたが、ようやく生まれた男の子は幼い頃に病死した。その頃からハクレイを次の頭首にする為に、リハクはハクレイに対して厳しく接するようになっていた。
ハクレイの一族は五百年前は、彩という国の民であり、ハルト王国に侵略されて彩という名をリュリュカナ州の蓮に変えて、ハルト王国に従属することとなった。しかし、群を抜いた戦闘力と機動力を有する蓮の一族は代々のハルト王に気に入られ、王都の者でも無視できない程の発言力を蓮の頭首は与えられていた。セガロが宰相だった頃もセガロの私利私欲の為の任務は受けずに、王国の為だとリハクが判断した事だけ遂行していた。
そして、今より数日前に王都からの使者がザブスレイという王都の中の執政官の暗殺をセガロ王からの命令として伝達された。その頃はほとんどの命令をことごとく拒否してきたが、今回の標的であるザブスレイという男はリハクもよく知る男であった。ザブスレイは周囲からの評判も悪く、リハクが知り得たザブスレイの悪行は一つ二つではなかった。まさに私財を肥やす為だけに生きているような男である。
フッ、セガロもザブスレイの目に余る行いを疎ましく思い出したか……
リハクはこの命令を受諾したが、セガロの命令には失敗は許されない為に、万全を期するように頭首自身が遂行に当たれと含めていた。
ふん。何を慎重になっているのやら
リハクにとっては官の暗殺などどうということのない難易度の低いものだった為、一緒に行きたいというギョクレイと蓮の中でも腕利きのジンオウという青年を連れて王都に向けて出発した。頭首自ら動く事に周りからは反対の意見もあったがリハクの武力は凄まじく、誰しもリハクに何かあるとは思いもしないのである。
王宮内 王の間
「で? 蓮の者を始末してどうするのだ?」
玉座に座ったセガロは目の前に片膝を突いた黒装束で身を包んだクロウという男に抑揚のない声で問いかける。
「これまで我々の一族も同じように王の為に尽くして参りましたが、どういうわけか歴代の王の方々は蓮の者どもを重用され、我々は日陰に押しやられて蓮の格下の存在と扱われてきました。もともとは同じ一族ではありますが今に至っては我々楼の方が蓮より余程優れております。あの者共は王の覚えがいいことで怠惰の日々を貪り、そして何より蓮の者は王の命令を断るという不忠を度々繰り返しております。そのように忠義のかれらもない獣にも劣る蓮の者共を、我々は許せないのでございます。今回、蓮を成敗しましたら楼の者は皆、王の為に永劫の忠誠を誓います」
あたかも自分たちが正しいのだと主張するが、セガロにとっては別段興味が湧いてこない。
「王の覚えが良いのは単に実力差があったからではないのか?」
畏まって顔を伏せていたクロウだったが、セガロの言葉に思わず目を見開いて勢いよく顔を上げる。その様子を見てセガロが失笑した。
「そのような事は決してございません! 我らの実力は勝る事はあろうとも劣るという事は絶対に有り得ません」
自信と野心に溢れたクロウの言葉を聞いてもセガロは何の感情も沸き起こらない。だがこうして面会に応じたのは多少なりともセガロにとって利になるという程度でそれが組織の一つが減ろうが減るまいがどうでもいいと考えていた。蓮の連中が正義感を振りかざして使いにくい事を思えば、楼の願いを聞いてやる事で使い勝手がよくなればそれで良し。つまりはその程度でしかなかったのだ。
「蓮を討つ事を許す」
「ありがとうございます! ではもう一つだけお願いがございます」
クロウのお願いというのは楼と蓮が正面からぶつかれば今後の任務に支障が出る程に被害が出るため、王の名を借りた策を使うので使者に協力させて欲しいというものだった。
ふん。己の利のために用意周到だな。この手の者は扱いやすいがな
「よかろう、だが良からぬ噂すら立たせる事は許さん」
「はっ! 有難き幸せ」
思うように事が運んで満足そうなクロウの表情にセガロは嘲笑したのだった。
楼の拠点
「ではザブスレイの別宅にはリハクとその娘とジンオウの三人が向かうのだな?」
クロウは我が事成れりとほくそ笑んだ。人相の悪いその顔は額から口元まで及ぶ刀傷と相まって見るものを怯えさせる程である。その内面は見た目通りに残虐性を多く潜ませる。
「はい、予定通り明日の夜に決行します」
対面しているのは蓮所属のドウシンだった。まだ幼さが残る整った面立ちの青年で人一倍自尊心が高いが、どこか陰を感じさせるこの男は、戦災孤児だった所をリハクに拾われて剣術や学術などを惜しみ無く教わりながら、実の息子のように育てられた。それが自分は一番リハクから目をかけられているという思いをいつしか強く抱くようになり、次第に同世代以下の子供達を見下すように至る。リハクからすればどの子供も可愛く、誰が一番という扱いはしなかったのだが、常に自分の都合の良いように解釈をするドウシンの目にはそう写らなかった。しかし、リハクがハクレイを跡継ぎに考えるようになってからは何をするにもハクレイが優先されていることにドウシンは我慢がならなかった。その嫉妬心がドウシンを狂わせた。自分自身でも気付かない内に黒い感情に胸の内は塗りつぶされて、ハクレイと何かにつけて張り合おうとした。最近ではあろうことかハクレイのみならずリハクへの批判も誰の目を憚ることなく言うようになっていた。そんなドウシンが楼の蓮に対する嫌悪感を利用するために自ら楼の頭首クロウに近づいたのだった。それは自分は見捨てられたのだという被害妄想から生まれた復讐心による蓮への制裁だと自身に言い聞かせて。
「それにしてもお前の協力のお陰で楼の未来は明るいものになった。礼をいうぞ」
「礼には及びませんクロウ殿。されど事が上手く済んだあかつきには」
「分かっておる。お前の能力は評価している。心配せずとも一つの町をお前に任せようと用意しているのだ」
「ありがとうございます! では、次の手を打って参ります」
「頼んだぞ」
ふん。用が済んだら消してやる
クロウからすれば蓮の者すべてを嫌悪しており、蓮を裏切ったドウシンとて例外にはならなかった。ただ利用価値があるから利用するだけ、その為の友好的な演技などいくらでも出来る。ドウシンの背中を見るクロウの表情は先程会話していた時とは真逆の冷酷なものだった。
‐ロージリア郊外‐
「間もなくロージリアです」
精悍な顔つきのジンオウがリハクに告げる。王都ロージニアへは何度も来ているリハクなのでそのことはすでに分かっていることだが、馬に乗った一行の先頭を走るジンオウは真面目な青年でわざわざ報告してくれる。そんなジンオウを息子のように好ましく思っているリハクは報告するジンオウに頷いた。
リハク達は使者からの情報でザブスレイは今日行われている王宮内での宴の後、本宅には戻らず別宅に行く予定であるということだった。
今の時間なら皆寝静まっている頃だろう
リハク達はロージリアの街の門の外に馬を待機させて、壁を登って街に入るとザブスレイの別宅に向かって駆けた。王都というだけあって広さの規模はセキレイとは比べるまでもなく広大である。それでもあらかじめ頭に叩き込んで記憶した地図により迷うことなく別宅前に到着して周囲を確認すると、リハク達は壁を越えて音もなく寝所に向かった。さすがは王都の執政官の一人というだけあって別宅といえどもかなり広い。それでも侵入してから誰とも遭遇することもなく目的地に到着する。寝所のドアを音も無く開けたリハクはベッドに近づくとそのまま短刀を突き入れた。だが異様な感触に目を細めたリハクは勢いよく毛布を剥いだ。
!!
ベッドの上には大きなクッションが二つ、人の形を模して並べてあるだけであった。
罠であったか。ぬかったわ
その時、バンッと開け放たれた左右の窓から幾数もの矢が部屋の中に容赦なく飛び込んできた。
ぐぬぅ
咄嗟に回避したリハクだが三本の矢が命中し、肩、腹、足に突き刺さる。
「リハク様!」
事態に青ざめて駆け寄ろうとしたジンオウだが素早く部屋に雪崩れこんできた者に後ろから斬りつけられた。ギョクレイは既に口を塞がれ、拘束されていた。
「ジンオウ! ギョクレイ!」
リハクが叫ぶとジンオウがギョクレイの状態を悟り、体をギョクレイに向けて翻した瞬間に矢がジンオウに向かって放たれる。
ドドド
回避不可能な何本もの矢を受けたのはジンオウはなく、ジンオウを庇ったリハクだった。
「ジンオウ、血路を開いてここを脱出せよ! なんとしてもこのことをハクレイに伝えるのだ! そしてあとを頼むと! 行け!」
体中に矢が突き刺さったまま口元から血が流すリハクは、部屋に大量に乗り込んできた者と次々に斬り結んだ。リハクの名を叫び続けるが最早躊躇う時間も許されず、ジンオウは敵の数人を斬り倒した後、窓に向かって跳んだ。ジンオウが後ろを振り返った時にリハクが背中を斬られて倒れているのが見えた。そしてその凶行を行ったものが誰なのかも。
楼の者だと!
リハク様! ギョクレイ様!
ジンオウは楼の部隊による包囲をどうにか斬り抜けて敷地から出たものの、その後も別宅外に伏せてた楼の者達と戦いながらハクレイの元へ必死で駆け続けた。