愚かな鳥
風が音もなくカーテンを膨らませるように、私は夢を思い描くようになった。
何もなかったこの手にはいつしか鞄が握られ、旅立ちの用意ができていた。
向かうはあの空の果て。
木の葉のような軽い身で、木々を激しく揺らす風が吹きあげたら、私は両手をひろげ飛び立つのだ。
風にまかせ、どこまでも高く昇り、遠く遠く、空と海の交わる果てへ。
夢を追いかけてゆこうと。
小さな頃、憧れた丘の上。
木の枝にとまり、生まれた町を見おろしながら、その時を待ち続けた。
幾ばくかの時が流れ、過ぎ行き、ある日。
窓際で揺れるカーテンのように、木々が手招きをした。
強く確かな風が吹いている。
間違いはない。
太陽はいつになく熱く燃え立ち、雲は軽やかに大きな体を揺らしていた。
おとずれたのだ。空へ飛び立つ時が。
確かに今がその時だ。
恐れる必要はない。
だが見ると、ひろげたはずの両腕は震えがとまらずに、垂れ下がったままだった。
小さな渡り鳥でさえ、恐れなく雲をかき切り、まっすぐ地平線を目指すというのに。
私はというと、臆病な血が激流のように体中巡っている。
真っ青過ぎる空があまりにも広大で。
恐いのだ。ひどく。堪らなく。
別れが。始まりが。
自由だと思っていた足には、いつの間にか銅の鎖が繋がれ、その先は木の幹に縛りつけられていた。
それでも安心感と安らぎあった。
銅の輝きは静かなる温もりを骨の髄にまで伝えゆく。
誰かがやってきて哀れだと外してくれようとも、私は再び己の足に枷をはめるだろう。
飛び立つためには、寄り添う木を、この手で切り倒さなければいけないというのか。
到底無理だ。
それでも離れ行かなければ、空は飛べない。
ならば斧の向け行く先を変えるべきなのだろう。
風よ、激しく木の葉を揺らさないで欲しい。
急き立てられても、私にはまだ足を切り落とすほどの覚悟がないのだ。
愛しい木々よ、寂しいと告げてくれるのか?
だが忘れるのもまた、あなたには簡単なのだろう?
それでも日向で丸くなる猫のように、あなたの傍でうずくまっていたい。
別れが近づくほど、世界は素晴らしく見えるものなのだと、あの人は言った。
だからなのか?
私がこの木を惜しみ、葉の柔らかさを慕い、見おろす町が愛おしいと思うのは、ひと時のことなのだろうか。
いつでも戻ってくればいいと、どうか私に帰る場所を残さないでほしい。
その逃げ道が容易く私の鎖となる。
風は空まで高く吹き上げているが。
腕を下ろし、枝の上で丸くなり、目を閉じてしまおうか。
風がやんでしまうまで。
青空に雨雲が広がるその時まで。
籠の中の鳥にもなれず、渡り鳥にもなれず。
今の私は恐れを知り、疲れを覚え、不安を身にまとっている。
胸躍らせた空への思いは、純粋なだけの幼きものだったのか。
握りしめた鞄に、羽ばたく力と意志を詰めこみ続けてきたのだ。
翼が無くともこの腕で空を飛んでみせると、ずっと空を仰ぎ見てきた。
さあ、斧を振りあげよう。
後に残る痛みは、飛び続けるための道標。
私は、臆病で、歪で、愚かな鳥だ。
風よ、どうか。
高く、高く。
町のすべてを見渡せるほどに。
丘の上の木が見えなくなるほどに。
空と海の狭間まで。