少しずつ変わる世界(4)
駆け出して、お互いに寸でのところで止まった。握った拳は肩口で発射を待つロケットのように固まっている。
「今の悲鳴ですよね?」僕がクロフォードさんに問うと、「ああ、あんな黄色い声援は受けたことがない」とクロフォードさんは校舎の中に向かって駆け出した。僕も同じくらいに駆け出す。
ドアの近くにいた詩織姉ちゃんもさっきまでの涙は跡だけになっていつもの凛とした顔になっていた。僕たちは悲鳴の主を探す。階段を三階まで降りたところでけたたましいブザーの音が耳に突き刺さった。校内にアナウンスが響き渡る。
「ただいま火災報知器が作動しました。校内にいる皆さんは速やかに付近の先生の指示に従って校庭へ避難してください。繰り返します。ただいま火災報知器が……」
僕たちはクロフォードさんに従って校庭を目指した。ほかの生徒たちもそれぞれ教員を先頭にしてぞろぞろと階段を下りていく。校庭に着くと、各クラスで点呼が行われていた。校舎は薄くではあるが煙が蔓延し始めているようで、窓ガラスから中が見えなくなりつつある。
稀有なことに生徒たちは少し興奮しているようでちょっと騒がしい。時折行われる避難訓練がまさか活用される日が来るとは思ってもみなかった。それはみんな同じだったらしい。
と、がやがやとしている声に紛れて「助けてー!」という声が聞こえた気がした。空耳かと思いつつも、校舎を見回す。校庭から見て左奥のほう、二階の一室の窓から女の子が身を乗り出していた。あそこは確か化学実験準備室だったはず。彼女の後ろから黒煙がもくもくとのろしのように上がっていた。さらに後ろでは照明に照らされるように赤々と火が勢いを増していた。
その時、僕は自分でも不思議に思ったけれど、体が勝手に動き出していた。足が勝手に前に出る。今なら体力テストでも高得点を取れる自信があった。先生たちの注意なんてもとより聞かず、クロフォードさんが制した手なんて振りほどいて、僕は校舎にひた走る。
校舎に入ると一目散に化学実験準備室に一番近い階段目掛けて走った。土にまみれた上履きは廊下を走るたびにじゃりじゃりと滑ったがそんなことで足は止められない。一段跳びに階段を駆け上がる。踊場なんてブイターンで消化して目指すのは二階の化学準備室。けれども二階に上ろうとしたときにはもう前が見えないほど煙が充満していた。眼が痛い。息が苦しい。思わずその場にしゃがみ込んだ。姿勢を低くして、壁に手を当てる。そしてまた走り出した。目的地は見えている。あの煌々と燃える炎の向うだ。
一番化学実験準備室に一番近い階段を上ったのはいいけれど、階段からずいぶんな距離があった。教室四つ分のその距離は煙と炎にまみれた今はとてつもなく遠く見えた。
だというのに、まっすぐな廊下をこんなに走るのなんていつぶりだろうなんて馬鹿なことを思う。きっと小学三年生くらいの時以来だろう。とその時、バーン! と目の前でガラスが散乱した。思わず後ろにのけぞった。
壁伝いに進もうと考えていたけれど、もうここから先は壁に手なんて付けられなかった。まるでレベルを上げるためか何か技を習得するがためのダンジョンのごとく、炎の道が出来上がっていた。僕の左右の壁を伝うようにして炎は燃え進んでいる。バチバチと何かが燃える音がする。
意を決して、覚悟を決めて、なるようになれと、そんなのに構わずに僕は走った。とにかく走った。この向こうの火元、化学準備室にまだだれかいる。その人を助けなくちゃ。
気分はまるで主人公だった。
こんな危機的状況なのになんだか興奮していた。
こんな危機的状況だからなんだか興奮していた。
僕なら出来るという自信があった。これはゲームでもなければ異世界でもないけれど、僕ならきっとこの先に行けると無鉄砲な根拠のない自信があった。
映画やヒーローのように走り過ぎてきた後ろで爆発が起きた。化学準備室に到着してようやくわかった。化学準備室と化学実験室をふさぐようにしてこの火事は起きていたのだった。だからそこからどんどん火は外へ向かって燃えていき、彼女は隔離されてあんなふうに窓から身を乗り出していたのだろう。
「大丈夫ですかー!」と声をかける。炎がごうごうと燃える。その音がうるさくて中で何か話しているのかわからなかった。「今からこのドアを蹴破ります! 近くにいたら離れてください! 五秒数えます!」
五、四、三、二、一。バックファイヤーでもなんでもかかってこい。僕は楽しい人生をつかむんだ。こんなところで死んでたまるか。思い切りドアを蹴飛ばした。蹴飛ばしてすぐ横にヘッドスライディングするようにして隠れた。巨大な火の玉が僕の横を通過した気がした。よく見れば上履きも制服のズボンの裾も焦げている。
「あっちいいい!!!!」思わず叫んでむせた。煙が肺に入って痛いし気持ち悪い。
立ち上がって中に入ろうとする。遠くの方でサイレンが聞こえた。目の前には僕より高く燃える炎があった。今更引くに引けない。思い切り突っ込んだ。体中が焼けるように熱い。いや、焼けていた。すぐに上の制服を脱ごうとした。ぶちぶちとボタンが飛び散ったが、そんなの気にしてられない。脱いだ制服を適当に放って部屋の中を見渡す。校庭から見た女の子が窓際でぐったりとしていた。すぐに駆け寄って彼女の腕を僕の肩に回して抱き上げる。
「ま、まだもう一人……」煙で焼けた喉でかすれた声でそう言った。もう一度ぐるりと部屋を見渡す。視界の隅に白い何かを見つけた。白衣だ。実験でもしていたのだろうか。少し待って、と抱き上げたその子をもう一度窓際に置いてその白衣のもとへ向かう。その子もまた女の子だった。けれどもその子は意識はないようだった。その子の腰から手をまわして担ぎ上げる。急いで窓際の子のもとへ走る。後ろでバタン! とビーカーやら実験道具が陳列された棚が倒れる音がした。間一髪だった。二人を両脇に担いで窓に上る。ここまでは完璧だった。
あとは。あとはどうしたらいい? もう入り口は燃えて何も見えなくなっていた。開け放たれた窓を見る。もうここしかない。
サイレンはまだ遠い。赤い車なんてどこにも見えない。校庭では全校生徒が並んでこちらを見ている。
飛ぶしかないのか。この窓から飛び降りるしかないのか。下を見る。結構高い。だいぶ高い。ここまで来て足がすくんだ。
よく見ると、体育館からクロフォードさんを筆頭にして先生たちがマットを運んできているところだった。もう少し待てるだろうか。背中が熱い。両脇に抱えた二人はもうぐったりとしていた。
ここまで来て、かっこつけたバカ野郎が女の子二人を結局助けられずに両手に華を持ったまま死んでしまうのは嫌だ。今までみたいに何もできないままなんて嫌だ。ここまで行動出来たんだ。あともう少しなんだ。もう一度下を見る。マットなんてなくたって、たった数メートルだろう。頭から落ちなければ骨折くらいで終わるだろう。
死にたくないし死なせたくない。だから僕は意を決して、思いっきり目をつぶって、窓にかけた足に力を入れて、ただ闇雲に跳んでみせた。
目を開けると、そこはマットの上だった。思い切り飛んだところでクロフォードさんたちが思い切りマットをぶん投げたらしい。奇跡的に僕が飛び降りたところにそのマットが届いたらしい。抱えていた脇にいる二人は無事だった。よかった。
と、ダーン! と化学実験準備室は爆発した。僕たちの目の前にガラスやら壁やらが落ちてきた。間一髪だった。どっと冷や汗が出てきた。
それから数分後に到着した救急車に二人は運ばれていった。救急隊員いわく、どうやら命に別状はないらしい。入院は避けられないだろうけれども。
僕も同じように救急車に乗せられて、市立病院へ運ばれていった。引率にクロフォードさんと詩織姉ちゃんが着いてきた。
病院についてまず医者の先生に呆れられた。一応精神的な問題も考えられますのでそちらも検査しましょうか、と嫌味を言われた。なんて医者だ。と思ったが、確かに問題であった。普通あんな火の海に入って行こうなんて思うわけがない。
そのあとの診察はあっけないもので、焦げた服を引っぺがされて、足首にある軽度の火傷、体中にところどころ、同じように軽度の火傷をみて、一酸化炭素中毒があるかちょろりと調べて、その程度で塗り薬をべったりと塗られてそれで終わった。しかし、その先生は一応、と一日入院させると言った。
あっという間に入院着を着て、個室に一人ベッドに横にされた。ベッドを椅子のように起き上がらせると、なにかあったら呼んでね、と看護師たちはさっさと部屋を出て行った。綺麗な人たちだった。
と詩織姉ちゃんにがつっと両手で頭を掴まれた。痛い。
「無事でよかった」
言ってることとやってることがむちゃくちゃだ。
「あんな危険なことは金輪際やらないと約束してくれ」
その眼は潤んでいた。目尻に涙を携えて、必死にそれを離すまいとこらえているようだった。
頷こうとしたらその掴んだ両手で強制的に頷かされた。痛え。それからその手を離して、いつものように頭を撫でられた。相変わらずドキッとした。
そしてこちらにむかって上体を傾けているからまた胸元が緩んで谷間が覗いていた。ガン見した。バカ野郎、だからガン見するんじゃねえよ。でもガン見した。これくらいいいじゃないか。
鼻の下を伸ばし始めたところで詩織姉ちゃんの後ろにどす黒い何かを感じて目が固まった。反らしたくないけれど、反らしたい。いや、反らしたいけれど反らせない。わからなくなった。
「無事で何よりだった」
一言、一文字がわかりやすく、聞きやすいほどはっきりと言われた。
そこには顔中に血管を浮き立たせてぶるぶると震えているクロフォードさんがいた。なのに表情は笑顔なので不気味だった。
身の危険を感じてどこか遠くに眼をやった。ちょうど窓の向こうには山々の陰に沈んでいく夕日が見えた。
「今日は天気がいいですね」
話を逸らそうとしたけれどまるで逸れなかった。大暴投もいいところだった。もう一度、クロフォードさんを見ると、浮き出た血管はこめかみ程度になっており、小さく、「詩織、やめなさい」と呟いている。
「お父様、タロウはよく頑張ったのですから、これくらいはしてもいいでしょう」
なおも詩織姉ちゃんは頭を撫で続ける。僕は犬じゃない。いや、嬉しいけれども、複雑な心境だ。
「ついさっき医者に聞いてきたんだがね、タロウくんは実は頭部にも火傷を負っているんだ。痛いのを無理しているんだよ」
「え、別に」
「痛いのを無理しているんだよ。無理しているんだ。苦しんでいる姿を詩織に見せて心配させたくないからね。それが、男の子というものだ」
食い気味にすごまれた。詩織姉ちゃんを納得させるというより、僕をそうだと断定するかのようだった。まるで獣のような目だった。この人は詩織姉ちゃんが絡むとまるで人が変わる。近いうちに僕は痛い目に遭うかもしれなかった(今も十分遭っているけれど)。
「そうなのか、タロウ」詩織姉ちゃんが心配そうに顔を近づけてきた。ドキッとしたが、視界の端でぎりぎりと歯を食いしばるクロフォードさんが見えたので背筋にたらりと脂汗をかいた。うん、と頷いた。クロフォードさんはそれでいい、というようにうなずいた。本当に怖え。
地震雷火事親父という言葉があるけれど、まさにそうだった。火事より後ろにあるのが疑問なほどに怖かった。
無理させてすまなかった、としょんぼりした詩織姉ちゃんに申し訳なくて、元気になったらまたね、と言ったが、それは失言だった。詩織姉ちゃんが嬉しそうにああ、と元気よく頷いたのはよかったけれど、クロフォードさんは余計なことをするな、と目で殺す勢いだった。
やべえと目を反らしていると、詩織姉ちゃんを少し後ろにやって、クロフォードさんが僕の前にやってきた。本当に殺されると目をぎゅっとつぶっていると、肩にぽんと手を置かれた。
「君はよくやってくれた。詩織のことじゃないぞ。それは断じて許していない。私が言っているのは彼女たちを助けてくれたことだ。君の無鉄砲さは褒められたものではない。危険だった。実に危険な行為だった。被害をさらに増やす行為だった。けれどもだ。君がいなければ、確実にあの二人の命はなかった。サイレンの音を聞いたろう。あのときずいぶんと遠かったのだから、あのまま待ち続けても間に合うなんてことはあり得なかった。だから君のおかげであの子たちは命を救われた。クロフォード・黎明双木学園理事長であるクロフォード・リム・ベイルとして、私は君に感謝を表する。本当にありがとう。よく、よくがんばった」
まるで、父親のような、優しい顔だった。テストで満点をとったときに、少年野球でヒットを打った時に、よくやったな、と頭をくしゃくしゃに少し痛いくらいに撫でたあの父親のような顔だった。
涙がこぼれそうになったのに気付いて、痛いですよ、と言って僕は目を伏せた。
本当にケガしていたのか、とあたふたしたクロフォードさんに、本当に、とはなんですか、と詩織姉ちゃんがぎろりと目で噛みついた。
助けてくれ、とこちらを見たクロフォードさんに、無理です、と微笑んで、僕はベッドに凭れて窓の外を見た。
向こうの山に少しだけ頭を出した夕日にさよならするように、濃紺な空には星が瞬き始めていた。聞きなれた軽自動車のエンジン音がしたので、多分母さんが来たのだろうと思って、目を閉じた。
以上、本日分の更新でした!