少しずつ変わる世界(3)
朝目覚めると、僕は自分のベッドの上にいた。枕元にある目覚まし時計をみると、ベルが鳴る一分前だった。そのまま電源を切ってやる。
眠い目をこすりながら起き上がって、机の上に開かれたノート群を見て一気に眠気はどこかへ行った。急いでそれをリュックに突っ込んで、制服に腕を通して階段を駆け下りる。
母親からの朝食の催促をあとで、と流して玄関を出て走った。駅に向かって走っているとき思い直したが、用意された朝ごはんを後で、食べるとしたらいつ食べることになるのだろう。悪いことをしたな。
とにかく走って駅に着いた。電車は運よく滑り込んできてくれて、僕はそれに乗り込んだ。前も後ろも右も左も人にすし詰めにされながら、どうにかリュックを前方に持ってきて、参考書を取り出す。隣の人に肘が当たって、すみませんと謝る。人を殺しそうな殺気を孕んだ目でにらまれた。もうやだ。
それにも負けずに一生懸命に頁を開く。春になって穏やかな天候が続いているので、外ももう寒くない。気温は充分暖かく、なのですし詰めのこの車内は蒸し風呂のように熱かった。
手汗がにじんで頁がしおれた。努力の証拠のような気がしてうれしかった。
高校の最寄り駅に着く。アナウンスが流れて、ぱしゅーとドアが開いた。結局今日、覚えられた単語は頁にして二頁ほどだった。
降ります、と大きな声で言いながら、人の波を割っていく。同じように荒波に揉まれている生徒たちが数人いたが、みんななかなか出口に進めないでいた。めんどくさそうにこちらを見るスーツ姿の老若男女に歯がゆい思いをしながらどうにか電車を降りた。
ふう、と一息つく。頭と肺に酸素が一気に染み渡る感覚があった。
一人、手に持った単語帳を開きながら高校に向かう。改札を出るときにビービーと太ももをぶつけた。定期券を見るともう期間を過ぎていて、どうやら入ることが出来るくらいには残高があったけれど、出る分はなかったようだ。
朝から不運だなあとチャージに向かう。あとで定期券も買わなくちゃ。
切符売り場につくと、二つある機械はどちらも人がいて、片方にはもう一人並んでいた。僕が並んだほうでは、携帯電話を耳と肩で挟みながらリクルートスーツ姿の男性がはい、はい、と返事を繰り返していた。急いでいるようで、手元はおぼつかない。
ちらりと後ろを振り向いて、僕と目が合った。その人はすごく申し訳なさそうな顔をして、頭を少し下げた。僕も頭を下げる。気にしないでください、と僕は思ったけれど、僕も後ろを振り向けばもう何人か後ろにいて、舌打ちをするような人もいた。急いだ方がいいかもしれない。
その人は電話と共にチャージも終えたようで、足早にそこからどいた。すみません、と泣きそうな頭を下げて走っていく。新社会人なのだろうか。僕もいつか、ああいう風になるのだろうか。大変そうだなあ。
そんなことを考えながらチャージした。財布から千円を取り出して、あっと思う。これをチャージしたら今日は学食で食べるお金はなかった。友達もいないのでお金を気軽に借りることもできない。いや、気軽に借りるものでもないけれど。
泣く泣く千円をチャージした。これで帰りも安心だ。とにかくうちに帰ることが出来れば十分だ。
とっととチャージを終わらせて改札に向かう。次はしっかり改札は僕を外に出してくれた。
教室についたのは七時二〇分だった。学生にしては早い登校だったので、教室にはまだ生徒の姿は二人くらいしかない。まだ名前を覚えていない二人に一応、おはよう、とあいさつをした。ふたりはちらりとこちらを向いただけで、また自分の机に顔を戻した。
そりゃそうだ。彼女たちは勉強に忙しいのだ。僕なんかよりよっぽど勉強が出来て、大学もランクの高いところを目指しているのだから、僕みたいなやつにあいさつする時間がもったいないだろう。
僕も自分の席について勉強を始める。英単語を覚える、この行為は今回においては付け焼刃にしかならないだろうけれど、来るべき大学受験のその日にはしっかりとした武器になるはずだと思いながら。
かりかりとノートに単語を書いていく。覚えるために必要なのは繰り返しだと聞いたから、何度となく繰り返して書いていく。朝のホームルームが始まる八時一五分にはノートは七頁ほど消化されていた。
なのに一時限目にあった英語の小テストは散々なものだった。英文の読解はそれなりに出来たものの、あれだけやった単語で少し躓いた。あてずっぽで覚えた単語が半分くらいしか出てこなかったのだ。結局感覚で解いたテストの点数は七六点と半端だった。
過ぎたことは仕方ないと二限三限四限とこなす。昼休みを告げるチャイムが校内に響き渡った。
そして四限の化学の高梨先生がいつも通り生気なくガラガラとドアを開けて教室を出ていった直後、ズバーンと大きな音を立ててドアが開け放たれた。それから「タロウはいるか!」と聞き覚えのある声が聞こえてきた。クラス中の皆がその人物を注視する。恐る恐るそちらを見やるとそこには詩織姉ちゃんがいた。案の定だった。タロウはいるか、と耳が聞き取った時点で薄々感づいていたけれど、紛れもない詩織姉ちゃんがそこにいた。
僕より前にいる生徒たちの隙間を縫って僕を見つけると、ゴールデンレトリバーのように喜んで僕のところへ一目散に、けれども品よく近づいてきた。みんながその姿を見ている。机の前にくると「お昼ご飯を食べに行こう」と宣言した。周りではひそひそと何か囁かれている。断る理由もないし、ここにいるのが気まずかったので僕は詩織姉ちゃんの申し出を受けて背中をついて行った。
後ろをついて歩いていると、詩織姉ちゃんが歩くたびに後ろで結われたポニーテールが右に左に揺れる。尻尾のようで可愛らしかった。僕の方が少しだけ、額分身長があるので詩織姉ちゃんを下に見るのだけれど、突然ふわっとポニーテールが今まで以上に揺れて、顔がこちらに向いた。それでふふふと笑われた。
どきっとした。急にそういうことをされると勘違いをしそうになる。また前を向いた詩織姉ちゃんに気を紛らわそうと「どこに向かっているの?」と尋ねた。詩織姉ちゃんは「屋上だ」とだけ言った。屋上は確か立ち入り禁止になっていなかったかと思っていると、
「実はお父様に頼み込んだのだ。今までは立ち入り禁止になっていたのだろう?」
とまたこちらを向いた。昨日あれだけの姿を見たものだからなるほど、納得だ。眼に入れても痛くないくらいの愛娘の願いであればきっと許可するだろう――僕や男の姿が隣にいなければ。
突然背筋がぞっとした。つかつかと歩く詩織姉ちゃんについて階段を上る。僕のクラス、二年三組の教室は二階にあり、三年生である詩織姉ちゃんのクラスのある三階を超え、なおも階段を上れば屋上に出る扉がそこにある。階段を上るとき、ようやく詩織姉ちゃんの左手にあるものに気づいた。
「それってお弁当?」
「そ、そうだ。あまり上手くできなかったのだが、コックの加藤さんや重さんに教えてもらいながら作ったんだ。口にあえばいいのだが……」
詩織姉ちゃんが風呂敷に包まれた重箱らしきものを大事そうに胸に抱えた。その頬は赤く、恥ずかしそうだ。よく見れば昨日見たときに綺麗だった指は絆創膏やテーピングがなされていて、よっぽど苦労したのだろうと思う。その姿を見て、どんな料理だろうとどんなに量が多かろうと僕は全部食べ切ろうと決意した。なにより朝ごはんも食べていなかったし、お金がなくてお昼も食べ損ねそうだったので、ありがたい申し出だったことに今気づいた。現金なやつ、と自嘲した。
そうこうしているうちに屋上へ出るドアの前についた。詩織姉ちゃんがかちゃりとドアノブをひねって扉を開ける。心地よい五月晴れの陽に眼が眩んだ。
「やはり来ると思っていたぞ山田太郎!!」
そしてそこには高級そうなスーツを屈強な筋肉に纏ったクロフォードさんがいた。嘘だろ、と言いたくなった。その言葉を飲み干していると、僕の隣で驚いて目を見開く詩織姉ちゃんに「こればかりはいくら可愛い娘の頼みであろうとも許可することはできん!」と断言してクロフォードさんはファイティングポーズを取った。パッツパツの二の腕は少しでも力を加えればスーツも下のワイシャツも破れてしまいそうなほど存在感がある。それは胸筋も太ももも同じだった。あれにぶつかられたらひとたまりもない。確実に僕は保健室を通過して――もしかすると直行かもしれないけれど――病院へ搬送されること間違いなしだ。
「お父様!」と詩織姉ちゃんが叫ぶ。見逃してくれるかと思いきや、クロフォードさんは「詩織、これは男と男の戦いなのだ」と真剣な面持ちで詩織姉ちゃんを諭し始めた。そうしながらも僕との間合いを調整するかのように動いている。
「詩織。私は今まで君を愛情込めて大切に育ててきた。しかし君ももう一八になる。恋の一つや二つ、私もそれくらいの歳にはあったものだ。だからこそ、私は心を鬼にしてタロウくんを試さなければならない。愛する我が子を託せる男かどうか。愛する詩織を私の代わりに守れるような男かどうかを!」
そんなバカな。まさか今日、お昼休みにこんな壮大な戦いに巻き込まれるだなんて思ってもみなかった。助けを求めてさっと詩織姉ちゃんを見る。
「そうだったのですね、お父様。お父様の思惑も何も知らずに分かろうともせずに怒鳴ってしまったことをお許しください。タロウ、これは私とタロウのための戦いだ。大丈夫。私はタロウが勝つと信じているよ」
そんなバカな。そんなバカな! 五月の暖かい陽気はどこまで人を陽気にさせれば気が済むのだ。僕は全然陽気じゃない。もはや氷点下だ。背筋は十二分に凍っていた。
助けを求めた相手はさらっとあちらに寝返って、僕は一人この状況をどうやって切り抜ければいいのかわからなくて頭がおかしくなりそうだった。さっきまで浮かれて伸ばしていた鼻の下なんてもう縮み切って鼻と口が合体しそうだ。
「さあ、タロウくん。ニッポンには”武士道”があると聞く。それは今も根強く日本人の心に生きているのだろう? ならば剣を取れ! 拳を握れ! 男なら大切なものはその手で勝ち取ってみせよ!!!!」
本物の鬼のように見えるクロフォードさんがそう僕に叫ぶ。僕の隣にいる詩織姉ちゃんと言えばなぜか感涙していた。どうしてこうなってしまったんだ。これもあのロキがくれた力の影響なのだろうか。何が女の子を侍らせる能力だ。筋骨隆々のクロフォードさんがおまけで付いてきたじゃないか。おまけなんてもんじゃない、もはやシークレットの部類だ。ちくしょう、楽しい人生ってなんなんだ。こんなはちゃめちゃが楽しいのか。
楽しいのか。
そうか、楽しいんだ。今までなんの変哲もなく日常は流れていたけれど、確かに昨日、一日で僕の人生は変わったんだ。今までだったら昼休みに僕のもとへ誰もやってこないし、こうやって屋上にも来ない。それに隣にこんなに美人なお姉さんはいないし、そんなお姉さんのためにそのお姉さんの父親(強烈なまでに屈強)とも戦うことになんてならない。これははた迷惑だけれど、確かに僕の人生はここにきて超加速的に変わってきている。なんだかうれしくて笑いが込み上げてきた。それと一緒に目頭が熱くなった。バカみたいに笑えそうだ。バカに泣けそうだ。いや、もう笑っていたし泣いていた。
「だ、大丈夫か?」と僕のへんてこな様子を見て詩織姉ちゃんが心配してくれる。今までだったらそんな人は隣にいなかった。クロフォードさんもなにかしでかしてしまったかと思ったらしく、困った顔で寄ってきてくれた。
よし、と覚悟を決めた。だったらやってやろうじゃないか。僕は楽しい人生を手に入れる。こんな風にはちゃめちゃで、けれども僕の心が躍るような、そんな人生を手にいれる。
僕は寄ってきてくれたクロフォードさんに右手を出して制した。左腕で涙を拭う。きっとその顔はお世辞にも決まっているとは言えなかったことだろう。涙と鼻水でぐしょぐしょになったその顔で、僕は精一杯に決めてやる。
「勝負ですクロフォードさん! 僕はあなたに勝ってみせます! 詩織姉ちゃんは僕が守る!」
「よくぞ言った! タロウくん、全力でかかってきなさい。私も全力で戦わせてもらう!」
完全にその場の雰囲気に流されていた。バカだった。だがそれがどうした。
クロフォードさんが再び構える。僕も負けじと構えてみた。ケンカなんてやったことはないけれど、格ゲーなら少し触ったことがある。要はあんな感じで戦えばいいのだろう。お互いにバチバチと視線がぶつかる。何か合図を待つように、一歩、また一歩と間合いを調整しながら時計回りに動く。そしてその時は来た。
「ギヤァァァァァ!!!!」という悲鳴を合図に僕たちはお互いに駆け出した。