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第一章:少しずつ変わる世界(1)

 


 気が付くと僕はさっきと同じように地下鉄のホームに立っていた。立ちながら眠っていたみたいで知らぬ間に疲れていたのかなと思う。どさりと音を立てて落ちていたセカンドバッグを手にとる。バッグを持ち直したところでホームにアナウンスが流れた。


 ホーム端から車両がブレーキ音を立てて進入してくる。目の前にドアがついて、開いた。車内に入ると、帰宅ラッシュから外れていたようで座席はだいぶ空いていた。端の席に座って、前に持ってきたリュックから参考書を取り出す。明日の英語の小テストに合わせて単語帳をずっと見る。けれども僕の頭の中はさっきのことでいっぱいだった。


 あれは夢なのか、それとも現実なのか。夢だとしたらずいぶんと僕は小説やいわゆる二次元に逃避行したいらしい。人並みに見ているくらいなのに、心のどこかで憧れていたのかもしれない。もしあれが現実だとしたら。いや、現実なわけがない。そんな話はどこでも聞いたことがない。たとえば都市伝説で異世界に行っただとかそういうことを目にすることはあるけれど、あんな眉唾物は参考にならない。ありえないものを信じたところで、と思う。


 いや、今は明日の小テストに集中しよう。単語を覚えなくちゃいけない。範囲は未定なものだからすごく困る。それでも僕は高校生だから勉強が仕事だ。やらなくちゃ。また半端な成績を取ってしまったら鼻で笑われる姿が目に浮かぶ。


 開いたままの耳に次の駅名のアナウンスが入ってくる。あと二駅したら乗り換えだ。ぷしゅーと音がしてドアが開く。ぞろぞろと乗ってきた人の足が見える。


 集中しなおして単語帳を見る。読んで覚えようともう一度見直す。単語帳を七頁ほど進めたところで、隣に座った人が気になった。何で気になったのかは自分でもわからないけれど、なんとなく気になって横を見る。


 するとそこに可憐な美人がいた。それに眼が合った。まつげは上も下も長く凛として、はっきりとした目元をしている。思わずどきっとした。心臓が跳ねた。肩甲骨あたりまで伸びた長い黒髪はつややかで、ひとつに結われている。僕の在学している高校の制服を着ているから同じ高校の生徒であることはわかったけれども、こんな美人がうちの高校にいたなんて驚きだ。いつまでも見ていては変な人だと思われるからさっと目をまた単語帳に戻した。


 少しして、「タロウ」と声をかけられた。どこから声をかけられたのか分からなくて無視をした。すると横から太ももに手を置かれて、もう一度「タロウ」と呼ばれた。えっ、と声が上ずる。人もまばらな車内で近くにいた何人かが僕の方を見た。すごく恥ずかしい。顔から火が出る勢いで真っ赤になっていくのがわかった。顔がものすごく熱い。恐る恐る横を見る。ついさっき眼があった美人が僕をしっかりと見ている。


 何だこの状況は。僕とこの人の接点はどこにある。必死になって記憶を引っ張り出してがしゃがしゃ漁っていると、「忘れてしまったのか?」と涙目になってこちらを見ていた。周りはなんだかぶつぶつと騒々しい。痴話喧嘩か? とか感じ悪いとかいろいろ好き放題言われている。なんなんだこの状況はと心の中で叫ぶ。僕の中で処理が追いつかない。


 一度しっかりとその彼女を見た。僕の方に前かがみになって少しゆるんだ胸元から谷間が覗いていた。ガン見する。バカ野郎ガン見するな。なにしてんだと視線を上げる。綺麗な顔をしていた。すらっとしたその鼻筋。きりっとした目尻。その目元にある涙黒子。淡い桃色をした薄い唇。和風美人だ。ほっそりとした腕が伸びて僕の太ももにおかれたその手もまたすらりとしている。指まで綺麗だった。膝より少し上まであげたスカートから覗くその足は黒いタイツでより締まって見えた。そしてその豊満な胸元。思わずガン見する。


 いや、ガン見してる場合じゃない。この人は本当に誰だ。僕はこの人を知っているのか? いつどこで知り合った? 再び記憶を漁る。どこにもこの人の姿はない。


「そうだよな、私もずいぶんと成長したし、覚えていないのも無理はないだろう」

「え?」成長した? ということはもっと昔、幼いころの記憶か。ともっと漁る。そして見つけた。


 その涙黒子。

 幼いころ、まだ小学生になったばかりくらいに、近所に一人女の子がいた。確か僕よりひとつ年上で、いつもお姉ちゃんに任せなさいと言っていた子だった。けれども僕が小学三年生かそこらになったとき、ある日突然いなくなった。両親から引っ越したのだと聞いて、それを理解したのはもう一年くらい後だった。


「詩織、姉ちゃん?」


 その名前を聞いて、目の前のその人はぱあっと顔を子供のように輝かせて、僕の頭を撫でた。


「よくできました」


 その当時もそうだった。なにか出来るたびによくできましたと言って頭を撫でてくれた記憶がよみがえる。あのころのように今も頭を撫で続けている。


「あの」僕は顔を伏せる。周りの目が痛い。ひどく痛い。なんなんだあいつらとこちらを睨む眼が言っている。「どうした?」と優しく聞いてくる詩織姉ちゃんに意を決して僕は「もういいよ」と言った。けれども詩織姉ちゃんは何がいいのかわからないようできょとんとしてなお頭を撫で続ける。


「いや、あの、だから」

「ん?」

「もう頭なでるのやめて」

「えっ……」


 処刑宣告でも受けたのかというくらい絶望した顔で目を見開いてこっちを見ている。なんでだ。言い方がきつかったのだろうか。


「いや、人がいるからさ。みんなこっち見てるし。ね」

「そう、だよな。久しぶりにタロウに会えたものだからうれしくなって。すまない」


 まるで叱られた犬のようにしょげてしまった詩織姉ちゃんをどうしたらいいのかわからなくて、ちょうど降りる駅になったからその手をつかんで一緒に降りた。周りの目から逃れられて安心した。すたすたと駅を後にする。「タロウ」とまた呼ばれた。「何?」と返すと、「腕が痛い」と言われた。あっと手を離す。ずっとつかんでいた。振り返って詩織姉ちゃんを見る。


「ごめん、強く掴んじゃった」


 僕が頭を下げると、詩織姉ちゃんは頭を横に振って、「いいんだ」と言った。


「タロウが成長しているのがわかって、お姉ちゃんは嬉しいよ」

「そりゃ、僕だってもう高校二年生だし。あの、本当にごめんね」


 また僕は恥ずかしくなって目をそらす。横目でちらっと詩織姉ちゃんの顔を見ると、にこやかにしていた。


「なに?」と僕は尋ねる。


「タロウに会えてうれしいんだ。もう一〇年振りくらいになるだろう?」

「そっか、もうそれくらいになるのか。よく僕だってわかったね」

「当たり前だろう。私はお姉ちゃんだぞ。わからないわけがない」そう言って詩織姉ちゃんは胸を張った。でかい。

「僕も、詩織姉ちゃんに会えてうれしいよ」


 と言ったとたんだった。ドンっドンっと体に衝撃が走った。何が起きたのか分からなかった。よく見たら僕の体は歩いていた歩道横にある家の石垣にぶつかっていて、詩織姉ちゃんに抱きしめられていた。ひとつめの衝撃が詩織姉ちゃんで、二つ目の衝撃がその石垣にぶつかったのだと理解した。にしても痛い。「タロウ―、タロウ―」と熱にうなされているかのように僕の名前を呼び続ける。ちゃりんちゃりんと自転車のベルが鳴って隣をおじいさんが通って行った。「若いって素晴らしい」なんて言っていた。うるせえ余計なお世話だ。

 そういえば、勢いに任せてここまで連れてきたけれど、詩織姉ちゃんの家はどこなのだろう。


「詩織姉ちゃん?」

「どうしたー?」と耳でささやかれる。なんなんだこの状況は。と何度目かに思いながら「家はどこなの?」と聞いた。

「それはタロウの家の隣だ」

「隣?」

「最近あそこらへん一体をずっと工事していなかったか?」


 その言葉で思い出す。すごく工事をしていた気がする。何がすごくかと言えば、すごく広い土地で工事をしていた。普通の一軒家である我が家の一〇倍くらいの広大な土地が、ある日突然買い取られて庭や豪勢な家が建築されていた。まさかその家が詩織姉ちゃんの住む家だとは夢にも思っていなかったが。


「そういえばどうして急にこっちに越してきたの? もう高校三年生だよね? いろいろ大変なんじゃ」

「ああ、言っていなかったな。実は私の父がこの高校の理事長になったんだ。それで聞いてみればタロウがいるというじゃないか。だから越してきた」

「なんだって」


 思わずまた心の声が漏れていた。とんでもない話になってきたぞ。あれ、と何か引っかかった。自分の記憶がぐちゃぐちゃになっているような気がしてきた。


 隣は橋本さん家で、普通の一軒家だった気もする。

 つい最近までうちの隣で工事なんてしていたか? 自分の記憶があやふやな気がして少し怖い。




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