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もうひとつのゼウスの魂の欠片

あとで少し書き直し入りますのでご容赦をば!

 


『もうひとつのゼウスの魂の欠片』




 その男はおそらく平々凡々な人間だったように思う。齢は二〇を過ぎたころで、そろそろ就職活動も限界を迎えるころだった。

 並みな人生を送ってきたと自負する彼は、特にこれと言った資格や才覚を持ち合わせておらず、昨年、教授の好意でどうにか受けることが出来たインターンシップでは企業側から軒並み薄ら笑いを浮かべられ、大学を卒業するまでに就職をすることは叶わなかった。


 仕方ない、就職難なのだ、と自分に言い聞かせて毎日面接とアルバイトを繰り返す。

 いっそここに就職してくれたらいいのに、と言ってくれていたアルバイト先の店長が倒れたのは彼が卒論を提出したその日だった。個人経営だったその洋食屋は立ち行かなくなり、店長の奥さんから申し訳ないけれど、と頭を下げられて、いつもより少し多い給料をもらってからは無給でその店の手伝いをしていた。といっても、そこにいけばご飯は食べられるし、何より店長夫婦の人がいいので、なんだかんだと少しばかりの駄賃はもらえていた。


 生活は苦しいけれど、その二人のおかげで彼は先の見えない就職活動に励めていた。ところが、彼の大学卒業間際、店をつぶすわけにはいかないと必死になって調理場に立ち続けていた奥さんも連日の無理がたたって倒れてしまった。


 特に料理の腕があるわけでもない彼はもうどうすることもできず、その店にはシャッターが降り、「しばらくの間お休みさせていただきます」と書かれた張り紙があった。

 彼は日雇いのアルバイトでどうにか毎日をしのぎながら二人の入院する病院に足を運ぶくらいしかできなかった。


 顔を合わせるたびに今回の面接はどうだったのかと心配そうに聞いてくる二人に、彼はいつもどうにかなりそうです、と言って、花を一本差し入れていた。どんな花がいいのかわからないから、とにかくその日花屋で見かけた綺麗な花を買って、二人の病室に飾る。いつも二人は優しい笑顔でありがとうと感謝してくれていた。


 上京してきて初めての一人暮らしで、右も左もわからず困っていた彼を助けてくれたのはこの二人だった。何度目かもわからないバイト先からの今回は縁がなかったという連絡を受けて、泣きそうになりながらとぼとぼと歩いているところで、その店を見つけた。両親に泣きつこうと思ったことは何度もあったが、無理をして大学まで通わせてくれていることは充分にわかっていたのでその踏ん切りはつかなかった。もう何日まともな食事をしていないのか分からないところで、その店からとても空腹を刺激する匂いが漂ってきた。


 財布を取り出して中を見るとどうにか五〇〇円ある。店先に置かれた黒板には”定食、学生割五〇〇円(税込)”と書いてあった。彼は一目散にその店へ入って行った。

 夕食時から少し早い店内には客はおらず、ことことと音を立てる鍋とにらめっこしている眼鏡をかけた店主と、せっせとテーブルを拭いて、調味料や紙ナプキンを補充する白い三角巾を頭につけて少しころころとしたその奥さんがいた。彼を見つけると、いらっしゃい、と声をかけてくる。奥さんが彼を席まで案内して、コップになみなみと注がれたよく冷えた水とメニューを渡した。


 彼は渡されたメニューを目を泳がせながらすべて見た。どれが一番満腹にしてくれるのだろうかと思いながら、一生懸命になって見た。目に留まったのはやはり定食の欄だった。お代わり自由と書いてある。これだ、と思った彼は、奥さんを呼んで、デミグラスハンバーグ定食を注文した。


 奥さんが注文を厨房の店主に向かって言うと、店主は軽い返事をしてハンバーグを形成し始めた。ほかに人はいないものだから、厨房の方からの音はよく聞こえてくる。

 ことこととデミグラスソースが煮込まれている音、ハンバーグのパテをぺちぺちと叩く小気味のいい音、盛り合わせのフライドポテトがあげられる音に、ニンジンが切られる音もした。それから匂いがたまらなかった。腹の虫が鳴いて仕方なかった。ごくりと唾を飲み込む。


 一五分ほどして、お待たせしました、と奥さんが定食を持ってきてくれた。お膳の上には、深い色をしたデミグラスソースがまんべんなくかけられた肉厚なハンバーグ、その横には付け合わせのフライドポテトとニンジンがのったプレートと、茶碗いっぱいによそわれたご飯、それから温かい味噌汁、そしてサラダの入った小鉢があった。


 たんと召し上がれ、と奥さんはにっこりして言うと、自分の仕事に戻って行った。

 彼は一口めをどれにしようか迷いながら、箸を持った。口の中では涎が延々と洪水を引き起こしていた。彼はまずハンバーグを食べることにした。箸で一口大に切り分けて、食べる。口の中で肉汁が溢れた。デミグラスソースの酸味とコクが更に口の中でさっと広がる。彼は茶碗を持ってご飯を一口運んだ。それからもう一口ご飯を運んで、またハンバーグを切り分けて食べる。またご飯を食べる。またハンバーグを、それからご飯を、と口いっぱいにほおばって膨らんだ彼の頬は濡れていた。


 うっうっと背中を震わせながら、また一口、もう一口と進める。最初に彼のその姿に気づいたのは奥さんだった。何事かと寄っていくと、彼が泣いているようだったので、奥さんは隣の席に座って、優しく背中を撫でてくれた。店主も厨房から出てきて、奥さんとは反対の彼の隣の席に座って、ゆっくり食べていいんだよ、となだめた。


 彼は我慢が出来なくなって、ひとしきり泣いた。もったいないからと口の中に放り込んだものは飲み干して、ワンワンと泣いた。それを見て店主夫婦は顔を見合わせて困った表情を浮かべた。一体なにがあったのだろう、と心配な面持ちになる。


 ひとしきり泣いて落ち着いた彼は、二人に話し始めた。大学に通うために上京してきたはいいがなかなかアルバイトが決まらず生活に困っていること、そのため、かれこれ一か月はもうちゃんとしたご飯を食べていなかったこと。アルバイトが決まるまでは我慢する、と思っていたけれど、ついさっきまた不採用の連絡があって、落ち込んでいたところにこの店を見つけたこと。美味しそうな匂いに誘われて我慢できずに店に入ってしまったこと。そして、ご飯が美味しくて、温かくて、何だか知らないけれど涙が止まらなくなってしまったこと。


 たどたどしく、しゃっくりを途中に挟みながら話す彼を二人は優しい目で見ていた。ただただ相槌を打って、彼の中からあふれてくる言葉を止めないように、受け取るように聞いていた。


 すべてを話し終わって、彼が目をこすったところで、店主は立ち上がり、厨房へ向かった。冷める前に食べな、と促して。

 奥さんがしっかり噛んで食べるんだよ、と彼に言う。おかわりだってあるんだから、とまた優しく微笑んだ。

 彼はこそばゆい感情を抱きながら、定食を食べ進めた。とにかく美味しくて、優しくて、温かい味がした。


 お代わりください、と小さくお椀を差し出すと、大盛がいい? と奥さんが尋ねてきた。こくり、と首を縦に動かすと、ちょっと待っててね、とご飯をよそいに行った。


 すると奥さんはご飯と一緒にまたプレートを持ってきた。それは鉄板で、じゅうじゅうと牛肉が焼かれていた。彼は目をぱちくりと瞬かせた。

 これも食べていいんだよ、と奥さんが差し出す。その後ろから、ナイフとフォークを忘れてたね、と店主がナイフとフォークを持ってやってきた。

 彼はお金が、と言ったが、店主がうちで働いてくれればいいさ、とウインクをした。

 ちょうど働き手を増やしたいと思っていたんだ、と店主がいうと、奥さんは手を叩いてそうそうと同調した。

 そうして、彼は二人に助けられたのである。助けてもらって、どうにかこうにか大学の四年間、彼はこの東京で孤独を味わずに生きてきたのである。

 店主夫婦は子宝に恵まれず、年齢も四〇を超えたため、子供は諦めていたので、彼に出会ったのはまるで運命のように感じていたのだった。




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