第2章第2話
津坂郡攻略が間近に迫り、黄瀬川家は急に慌しさを増していた。
城を下がった香坂と坂田の二人もいくさの準備に余念がなかった。
香坂と坂田は共にすでに親はなく足軽の集る貧乏長屋で一人暮しであった。
「よお、起きておるか」
と、坂田が香坂の家にやって来たのは昼過ぎ近くのことだ。
香坂は四重半一間の部屋に大仏のように坐っていた。
「なんだ信介か」
「なんだはないだろう。どうした? 誰か待ち人でもおるのか?」
坂田はニヤニヤしながら訊いた。
「決まっておろう。城代様の遣いを待っておる」
「十蔵……」
と、坂田は呆れた顔をした。
「お主は何者だ。有名な武芸者にでもなったつもりか。こんな貧乏長屋にわざわざ城代様の遣いがやってくるわけはなかろう」
「しかし、源太郎様の取り成しもあったではないか。少しは期待してもいいのではないか?」
「それがいかんのだ。お主は出世というものを分かっていない。功名を掴みたければ最後の最後まであきらめてはいかん。その手に欲していた果実を手に掴むまでは手を休めてはいかんのだ」
「では、信介は、城代様の遣いは来ぬ、と思っているのか?」
「ああ。そうだ」
「それではどうする? 我らの出陣はどうなる?」
「出陣はする。必ずな」
「どうやって?」
「遣いが来ぬなら、こちらか出向けばよい。城代様へ催促するのだ」
「またか……」
「なにを落ちこむことがある。この度のいくさは黄瀬川勢が総掛りで取り組むことになる。兵はいくらあっても足らぬのだから我らの出番も廻って来ようというものだ」
「どうしたらそこまで前向きになれるか。信介、わしはそなたが羨ましい」
「フフン。そう誉めるな。安心しろ。我らにも運が巡ってきたのだ」
「別に誉めてはおらんが……。まあいいか。で、用はなんだったのだ?」
「おう! そうであった。忘れるところだった」
坂田は慌てて家の外へ顔を出した。
「おいおい、こちらじゃ。待たせて悪かった」
と、誰かに声をかけている。
「信介。誰だ? 客人か?」
「先ほど、わしのところへ参ってお主に合わせろというのだ。話ならわしが聞いてやってもよいというのに、お主でなければ困ると言い張ってな。おかしな娘だ」
「娘?」
十蔵の前に現れたのは鈴だった。
「お前は……」
「鈴でございます。突然押しかけてしまって申し訳ありません」
鈴は畏まって挨拶した。
四畳半の部屋に二人の男と娘が一人。
鈴はむさ苦しい二人の男を前にして口篭もっていた。
口火を切ったのは坂田だった。
「十蔵。お主の家へ女があがったのは何年振りだ?」
「なっ、なにを言うか。そのような話は関係なかろう」
「いやいや。いつの間に二人がデキておったのかと不思議での」
「デキてなどない。そうだな、お鈴。ハッキリとこの男に言ってやれ」
鈴はクリクリとした目で坂田を見つめた。
「香坂様と私はデキてなどおりません!」
坂田は目を瞬かせて頭を掻いた。
「お鈴。そこまでハッキリ言わなくていいのだ……」
と、香坂は困ったように言った。
「申し訳ありません」
「いや、謝ることでもない。それでは用件を聞こうか」
「はい」
鈴は懐からお守りを取り出した。
「これを源太郎様にお届けしては頂けないでしょうか?」
鈴が見せたのはどこにでもあるような神社のお守りだった。
「これを源太郎様に?」
香坂は訊いた。
「はい。このお守りは村の近くにある神社のものです。源太郎様のご無事をお帰りをお祈りするために戴いてきました」
「それは良い心掛けであったな。分かった。このお守りは源太郎様に必ずお渡し致そう」
「ありがとうございます」
緊張が解けたのか鈴の顔がパッと明るくなった。
――この娘も思えば不憫かもしれんな。
香坂は懐にお守りをしまいながら思った。
「考えてみれば、我らよりお鈴の方が源太郎様のことは見知っていておかしくないのだな。どうだ、お鈴は源太郎様に会えずに寂しかろう。いくさの前にもう一度お会いしたいとは思わんか?」
「それはもうよいのです」
鈴は哀しげに首を振った。
「村でお支度を手伝わせて頂いたときにお別れはしたつもりです」
「なぜだ? 源太郎様もお鈴のことを大事にしておったではないか。お鈴が望めば、これからも源太郎様のお世話をする機会もあると思うが」
「もうよいのです。本当に。源太郎様が村を出るとき、お支度させて頂いて分かったのです。源太郎様とはもう住む世界が違うのだと。源太郎様は立派なお方です。黄瀬川十万石の御当主様なのです。鍬を振るって一生を送るなど考えられなかったのです。それを分かっていたはずなのに……」
鈴は大きな目からポロポロと涙をこぼした。
「香坂様、坂田様。どうか源太郎様をお守り下さい。源太郎様は、いつも家臣領民のことを考えておいででした。江崎の民を豊かにするにはどうすればいいか。陸後の地を平安に導くにはどうすればいいのか。毎日毎日思いを巡らせておられました。そして自分の非力さを嘆かれていました。源太郎様は必ず立派な大名となられます。どうかどうか源太郎様をお守りしてくださいませ!」
鈴は畳に頭をつけて泣いていた。
香坂と坂田は声をかけることもできず、ただ神妙な面持ちで鈴の泣き声を聞いていた。