第1章第1話
香坂十蔵と坂田信介の二人は明け方早く足軽長屋を出て町外れの辻で待ち合わせると、急ぐふうでもなく山裾に近い集落へ向かった。
高木も坂田も身なりは貧しいが大刀を腰に差した武士だった。
目的の集落は十軒足らずの見るからに寂れた寒村である。
すでに稲刈りも終わり、秋の気配も深まりつつある季節になっている。
「なあ、十蔵。このような暮し、いつまで続くのであろうか?」
集落まであと少しに近づいた頃、坂田が呟くように訊ねた。
「源太郎様のことか?」
香坂は訊き返したが、坂田は即座に首を横に振った。
「違う! 我らのことだ」
「我ら……と言われても我らにはどうすることもできまい。粛々とお役目を果たすだけだ」
「お主はそれで不満はないのか? 毎日毎日、このようなことをしておっては出世の見込みはあるまい。聞くところによると、赤松と黒金のいくさも膠着状態というではないか。噂では近いうちに赤松の殿様から我らが城にもお呼びが掛かるようだ」
「その話、どこで聞いた?」
「ど、どこでもよかろう……。いくさが始まれば我らにも手柄をあげる機会が巡ってくるやもしれんぞ。十蔵は剣の達人。わしも腕を磨いておかねばならぬこのときに、つまらぬ見張り番とは」
「つまらぬと言うな、信介。城代様より直に仰せつかった大事なお役目ぞ」
「わかっておる。源太郎様は時が時であれば我らの殿になられたかもしれんお方だ。しかしだ、源太郎様のお傍で見張り番では、いくさに加わる機会が与えられるとは思えん。いくさが始まっても我らは留守居役を務めることになるだけではないか?」
「確かにそうであろうな」
「それでは困る! それではいつまでもこの貧乏暮しから抜け出すことができぬではないか!」
「信介は今の暮しに不満か?」
「愚かな。当たり前のことを訊くな」
「そうか――」
香坂は意味深に溜息をついた。
坂田は目を丸くして言った。
「十蔵。お主、まさか……今の暮しで満足しておるというつもりではないだろうな?」
「ああ。それで困っておる」
「なにが困るのだ? お主、最近様子がおかしいぞ。まさか源太郎様と密かに通じておるのではあるまいな?」
「そのようなことはない。あるはずがない。そのようなことが出来ないのはお主が一番わかっておるではないか」
「確かにそうだが……。それにしても近頃の十蔵の態度には腑に落ちぬことが多い。重い物患いのようじゃ」
「フフ……確かにそうかもしれん」
香坂は自棄するような笑みを浮かべた。
「信介。我らが源太郎様のお傍について何年になるか。源太郎様は今年で二十歳になられる。生後すぐに預けられた寺を十五で出されてからゆえ、約五年になるか。その間、我らは源太郎様の隠居同然の暮しのすべてを見て参った」
「左様。我らは五年もの間、源太郎様の畑仕事を見ておっただけだ。なんと無駄な務めであろうか!」
「源太郎様は、先の赤松との戦いで先君である父君と二人の兄君、そして母君を亡くされた。先君直系で生き残ったのは源太郎様お一人。それが戦国の習いとは言え、お労しいことだ」
「しかし、我らが失ったものも大きい。先君のお命と引き換えに黄瀬川家十万石は残ったが領地の半分は召し上げられたまま。我らの家禄は半減、他家へ仕官した者も多い」
「源太郎様は、その罪を一身に受けられているように見受けられてな……」
「情けをかけたか、十蔵」
「いや、そうではない。ただ、源太郎様が田畑で鍬を振るう姿に感じ入るところがあるというだけだ」
「ほら、それが情けをかけた証拠」
「いやいや、そうではない。ただ、わしは源太郎様の暮しが平穏であれば――」
「止めておけ。いくら源太郎様に情けをかけたところで出世に結びつくはずはない。それどころか害になるやもしれん。城代様もただ情けをかけて源太郎様に見張りをつけているわけではなし、なにか起これば我らは厳しく対処せねばなるまい」
そこまで言って、坂田はハッと息を呑んだ。
「十蔵。お主、なにか知っておるのではないか? 城代様から密かに言い渡されたことがあるのではないのか!」
「そのようなことはない。あれば真っ先にそなたに伝えておる」
「それなら良いが……」
坂田は横目で香坂の顔を眺めた。
香坂の顔は暗く、深刻な表情だった。
「だが……時の流れというものには逆らえない力がある……」
香坂はポツリと呟くと立ち止まった。
道の先に目的の集落が見えた。
集落の中で一番大きな家から、ちょうど人が出てくるところだった。
家から出てきたのは背の高い体格の良い若者だ。
手には鍬が握られ、腰紐には鎌が刺さっている。
若者は誰かを待っている様子で、家の方を振り返っている。
しばらくすると、年の頃が十五、六の村娘が家から現れた。
村娘は屈託なく若者に笑いかけた。
二人は連れ立って田畑の方へと歩いていく。
「我らも行くか」
坂田は言って歩き出した。
「ああ」
香坂も釣られるように歩き出したが、その視線は精悍な若者に成長した黄瀬川源太郎忠正と村娘に注がれたままだった。