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冬至生まれと夏至生まれ

作者:


 午後の授業、しかも美術に、身の入る生徒は少ない。気怠い昼食後の気配に、誰も彼も、筆が泳いでしまっている。

 静物デッサンの授業特有の、紙の上で動く鉛筆の芯が、独特の音を教室に響かせている。

 美術室は学科の本棟から離れているため、終業の鐘がごく小さく聞こえる。眠気はあっても耳聡い生徒は、その微かな音を聞き逃さなかった。

「あ、先生、チャイム鳴ったよ!」

 教師も、指導の手を止めて、本棟から響いてくる鐘の音に耳を澄ます。

「おお、終わったな。じゃあ各自、次回もこのデッサンの続きやるからな。覚えとけよー」

 はーい、と散発的な返事が返る。生徒は素早くスケッチブックを仕舞い、鉛筆と練り消しを大雑把に筆箱に詰めていく。

「きりーつ、れい!」

「ありがとうございました!」

「おお、お疲れさん」

 大体の生徒が片付けを終えた頃を見計らって、日直が礼と挨拶の唱和を主導した。教師も礼を返して、授業は終わった。

「ん?」

 女生徒の一人が、まだ授業中です、とでもいうように、道具を片付ける様子もなく、黙々と紙に向かって鉛筆を走らせている。

 腰まで届きそうな長い黒髪を、首の後ろで黒ゴムで纏めるだけという、簡素な髪形。背筋がピンと伸びており、教師は近年稀にみる正しいデッサン姿勢に目を見張る。

「おら、授業終わっ――」

 てるぞ、までの言葉が、続かなかった。彼女の描くデッサンの全体像を、教師がその目に映したからだ。

 彼女はきっと、どこかの絵画教室で学んだ経験があるのだろう。この一時間で既に完成間近まで描ける手の速さといい、静物を縁どる描線の正確さといい、それ専門で実践をある程度積んできた者の技術が、そこに表現されていた。

「あ、もう終わりですか?」

 教師の声に反応した女生徒は、振り返って教師に問いかけた。しかし教師からの応答がないため、不思議そうに彼を見返す。

「……お前、」

 教師は、気合いのこもった瞳で女生徒を見詰め、叫んだ。

「美術部入らないか!?」

「いえ、結構です」

「何で!?」

「何でもです」

「えー入れよ。お前くらい描けたら……」

 教師の声に被さるように、彼女の友人と思しき生徒から声が掛かった。

「しづー? 行くよ」

「今行く」

 しづ、と呼ばれた生徒は、教師に一礼すると、いつの間に片付けたのかスケッチブックと筆箱を持って、美術室の外にいた生徒の元へと走って行った。教師は惜しむように、しづ――檜山史鶴ひやま しづるの後姿を見送った。


「いーの? しづ。絵描くの好きじゃん」

 歩く史鶴の隣、クラスメイトの前橋要まえはし かなめが緩く間延びした口調で問いかける。

「いいの。どうせ続けても、結果は見えてるし」

 切って捨てた史鶴の言葉に、要はふーん、と頷いた。

「ほんとしづって、熱がないっていうか……諦めいいよね!」

「そう?」

「うん、そう。この間も図書委員になりたいって手ぇ上げてたのに、結局委員長に見えてなかったからのか、そのままスルーされて美化委員になってたでしょ? 抗議もせずに」

「……何でそんなところ見てるのよ」

「たまたま」

「……そう」

「いいの? しづ、そんなんで」

 割合本気で心配している要の声に、それでも史鶴は硬い声で答えた。

「いいの、大丈夫」

 傍から見れば、史鶴は確かに笑顔だ。だが誰がそれを信じるだろう? 要は一つ嘆息すると、史鶴の言葉に従ったふりをした。

 要が話題を変えると、明らかに史鶴はほっとしたように肩の力を抜いた。



 天の半分が茜色に染まる。珍しい梅雨時の夕焼けは、憂鬱な気分を晴らすように穏やかだった。

 史鶴は緑色のナイロンバッグを肩に担ぎ、中に食材を満載させて、あまり車の通らない細い道路を歩いていた。通りの半ばまで来ると、そこの十階建てのマンションへと入っていく。

 エレベーターに乗り、五階へ上がると、五〇五号室の鍵を開ける。

「ただいま~……」

 返事のないのを分かって言っているのか、史鶴は言うのと同時に靴を脱ぎ、端に寄せ、リビングへと歩を進める。テーブルに緑の買い物袋を置くと、チャックを開け、中に入れてきた食材を冷蔵庫へと順に移していく。

「今日は……ポトフにしよう」

 一人で呟きながら結論すると、材料を冷蔵庫から再度取り出し、野菜を洗っていく。下拵えし、合間に米を洗い、炊飯器も稼働する。野菜を一煮立ちさせてから顆粒のコンソメで味を調えると、後は米が炊けるのを待つだけになった。

 史鶴はお茶を飲んで一息ついた。十数分後、鞄を手繰り寄せ、教科書とノートを取り出して勉強を始める。スマートフォンを開くと要からLINEの連絡が入っており、今日出された課題についての質問が来ていた。

 宿題終わった? と史鶴が聞くと、まだだよ~との返信。私もこれからするから、分かんなくなったらまた連絡するよ、と送信する。了解! との返信に、史鶴は少しだけ頬を緩めた。

 米が炊きあがると、史鶴は午後六時頃に夕食を食べ始めた。と、スマートフォンが、今度はメールの着信を告げる。

「んー?」

 史鶴は端末を操作した。送信者は父だった。遅くなるので、ご飯は先に食べているように、との内容に、いま食べてるよ、と返信する。史鶴は文末に、食べてくるの? と付け加えた。父からの返信は意外と早く、いや、ちゃんと帰ってから食べる、との文面に、力強い「!」が付けられていた。史鶴は思わず、といった態で口元を緩めた。

 食べ終わると、簡単に後片付けを済ませる。

 史鶴の視線が、美術の授業で使用したスケッチブックへ向かった。ふらりとさ迷った視線は、しかし最終的には振り切られる。思い直したように顔を背けると、史鶴は再び机に教科書とノートを広げ、勉強し始めた。



「ただいまー……」

 史鶴の父、檜山公久ひやま きみひさが声を掛けるも、家の中から返事は無かった。今は午後九時。そんなに遅い時間帯でもないが、やはり帰宅時間としては「遅い」と言える時刻ではある。

 リビングからは灯りが漏れており、家族の存在を公久に教えてくれる。彼はゆっくりと廊下を歩くと、そっと扉を開けた。

 電気が点いているが、史鶴はダイニングテーブルに顔を俯かせて眠っているようだった。宿題の途中だったらしい。

 公久は苦笑すると、リビングの隅に備えてある大判のブランケットを持ってきて、史鶴の背中に掛けてやった。これで寝冷えすることもないだろう。

 公久は史鶴の作った料理を温めるため、台所に入って火を点けた。その着火音が聞こえたのか、史鶴はおもむろに顔を上げて、台所に立つ父を見出した。

「あ、お帰りお父さん……」

「ただいま、史鶴。そんな所で寝てたら風邪をひくよ。早く布団で休みなさい」

「はーい」

 史鶴は存外聞き分けよく、父の言葉に頷いた。手早く勉強道具を片付けると、ブランケットを畳み、元の場所へ戻す。

「なあ、史鶴」

 温めたポトフを皿によそっていた公久は、唐突に史鶴に声を掛けた。

「ん?」

「お前、部活には入らないのか?」

 いきなりと言えばいきなりすぎる問いだが、史鶴は何故父がそう聞いてきたのか、分かっているつもりだった。美術用のスケッチブックが、出されたままになっている。父の視線も、しばらくそちらの方に留まっていた。

「うん、いいの」

 だから、史鶴は笑って否定する。疑り深い大人を黙らせるには、子供にはこれしか方法がなかった。

「家のことなら、心配するな。なに、母さんがいなくても、うちにはお手伝いさんを雇う余裕くらいある」

 両親が正式に離婚したのは、史鶴が高校受験を間近に控えた昨年十二月のことだった。未だ頑なさを伴って響く父の声に、史鶴の鼓動は一瞬強く鼓動を打ったが、すぐに平常の心音へと戻る。

「大丈夫だよ、お父さん。私、好きでやってるんだから」

 それは、嘘偽りのない史鶴の本心だった。本心だからこそ、父は娘の笑顔に、何も言えなくなった。

「そうか……」

 史鶴が再度片付けを始めたので、父は手持ち無沙汰な己を振り返って、たどたどしく食事を始めた。一口食べたポトフの味が優しく、「うまい」と、思わず公久は言葉を零した。

「ありがと」

 史鶴は漏れ出た言葉を聞き逃さず、父に向かって小さく、心からの微笑みを向けた。



 授業は、退屈でもないが、かといって面白くもない。

 それが、史鶴の高校生活への感慨だった。

 真面目に授業を受けはするが、その実、真剣にそれを会得しようとして聞いてはいない。後から資料や参考書で確認できることがほとんどであるし、補足となる教師の話す内容それ自体も、あまり興味深いものではないからだ。

 史鶴は教師が無駄話を始めると、いそいそとノートの端に、適当に静物を描き込み始めた。デッサンできるものは視界の中に溢れている。前の席の生徒の頭部や、背中。腕の一部や、教室の備品。何もかもが、シャーペンで描くだけなのに、楽しい。こんな自分はおかしいのだろうかと一瞬史鶴は不安になるが、誰に咎められるわけでもない行動なので、ばれない程度に嗜んでいる。

 これくらいがちょうどいい、と史鶴は思う。誰かから評価されるために描いてしまえば、それはきっと苦しいだけだ。そんな気持ちで描くくらいならいっそ、誰に認められなくても、こうして一人で絵を描いている方がましだ。

「――うまいね」

 一瞬、史鶴の息が止まる。教師はこちらを見ずに授業を進めているから、彼に見られたわけではない。

 ふ、と史鶴が視線を右に動かすと、にっこりと良い笑顔の茶髪の男子生徒がいた。高校入学からすでに二カ月が経とうとしているが、未だに史鶴はクラスメイト全員の顔と名前を覚えていない。彼の名前は何といったろうか。史鶴は記憶を浚うが、しかし該当する名前はついに浮かばなかった。

「じゃあここの問題を……乙塚」

「はーい」

 締まりのない声で返事をしたのは、史鶴に声を掛けてきた当の男子生徒だった。史鶴と彼――乙塚は、顔を見合わせていたから、教師は注意の意味も兼ねて、問題を当てたのかもしれない。

 乙塚は、教室の前に出て、黒板に書かれた問題をすらすらと解いていく。教科書通りの解法に、教師も頷く。

「よし、正解だ。お前ちゃんと勉強してんだな」

「もちろんですよ~」

 教師とそんな受け答えをして自席に戻ってくる乙塚は、確かに、教師にそう言わしめるような格好をしていた。

 一応進学校だからなのか、当校では染髪及びアクセサリー装着の類が、生徒の自主管理項目となっていた。依って、派手な生徒はとことん派手だが、勉強がすごくできるか、ものすごくできないかの二種類に分けられる。彼は、前者のようだった。

 席に戻った乙塚は、史鶴に向かってにっこりと笑いかけた。

「檜山さんて絵、うまいんだね」

 低く囁かれたその言葉に、史鶴は曖昧に微笑み返すことしかできなかった。



 HRの時間が、史鶴は中学の時から苦手だった。好き、という生徒は恐らく少ないだろうと今も思っている。議題を決めて、生徒に自主的に議事を進行させるという難題。年若い者だけでは無理だと決まりきっている。

「んじゃー、次。『体育祭の委員会決め』」

「立候補いるー?」

 乙塚の議題発表と共に、男子のクラス委員長である藤野が皆に振った。誰も手を挙げない。一部の生徒はひそひそと会話しているせいか、教室が浮つきかけている。

乙塚が前にいるのは、彼が議長だからだ。先ほど、乙塚が前に歩いていくのを見てようやく、「学級議長さん」が乙塚だったということを史鶴は知った。

「ふじのー、体育祭の委員って何やるの?」

 教室内に響く、だが決して威圧的ではない声で、乙塚は藤野に尋ねた。藤野は聞いてくれて嬉しい、といった感じで、

「えーと、クラスと生徒会を繋ぐ連絡役みたいなもんかな。あと競技参加者を決めたら生徒会に報告したりとか。それに、今言った二つの役割を、二人で分けても良いんだって」

「ふーん。割と楽そう」

「放課後二~三回残ることもあるみたいだけど、何か作ったりとかはしないんだって。でも、体育祭終わったら生徒会と一緒に打ち上げも独自にやるっていうし、」

「え、ほんと!?」

 ひそひそと話し合いをしていた派手な女生徒の一人が反応した。その時、乙塚の口の端が僅かに上がるのに、史鶴は気付いた。

「うん、本当だよ」

「やるやるあたしやるー!」

 委員長が当然、という風に太鼓判を押すと、女生徒は俄然やる気になったのか、勢い込んで挙手した。

「あ、じゃあ俺もやるわ」

 女生徒の隣に座っていた男子生徒も挙手し、二人以外に立候補者は出なかった。

「んでは、女子は嶋澤、男子は川下にやってもらうということで」

「よろしく~」

 散発的ではあったが拍手がされ、HRはほぼ定刻での閉会をみた。

 チャイム通りにHRが終了していたのは、史鶴のいる一年三組だけだった。席に戻ってきた乙塚に、史鶴は疑いの眼差しを向ける。

「なに? 何か俺の顔についてる?」

 史鶴が見ているのに気付いた乙塚が聞くと、史鶴は意を決して口を開いた。

「……嶋澤さんの好きな人が、生徒会役員である、に一票」

 史鶴が小さく呟いた言葉が聞こえたのだろう。お、正解、と声には出さず唇だけで答えて、乙塚はにこにこ笑いながら席に座った。机の中に丁寧に仕舞われていた教科書を、容量のある鞄の中に入れ替えていく。

「お疲れさまだね、乙塚くん」

「いえいえ、こんなの何でもないですよ」

 本気で労った史鶴に対して、乙塚は飄々と返すだけだ。軽い印象を与える言い方だが、そこに全く気負いがないのを見て取って、史鶴は衝撃にも似た何かを覚えた。

 クラスのために何かするって、面倒じゃないのかな。史鶴はそれしか考えていなかった自分が、まるで子供だと言われたように感じた。自分は、こうは生きられない。憧れすら遠い、絞られるような嫉妬が、ぐるりと史鶴の喉奥を占めて、やがて消える。

「じゃーね、檜山さん。また明日」

「……うん。また、明日」

 ひらひら、と軽く手を振る乙塚に、うまく視線を合わせられないまま、史鶴は彼を見送った。



 乙塚と史鶴が話すようになったのは、その出来事以降だった。話すようになったとはいっても世間話程度で、深く相手の生活や趣味・嗜好に突っ込まない会話は、同年ということもあって史鶴には好ましく思われた。話す乙塚自身が楽しそう、というのも理由の一つかもしれなかった。

「檜山さんてさ、冬生まれでしょ」

 いつだったかの会話の最中、乙塚は出し抜けにそう言った。

「え……」

「あれ、違った?」

「ううん、合ってるよ。でも何で?」

 史鶴は思わず聞いていた。彼に自分の誕生日を言ったことも、彼から誕生日の話題を振られら記憶も無かったからだ。

「えー? 何となく。強いて言えば、近寄りがたい雰囲気とか、高潔っぽい感じとか? 話してみると、意外と普通なんだけどね」

 笑いながら言う乙塚に、不意に、史鶴は以前から彼に関して抱いていた感想を、頭の中で並べていた。

 乙塚――正しくは、乙塚明良という人間も、見た目と実際の印象に違いがある、と史鶴は思う。服装や髪形、着けているアクセサリーの類などから見ると、確かに彼は軽そうに見える。何事にも真剣に取り組まず、なあなあで流した挙句、美味しいところはさっと持っていく。そんな態度が似合う人に、史鶴には見える。

 だが、実際にその生活ぶりとみると、そんな印象はどこかへ行ってしまう。勉強に手を抜かず、あれで地学部に入って天体観測を主活動としていると聞いた時には、あまりの現実との相違にむしろ面白くなったほどだった。

 と言って、己の趣味を人に押し付けるのではなく、説明もそこそこに語り終わってしまう。熱いのか醒めているのか、史鶴にはよく分からない。それでも、こんな人間には初めて会う、と史鶴は本心からそう思った。

「そう。……そういう乙塚くんは、夏?」

 でも夏っぽいというより秋かな、と史鶴が思っていると、

「惜しい。梅雨生まれー」

 少しも惜しいとは思っていない笑顔で乙塚がそう言うものだから、史鶴は静かにむっとした。鷹揚に怒りを呑みこんで、問いを重ねる。

「じゃあ、今時期誕生日なの?」

「うん、今月末だよ」

「ふうん。おめでとう」

「どーも」

 そうか、今月末か、と史鶴は教室の前の方に掲示してあるカレンダーを見ながら思った。

「そっか、言われてみれば……」

「ん?」

「あ、えと」

 知らずの内に口に出ていた言葉は、乙塚に聞こえていた。視線を向けられた史鶴は、一瞬返答に迷う。

「おーい、おとつかぁ」

「へいへーい、今行きますよー。んじゃね、檜山さん」

「うん、またね」

 掌を振って乙塚を見送る。乙塚が梅雨生まれというのは、ある意味納得だと史鶴は思う。心の中に、何とも言えないもやっとした塊の残るところが、言われてみれば似ていると思ったからだった。



 史鶴が、隣の席の人間を乙塚明良おとつか あきらという男子生徒だと認識してから、一か月が経った。

 誕生日を迎えて彼が一つ歳を取ると、九州の方では、早くも梅雨明けの宣言が気象庁から発表された。

 一年生にはまだ気が早いと思われたが、夏休みまであと二週間少々という時期に、気鬱なプリントが一枚、一学年全員に配られた。提出必須のプリントは「進路希望調査書」という。

 提出まではまだ間があるが、かといって先送りにもできない問題を前に、史鶴は自分の心が冷えていくのを感じていた。

 季節はこれから徐々に明るさを前面に出して、熱と輝きを惜しげもなく振り撒くのだろう。相反する自分の心を、だが史鶴は他人事のように見ていた。

 表面上は何もない風でいながら、今日も史鶴は授業の終わった学校から帰宅するため、鞄に教科書を詰める。

「じゃーね檜山さん!」

「うん、お疲れ……」

 史鶴が返事をしようと顔を上げた時には、すでに乙塚の姿は教室からなかった。声も急いでいたようだったから、そんなに慌てるほどの用事でもあるのだろうと、史鶴は流した。

「……?」

 史鶴はふと、右隣の席の椅子の下に、端が微妙なところで曲がっている、ガリ版刷りのプリントがあることに気付いた。歩み寄って拾うと、内容を確認する。

 見慣れた明朝体で味気なく書かれている表題には「進路希望調査書」とある。

 視線を下にずらすと、氏名の欄に「乙塚明良」とあり、あー落としたんだなあと史鶴はぼんやり思った。隣の席のよしみとして、これは明日の朝渡してあげようと、史鶴は不自然に折れていた箇所を開く。

 否応にも目に入る、「将来の希望」欄。乙塚の力強い筆跡で残された単語は、「宇宙飛行士」の五文字。

 史鶴は、最初冗談だと思った。彼なりの、教師や友人に対するパフォーマンスの一種だろうと、思おうとした。恐らくそれは間違っていないし、明日笑いながら彼にプリントを手渡す自分まで、史鶴には想像がついた。そうでなければ、こんな所信表明のような場所に、こうも堂々とした名詞は書けない。

 羨ましいのではない。きっと違う。史鶴は誰に言い訳しているのかもわからないまま、プリントを自分の鞄に仕舞った。



 翌日は快晴だった。これでもかというほど澄み切った青空は、これから始まる夏の熱さを十分に予告していた。

 昨夜は久々の晴れ間に天体観測日和だったと、寝不足の瞳に未だ冷めやらぬ興奮を携えて登校した乙塚へ、史鶴はちょいちょいと手招きして廊下へと呼び出した。

「なに、告白?」

 自分がふざける前に、彼の方から雰囲気を崩してくれたのはありがたいと史鶴は思った。苦笑するまま、プリーツスカートのポケットに仕舞っていた例のガリ版刷りプリントを取り出す。はい、と手渡すと、それが何であるのか察した乙塚は、驚いたことに顔を赤くした。どうして彼が照れるのだろう?

「……見た?」

 自分より身長の高い人間が上目遣いをしてくるというのは、希少な経験だと史鶴は思った。父でもこんな表情を見たことはない。

「……見なきゃ、持ち主分からないでしょう」

 ごく当たり前の事実を告げると、乙塚は顔を覆って、

「あー、まあそうですよね、はい」

 とすごく投げやりだ。照れているのだから仕方ないと史鶴は思ったが、こんな状態の乙塚が珍しくてしばらく眺めていた。

「……どう思った?」

 顔を覆った状態の乙塚にそう聞かれて、一瞬史鶴は、彼が何のことを言っているのか分からなかった。どう、とは、何を。

 そして、瞬きの後、史鶴の中で一つの回答が導き出された。彼の所属する地学部に、天体観測に、「宇宙飛行士」。

 出てきた答えと共に、史鶴は思わず言葉を探した。彼の希望する将来について、どう思うか?

「え、と」

「あー。だよね」

 何と言うべきか迷っていた史鶴に、しかし乙塚は分かってる、と言うように掌を史鶴に向けて横にひらひら振った。

 ……彼も、あの「希望」は、突拍子もないと思っているのだろうか?

 唐突に、史鶴の心に湧き上がってきたのは安堵だった。彼もまた、自分と同様、「夢」は「夢」として、「現実」は「現実」として、向き合っているのだ。だから今、彼は照れているのだ。

 そう思考した史鶴は、「まあ、とりあえず希望だし。それっぽく書いとこうと思ったんだよね」といった類の、乙塚の言葉を期待して、それを待った。

「や、ほんと、そういう風に『意外~!』って思われないように、頑張るしかないんだよねー!」

 史鶴は今度こそ本当に、どう返していいのか困った。乙塚の言葉は、百八十度、史鶴の考えを裏返す言葉だからだ。

 あの将来の希望が、本気?

 史鶴は思わず、普段はそんなに働かない眼筋を驚きに見開いて、乙塚を見上げた。

「あれ? そんなにびっくり?」

 おどけた風に乙塚に聞かれて、史鶴はこくこくと勢いよく首を縦に振った。

「まーね。俺の始まりって三中だから、それもしゃーないかもね」

 三中といえば、別名を「最底辺」と揶揄される、市内では有数の問題校だ。そこから、毎年国公立に数十名の合格者を出している、割と真面目な進学校の当校へ合格したというのなら、かなり本気で頑張らないと難しい。本気で努力したんだと、史鶴は今更ながら、乙塚の頑張りを思った。

 なら、何故。

「……お節介かもしれないけど、それなら全部の時間、自分のために使ったらいいのに。時間は限られてる、から」

 うまく言葉になっているか怪しかったが、それでも史鶴は乙塚に聞いてみたかった。どうして、クラスの運営に助力するのか。同じ学級にいるといっても、数年後には会話さえしなくなる人間が大多数なのに。何故、そんなに人のために自分を使えるのか。それが非常に、史鶴には不思議だった。

「あー。まあそうかもね」

 そういう考え方もあるね、という乙塚の態度は、しかし史鶴の気持を柔らかく刺激する。

「でも俺、欲張りだから」

 続いた言葉の意味がよくわからなくて、史鶴はじっと乙塚を見た。

「高校での、面白そうとか、楽しそうとか、そういうの味わえるのって今のうちでしょ? んで、思いっきり勉強できるのも、今だけで。そうすると、俺は『全部』やってみたいわけ」

 男子にしては大きめの瞳を輝かせながら語る乙塚に、史鶴は以前にも味わった、息苦しいほどの妬みと、焦燥を思い出す。

「諦めるのも大事だってことは知ってるけど、でもどうせ諦め切れなくて追っちゃうんだ。やり切れるっていうなら、俺は全部やる。残すなんてもったいない真似はしない。……ってだけ、かな」

 真剣に語りながら、笑いを忘れない乙塚に、自分がどうして苦しいのか、史鶴は思い知る心地がした。振り返って自分はどうなのかと、言われていないが、言われている気になるのだ。

「ま、全部自己満足のためにやってっからさ。人にウザがられたら終わりだとも思うよ。そこんとこは見極めたいけど、でも結局エゴだからさ。結果出すしかないわけ」

 明るくそう締めた乙塚に、史鶴は、でもやっぱり分かるようで分からないな、と感想を持つ。少し、僅かに、微かに――彼のことが羨ましい、などとも、思いながら。

「んじゃま、プリントありがとねー」

「ううん……」

 話は終わった、とばかりに背を向ける乙塚に、史鶴は戸惑いながらも手を振った。

「あ、ちなみにさ」

「?」

 くるりと、顔と肩だけで器用に史鶴を振り返った乙塚は、実にあっけらかんとした口調で、割と決定的な質問を史鶴に投げた。

「檜山さんは、何になるの?」

 史鶴の心臓が、うるさい程に中心で拍を打つ。

 ずっと前から抱いていた自分の「望み」を史鶴が口にするのは、その数秒後のことだった。



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