全裸と少女と雨の月 ※制限時間は1時間/3千字以内 テーマ「秋」
「本物と偽物の境界はどこにあると思う?」
それは青年の声色を持って音声となった。だが返答の響きは無く、窓をノックする雨の音が代わりとばかりに自己主張を繰り返す。
十畳を超えるその空間は、二階建て家屋の一室だ。書庫と明記された畳を床とするこの部屋は、古めかしい本におおよそが埋められている。そして、うず高く積まれた書籍以外に二つの影があった。
一つは髪をポニーテールに結った少女の物で、青のエプロンには
〃杉崎〃と刺繍されている。もう一つは、全裸で五体投地しながら無表情を貫く男性の物。
「杉崎君聞いてるかね? 本物と偽物。そこに境目があるとすればどこなんだろうね」
全裸がポニーテールを揺らす少女へと再び問いを投げた。杉崎と呼ばれた少女は、
「……青柳店長、まず服を着るか腹を切るかして下さい。私としては後者をオススメしますが。三十歳独身男性の恥部に興味はないのです。これ以上私の悩みを増やさないで下さい」
「服は着るものではなく脱ぐものだよ」
青柳と呼ばれた全裸は上半身をもたげ、あぐらをかく。
「さて、悩める杉崎君。今日はご覧の通りの大雨だ。誰も外に出ようとしない引きこもりな天気故、我が古本屋〃不死書房〃も来客が無いわけだね」
「お客さんがいないのはいつもの事ですよね青柳店長。バイトとして蔑みの気持ちでいっぱいです。それと、暇だと突発的にストリップショーを始める病気は相変わらずですね。腐ればいいのに」
「流石の僕も女子高生から腐れと言われたのは初めてだよ。――ッハ! 杉崎君の初めてを僕は……!」
「それ以上口を開けば歯の神経を引きちぎりますので、どうぞ続けて下さい」
「物騒だね。さて、では質問に戻ろうか。本物と偽物の境界について、だ」
「……はぁ、またですか」
相変わらずですね、と杉崎は内心で吐露する。暇を持て余した際に時々行われる、簡易なディスカッション。不死書房で二ヶ月前にバイト契約を結んで依頼、殆ど毎日催される恒例行事。
まぁ毎日が暇だという事なのですが、と杉崎は小さくため息をくゆらせる。
全裸で待ち構える青年の前にちょこんと正座しながら、
「それで、今日の題材は本物と偽物、ですか?」
「うむ。今日は雨月という事もあるから、丁度良いと思ってね」
「うげつ……?」
聞きなれない単語だ、と杉崎は首を横にかしげた。青柳は右手で自分の左乳首をつねりながら、
「雨月。雨の月と書くのだけど、中秋の名月は知っているかな?」
「流石にそれくらいは分かりますよ。あと、その右手の動きが不快なのですが」
「耐えたまえ。そう、中秋の名月だ。秋空に浮かぶ球形の白を、秀逸に表現したものだね。月見の文化の代名詞とも言える言葉だと僕は思う。さて、中秋の名月と雨月。この二つはどう関係すると杉崎君は考える?」
「…………」
数秒の間を置き、
「字面から察するに、雨天時の月ですよね。そしてそこにもう一つのファクターを混ぜるとなれば」
暴風が打撃となり窓を揺らす。それを眺めながら、
「雨の日に行われる、お月見の事、ですか?」
杉崎の疑問符付きの解答を、青柳は満足気に嚥下する。
「正解だよ、流石だね杉崎君キスしよう」
瞬間、杉崎の手から射出された広辞苑が青柳の顔面に激突した。く、と小さく悶絶しながら青柳は、
「では、もう少し掘り下げてみようか。雨月の意味を」
ジト目の杉崎を無視し、青柳はいいかい、と前置きして。
「旧暦では、月見と梅雨は重なっていてね。ほとんどが雨雲に隠れて見えなかったそうだよ。月を見るために集ったものの、視界に入るのは雨粒だけ。何とも塩っぱい思いだったろうね」
くく、と喉で青柳は笑う。
「そこで昔の人は雨月という答えを得たのだよ。秋の代名詞の月を、より美しく見る術をね」
「でも青柳店長、現実として月を見られる確率は低かったんですよね。どう解決を導いたのですか?」
「簡単な事だよ。ここに月がある、と気付いたのさ」
青柳は左手で自身の米噛みを指さした。杉崎は得心がいったと頷きを返しつつ、どこかあきれた表情を貼り付ける。
「もしかして、頭の中の月ですか?」
「その通りさ。視覚的に見る事が出来ないのなら、空想の中に作り出せばいい。実に柔らかく苦しい発想だね。雨降る夜、月に見立てた団子をひょいと持ち上げ、見えぬ月に思いを馳せる。今はすたれた文化だが、よくある光景だったそうだよ」
「本物の月が無いから、ですか。……あぁ、だから本物と偽物の話しなのですか」
「そういう事だね。では、杉崎君にとってどちらの月がより美しいと考える?」
「そんなの、本物に決まっているじゃないですか」
「そうか。だけど僕は偽物こそ美しいと感じるよ」
その言葉に杉崎はガッツポーズと共に立ち上がった。
「やった! 青柳店長と思考が同じじゃない嬉しいです! ――でも何故ですか? 理由を話して下さい」
「……君はナチュラルに心を抉ってくるね。いいだろう、でも案外単純で明瞭なものだと思うのだけども。要は、本物はソレ以上変化がないと言う事だよ」
「変化、ですか?」
「いいかい? 本物は本物である以上、そうあり続ける必要があるのさ。もしも変質してしまっては、それは別の何かになる。本物だったソレは損なわれ存在意義が喪失してしまうのさ。完結した存在は確かに一定の光を帯びるものだが、代わり映えしないという意味もあるのだよ」
それに、
「想像する、という行為が何よりの楽しみを生むのだろう。雨雲より遙か上に位置するあの星を空想し舌鼓をうつ。もし雨雲が晴れてしまったならば、みな一様に同じ月を眺めることになってしまう。しかし、脳内で再生される月は十人十色。そしてそれぞれが思う最高の月ときたものだ。……結局は、空想が一番の美しさを放つと知っていたのさ」
杉崎はジッと青柳の言葉を耳に収め、ギュッと両の手に力をこめる。
「でも、それはどこか寂しい気もします。本当の月が空想の劣化になるのだというなら、本物って何なんでしょう」
「ふむ、実際雨月の際は天候の回復は望まれていなかったらしいからね。脳内の偽物が本物を贋作へとすげ替える。実に奇妙だが、しかしよくある事でもある。杉崎君、本物とは何かと口にしたが、その分水嶺はハッキリしているよね? 空想は所詮偽物なのだから。君が今無常に感じる根本は、本物と偽物の価値が逆転した所にあるのだと思うよ」
「そう、かもしれませんが。でもやはり、納得は出来ません」
ぷい、とそっぽを向く杉崎を懐かしむように眺めながら、青柳は漆喰の天井を見上げる。
「ふふ。人生の先輩から言えるとすれば、それが生きるという事なのだよ。何が本物で何が偽物か。何が正しくて何が間違っているのか。何が真実で何が虚偽なのか。流され受け入れ翻弄され、いつしか疑問にすら感じなくなる。そう、納得してはダメなんだ」
「それは……嫌な世界ですね。卒業が近づいてきている私にいう台詞ですか」
だからこそだよ、と青柳は静かに言葉を作った。
「思考を止めるな、ソレさえ忘れなければ大概は大丈夫さ。何が正しいのかを常に考え行動する。偽物がスルリと本物の居場所を奪い去る無常さに疑問を持った、今日この時を忘れてはいけない。それだけだよ」
「……」
青柳の意思を咀嚼し、杉崎は小さく笑みを見せた。
「――――」
降り続く雨は止むことを知らないのか、一層の激しさを持って窓へと疾走する。
止まない飛沫に覆い隠された月の下、地上では今日も今日が終わっていく。