2回目の朝
「もう、こんな時間か」
昨日とは異なり、非常に心地よい目覚めだった。枕もとのデジタル時計を見ると、丁度7時を回ったところだ。
耳を澄ませると、秋子の規則正しい静かな寝息が聞えてきた。
朝食のサービスが、九時までだったからまだ起こさなくても良いだろう。
ベッドから出て、軽く背伸びをする。体の調子は良さそうだ。これなら、今日の行動に問題はない。
「シャワーでも浴びるか……」
畳んでおいた着替えと、タオルを持ってバスルームへと向かう。
鏡を見ると、未だに見慣れない顔が間抜けな表情を浮かべていた。
「ったく。誰なんだよ、お前は……」
そう尋ねても、答えるものなどいない。
寝巻きを脱ぎ、バスタブに入り、シャワーの蛇口を捻る。
派手な音と湯気を立てて、お湯が俺の体を打つ。少し熱めに設定したため、一気に体温が上がっていく。眠っていた思考と筋肉が、覚醒していくのを自覚する。
「善光寺秋伸の殺害、善光寺秋子の誘拐、サングラスの男とその仲間、そして俺の記憶喪失」
ブツブツと呟くが、その声はバスタブを叩く水音にかき消される。
「繋がりがあるのか? それとも、独立したものなのか?」
現時点では、前者である可能性が高いと思える。
「それぞれの事象に登場する人物には、繋がりはあるのか?」
秋子は俺を知らなかった。俺と秋子の間に、繋がりがある可能性は現時点で確認できない。
それならば、サングラスの男達はどうだ?
少なくとも奴らは、善光寺家の人間を知っている。そうでなければ、話がおかしい。
「やはり、鍵はサングラスの男か」
当面の目標は、サングラスの男を拘束し、話を聞き出すことだ。しかし、それが非常に困難なものであると理解している。
「5人も殺している化け物じみた奴を簡単に拘束できるか?」
いや、しなければならない。そうしなければ、何も進展しないように思われた。
「やるしか、ないよな……」
流石にこの仕事を秋子に期待するのは、酷というものだろう。必然的に、俺の役目となってくる。
「ったく、ついてねーな」
俺はシャワーの温度設定を、一気に引き下げる。体を打つ液体が、熱湯から冷水へと変化する。
その冷たさで、ともすると弱気になる体に渇を入れた。
「まあ、元から死んだような人間だ。今更、怖がるものはないよな」
もしも、サングラスの男に対抗できるものがあるとすれば、その点だけだろう。
このままでも、俺は何かを失い続ける。ならば、最後まで足掻いて全てを失っても結果は同じだ。
それなら、退く理由がない。
流れ続ける水を止める。
髪や顎から、水がぽたぽたと流れ、溜まって排水溝に流れていく。
「さて、今日も一日頑張りますか」
そんな前向きな言葉が出てきた。
着替えてバスルームを出ると、まだ秋子は眠っていた。
「疲れたんだろうな」
唇にかかった黒髪が、吐息と共に静かに動く。
「ったく、口に入ってるつーの」
起こさないように気をつけながら、口元から髪を払ってやる。秋子は口をモゴモゴと赤子のように動かす。
どこが、眠りが浅いのやら。
自分の口元に笑みが浮かんでいることに気付く。
朝一から可愛らしいものを見れば、一日に弾みがつきそうな気がした。
「あと、1時間くらいは寝かせてやるか」
客室の中央に据えられた椅子に座り、テレビを点ける。音量はできるだけ低くする。
丁度、テレビでは星座ごとの占いを放映していた。
「5月31日生まれは、双子座だったな」
星座占いは4つの項目(金運、愛情運、仕事運、総合運)に分かれており、それにプラスしてラッキーアイテムと、占い師のアドバイスが示されるという形だった。
「双子座は……。へえ、最高の運勢か」
そいつは、朝から縁起が良い。
「ラッキーアイテムは、タクシーね。それから、失くし物を見つけられる可能性があります、か」
うん。本当に悪くない。
とても、希望を抱かせる占いだ。
しかし、タクシーってアイテムと呼べる類のものだろうか?
まあ、占いなんてこれくらいアバウトで構わないのだろう。
「他のチャンネルも見てみるか……」
リモコンでチャンネルを変えると、やはりそこでも同じような占いを放映していた。
「こっちは……。最悪の運勢か」
最初に見た占いとは、正反対の結果を示していた。
「誰かの秘密を知ってしまう可能性があります。軽々しく、口外しないように」
当たり前すぎる。わざわざ、占いで指摘するほどのものだろうか?
「つーか、占いって放送して良いものなのかね? 占いは、断定したり無理に信じさせちゃダメなはずだけど……」そこで、馬鹿げたことに気付いた。「ああ、これって別に断定していないから良いのか。全部、可能性があるっていう話だし」
と言うことは、信じようが信じまいが貴方の勝手ですよ、ということなのだろう。
「だったら、都合の良い方を信じるか」
今日の双子座の運勢は、最高。向かうところ敵なし。
気合を入れるためにガッツポーズをする。
「なーに、テレビの前でガッツポーズしてるの?」
あー、最悪な所を見られちまった。
もしかすると、今日の運勢は最後に見た占いに準じているのかもしれない。今日の運勢は最悪で、外出しない方が良いのかも。
「えっと、忘れてください……」
「無理ね。朝っぱらから、こんな愉快なものを見せられて、忘れられるはずないじゃない」
振り返ると、欠伸をしながらベッドの上で胡坐をかいている少女が一人。
女子高生としては、どうかと思う。つーか、寝巻きの裾からパンツが見えてます。
「あー。ねむい……」
後頭部を掻きながら、再び欠伸をする。喉チンコが見えたぞ、今。女の子が大きな口を開くもんじゃありませんよ。
「朝は弱いんだな。意外だ」
「いーえ、全然。これっぽちも……」顔の前で手をヒラヒラと振る秋子。「ねえ、今何時?」
「7時半だ」
「ふーん、そう。七時半、ね……。そうだ、学校! って行けるはずないか」
驚いたり突っ込んだり、忙しい奴だ。
「さっさと、シャワーでも浴びて来い」
「うん。そうするわ」
秋子は制服を持って、バスルームへと向かう。
「エレベーター前で待ってるからな。終わったら鍵閉めて、俺ん所に来いよ。飯を食いに行くから」
「オッケー。いつも、すまないねー」
「お前、全然感謝してないだろう」
呆れながら、俺は静かにドアを開ける。その時、秋子が尋ねてきた。
「そう言えば、どうしてガッツポーズなんてしてたの?」
「そ、それはだな……。買っていた株が急騰してだな」
正直に答えれば、さらにからかわれるのが目に見えている。
「まあ、予想はできるけれどね。どーせ、占いの結果が良かったんでしょ?」
流石は女子高生、とでも言うべきなのか。
「ああ、双子座は最高の運勢らしいぞ。おめでとさん」
そう言って、俺はドアを閉める。そのまま、ドアに耳を押し付けて中の様子を伺う。
「最高の運勢なんて、幸先良いじゃない!」
絶対、秋子もガッツポーズしてるよな。
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このビジネスホテルでは、軽めの朝食を無料でサービスしている。
メニューは、お握り、トースト、味噌汁、コーヒーなど本当に軽いものだけだ。それでも、他のビジネスホテルに比べれば、朝食が出るだけマシだろう。
朝食はバイキング形式であり、ロビーの一角が配膳コーナーになっている。
「あー、お腹空いた。昨日は、何も食べてなかったしね」
そう言えば、そうだった。昨日は、余りにも多くのことがあり過ぎて、食事を摂ることすら忘れていた。
それを自覚して、俺も急に空腹感を覚えた。
「秋子って、結構食べる方なのか?」
「友達と一緒に食事に行く時は、そんなに食べないわよ」
「と言うことは、食べるんだな」
「それくらい、察した方が人生の役に立つわよ」
「お、覚えておく」睨まれて、そう強く思った。
時間が8時半ということもあり、ロビーは空いていた。出張などで滞在しているビジネスマンは、既にチェックアウトした後だからだろう。
殆どの席が空いており、二人で座る席を探すのは簡単だった。
各々好きなものをトレイに乗せ、席に座る。
「いただきます」ぺこりとお辞儀をする秋子。
「躾が良いんだな」
「そう? これくらい、普通なんじゃないの」
「自分の家ならそうかもしれないが、店でするのは珍しいと思うぞ」
「ふーん。そんなもんかな」秋子はトーストを頬張る。「久々の食事だと、何でも美味しく感じるわね」
それには同感だった。空腹が最高の調味料とは、巧いことを言ったものだ。
どうやら、秋子は朝食にはトースト派のようだ。俺は、無意識の内にお握りを選択していた点から考えると、和食派であるらしい。 結婚した場合、性格の不一致により即座に離婚する二人だ。まあ、そもそも二人が結婚するなど、あり得ないのだが。
しばらく、無言で食事を続ける。その間、正面に座る相方にずっと見つめられており、非常に落ち着かない。
「今日の予定を聞きたいのか?」
こくこくと、リスのようにトーストを頬張りながら、秋子が頷く。
「今日の予定としては、あのサングラスの男を捜す」
一瞬、秋子の表情が固まる。しかし、それは本当に一瞬だけだった。
「そうね。そこが唯一の手がかりで、避けて通れない所だもんね」
「話が早くて助かる」
相棒とするには、文句のつけ所がない。
これより少しでも臆病な少女だったら、行動が制限される。逆に、少しでも無謀な少女だったら、こちらの身まで危なくなる。
「でも、探す手がかりはあるの?」
「まずは、車の車検証だ。本籍地と名前が書いてあるからな。まあ、偽造という可能性も多分にあるが……」
「他には?」
「後は、徹底的に車内を物色する。何か奴の身元に繋がるものがあるはずだ」
「無い場合は?」
「そうだな……。その時は、地道に探すしかない。あっちも、俺達を捜しているだろうから、遭遇する可能性は高いだろうな」俺はそこで言葉を切る。「でも、その場合発見するのは、こっちが先でないとダメだ」
「奇襲できなくなるからでしょ?」
「その通り。でも逆に言えば、奴らの奇襲を受けた際には、逃げることを前提とするべきだな。もちろん、状況をよく観察してからだが」
「あのさ……。何だかんだ、言ってるけどさ」秋子は最後のトーストの一片を口に入れて言う。「結局、出たとこ勝負なんでしょう?」
「おいおい。その言い方を避けるために、これだけ話したんだぞ」思わず苦笑いが浮かぶ。「まあ、それでも問題ないだろう。何たって、双子座の運勢は……」
「最高なのよね」「最高だからな」
こつん、と二人で拳を合わせる。
多分、俺達なら大丈夫だろう。
そんな、根拠のない確信が湧き出てきた。
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立体駐車場から車を出庫し、付近にあったコインパーキングに停め直して、二人で車内を物色する。
物色を開始してすぐに、車検証をダッシュボードから発見した。
「大畠直樹か……」
車検証には、この車の所有者であるサングラスの男の住所氏名が記載されていた。
「本物だと思う?」
横から同じように、車検証を見ながら秋子が意見を求める。
「さあな。アレだけのことをする男だから、簡単には信用できない」俺は車検証をダッシュボードにしまう。「秋子は何か見つけたか?」
秋子に尋ねると、彼女は得意げに俺に一冊の手帳を差し出す。黒い表紙のポケットサイズのシステム手帳だった。かなりの収穫と言えるだろう。
「中身を見たけれど、スケージュールの所には『仕事』って書かれている日付しかなかったわ」秋子は、パラパラと手帳を捲る。「でも、連絡先の所には、かなりの量の住所とかが書かれててね」
「見せてくれるか?」
手帳を受け取り、目を通していく。
確かにスケージュールの所には、週に一回程度「仕事」としか書かれていない。他には、何も書かれておらず、まっさらだった。逆に、最後の方にある連絡先の項目は、びっしりと埋まっていた。
「連絡先は、全国に渡ってるな。北海道から沖縄まで……。おいおい、海外まであるぞ」
最後の方には、何語だか判別できないようなところまであった。
「一体、どんな仕事なんだろうね。世界を股にかける、犯罪組織の構成員とか?」
「その可能性を捨てきれないのが、嫌だな」
街中で拳銃をぶっ放し、化け物じみた身体能力を持っている。
秋子の言葉は、全くの的外れとは思えない。
「とりあえず、大畠の家と、そこに書かれている宮城県内の住所を回ってみる?」
秋子が車内の空調を調節しながら、言った。
「そうだな。最初に、車検証に記載されている住所に行って、大畠が本名かどうか確認しよう。その次に、秋子の言った通り、書かれている住所を回ってみるか」
俺はエンジンを始動させる。
昨日、少しだけ運転したが、非常にしっくり来る操作感覚だった。
回せば回した分だけスピードは伸びるし、コーナリング、ブレーキ性能も申し分ない。車に関しての大畠のセンスには、尊敬すべきだろう。
「大畠って男、必死になってこの車探してるかもね」
この車を必死になって捜している大畠を想像して思わず噴出す。
かなり、シュールな光景だ。
「そうだろうな。この車にいつまでも乗っているわけにはいかないな。今日、一通り回ったら、適当なところで乗り捨てよう。それに、いつまでも無免許で運転していたら問題がある」
「警察に捕まったら、大変だもんね」秋子は、可笑しそうに笑う。「それなら、明日からの足はどうするの? タクシーでも使いましょうか?」
すれ違うタクシーを指差しながら、秋子が提案する。
「そうだな。金は秋子の親父さんが、貯めたものを使わせてもらう。心苦しいがな」
「……そうね。それしかないわね」
少しだけ、秋子の表情が曇る。その心は分からなくない。
「秋子って、免許持ってないのか? 原付なら、16で取れるだろう?」
重くなった車内の空気を変えるために、話題を変える。
狭い車内で隣に暗い表情をした女の子を乗せて、ドライブを楽しめるほど図太い神経は持ち合わせていない。
「残念ながら、持ってないわよ。高校卒業したら、取ろうと思ってたところ」
「免許を取るなら、早い方が良いぞ。秋子は、大学進学するのか? だとすれば、大学一年の夏休みにでも取れば良い」
「予定ではね。これでも、成績は良いのよ」
だろうな、と俺は思った。
「ちなみに、どこ大学を狙ってるんだ?」
「東北大。裕福ってわけじゃないから、地元の国立大学が一番良いの」
「学部は何だ? 俺の予想では、文学部なんだが。いや、教育学部っていうのもあるな」
何にせよ、秋子は文系という感じがした。数学が苦手そうなイメージを、勝手に持っていた。特に、微分とか苦手そうな気がする。
「第一志望は、医学部よ」
「い、医学部―!?」
叫びながら聞き返してしまった。やっぱり、俺のイメージなんて当てにできないな。
「何よ、そのリアクションは?」
俺のリアクションが非常に不服だったようで、唇を尖らせながら俺を睨む秋子。
「い、いや、別に。それで、受かりそうなのか? とは言っても、受験は来年か」
「模試では、合格ラインに達しているわよ。このままなら、問題ないと思う。このままなら、ね……」
自虐的な笑みを浮かべられ、言葉に詰まる。
「……大丈夫だろ。一週間もあれば、元通りになる」
全く根拠のない、気休め程度の慰めだった。
「そうなることを祈るわ」
却って車内の空気が重くなってしまった。せっかく、空気を変えようとしたのに、元の木阿弥だった。
「一郎って、もしかすると大学生かもね」窓の外を見ながら、秋子が呟いた。「外見から、そんな感じがするけど」
「あり得なくはないな。大学生だったら、何学部だと思う?」
街中には、私服姿の若者が目立った。
恐らく、暇を潰そうとブラブラしている大学生だろう。
もしかすると、以前の俺は、彼らのような日々を過ごしていたのかもしれない。
「そうねー。理系だと思うな」
「理系か……。もしかして、医学部だったりして」
「えー、そんなの嫌よ」秋子は、唇を尖らせる。「一郎みたいな奴が医者のタマゴなら、日本の医療が崩壊しちゃうじゃない」
俺は、たった一人で日本の医療を崩壊させるほどの悪役らしい。
「何だよそれ。酷くないか?」
「あはは。ごめんごめん」秋子はひとしきり笑った後、「でも本当に、私の志望校の先輩だったりして」
「あー、それはないと思うぞ。多分、名もなきどこかの私立大学だと思う」
卒業して2年もすれば、母校が廃校になっているようなレベルの大学だろう。
「うーん。それは、ないと思うな」
顎に人差し指を当てて、秋子は意外な予想を口にした。
「おっ、それは俺の知性を認めているということか? やっぱ、記憶を失くしてても滲み出る知性は隠せないのか」
珍しく褒められている気がして、少しだけ嬉しくなる。
だが、そんなことはなかったようで、
「そうじゃなくて、一郎って要領よさそうじゃない。だから、何だかんだ言って、偏差値の高い大学に受かってそう」
なんて言われてしまった。
「貶してるだろう……?」
「何言ってるの、褒めているのよ」
「さいですか」
褒めるなら、もっとストレートな言葉で褒めて欲しいものだ。