誕生日
「それで、これからどうする? とは言っても、考えられる状態じゃないか」
パソコンをシャットダウンし、俺は隣にいる善光寺秋子に尋ねる。
「まさか、そこまでやわじゃないわよ。もちろん、お父さんを殺した奴を突き止めるに決まってるでしょう」
思いの外、力強い声だった。
多分、悲しみにくれて立ち止まることを善しとしないのだろう。
ある意味、痛々しい性格だとも言える。
「それなら、俺も手伝おう」
だから、下手な慰めは無意味だと思う。最も喜ばれるのは、現実的な協力の申し出。
「えっ、どうして?」
しかし、帰ってきたのは意外な言葉だった。
「どうしてって、そんなに不自然か?」
何度も頷く善光寺秋子。
弱った。まさか、こんなリアクションを返されるとは思いもしなかった。
「だって、あんたには関係ないでしょう? 関係ないことにわざわざ首を突っ込むほど、お人好しには見えないし」
なんだか、酷い言われようだ。しかも、微妙に的を射ているのだから尚更性質が悪い。
「いや、あながち無関係とも言えないな。俺が目覚めたのは、お前の家なんだぞ。そこで起きた殺人事件と誘拐事件。自分の記憶喪失と、関係があっても不思議じゃない。俺にとっても、メリットがある協力だ」
俺の言葉を吟味するように、善光寺秋子は腕を組んで瞼を閉じる。
しばらくの後、「分かったわ」と言って俺に向き直る。
「下手な正義感で動かれるよりは、断然信頼できるわね」言って、右手を差し出す善光寺秋子。
「ああ。これも、何かの縁だろうしな」
俺は善光寺秋子の、細く白い手を握る。
「だとすれば、早く切りたい縁ね」
「たしかに」
互いに手を離しながら、乾いた失笑が漏れる。
多分、俺達の縁は縁切り寺でも切ることは適わないだろう。それくらい混沌としていて厄介なものだ。
しかし、この縁が切れれば、俺も元の生活を取り戻せるかもしれない。何となく、そう思った。もちろん、それが容易ではないことは重々承知している。
「一人ぼっちの二人が、手を組むってありがちだと思わない?」
「記憶を失くしている俺はともかくとして、お前は一人じゃないだろう? 父親の他に親戚とかいるんだろ?」
「いないわ、そんなの。お父さんだけが、私の家族だったんだから」
「そうだったのか。でも、それにしては……」
言いかけた先を、善光寺秋子が引き継ぐ。
「意外に、立ち直りが早くて驚いた?」乾いた笑いを浮かべる善光寺秋子。「確かに、自分でも驚くくらい落ち着いているわ」
「悲しくないはずないよな? 俺にはよく分からないんだ。家族を失った記憶がないから」
「悲しいわよ、もちろん。でも、それを塗り潰すくらい、犯人に対する殺意が心の中にあるわね」善光寺秋子の瞳が、一瞬で凍りつく。「犯人を見つけたら、自分から死にたいと思うほど痛めつけてから、殺してやりたいくらい」
「復讐したいんだな?」
「当たり前じゃない。もしかして、止めるつもり? 復讐は虚しいとか、感動的な台詞でも言ってくれるのかしら」
試されていると感じた。返答次第では、先程の協力関係が直ぐにでも崩壊するだろう。
「まさか。そんなつもりはねーよ。俺個人としては、復讐は尊いものだと思う」
「へえ、意外。そんな危険思想の持ち主だったなんて」
「からかうなよ。ただな、復讐するなら徹底的にやらないとダメだ」
「徹底的に、殺せってこと?」
「そうだ。復讐するならば、相手の一族郎党を皆殺しにするつもりでやれ。そうしないと、いつかお前が復讐の対象になるからな」
「やっぱり、危険思想の持ち主ね」
咎めるような視線だったが、それが本気でないと容易に理解できる。
「でも、真理だろ?」
「そうね。そうすれば、復讐の連鎖なんて発生しないわね」
微かに濁りつつある彼女の瞳を、とても美しいと俺は思った。
************************************
「それにしても、あんたの名前なんだろうね?」
シャワーを浴びて髪を乾かしていると、鏡越しの善光寺秋子が俺の顔を見つめていた。
「どうした? 藪から棒に」
「だってさ、あんたって私の名前知ってるじゃない」
「そうだな。善光寺秋子だろ? なんだか、名家の跡取りって感じの名前だな。特に、苗字が三文字って言うところに、雅さを感じる」
「はいはい。でね、それが気に入らないのよ」俺の軽口を適当に流すと、善光寺秋子は俺の後ろに立つ。「何だか。私の方が、損している気分じゃない?」
「よく分からないな。そんな情報量の差異なんて、別に気にするほどのことじゃないだろう」
「そうなんだけれどね。何だか『あんた』って呼び続けるのも失礼な気がして」
つまりは、そちらが本音のようだ。本当に、律儀な奴だ。
「じゃあ、適当に名前でも付けてくれよ。記憶が戻るまでは、その名前で呼んでくれ」
「良いの? それで」
「別に構わない。名前なんて、ただの飾りだしな」
ショートケーキの苺程度には、ありがたい飾りではあるが。
「何言ってるの? 名前って言うのは、生まれて初めての贈り物なんだからね」
結局、どうしたいのやら。
「じゃあ、こうしようぜ」俺はドライヤーを切ると、善光寺秋子を正面に見据える。「俺が記憶を失ったのは、今日だろ。これって、新しい誕生日って言えないか?」
「まあ、そうかもね」
「それなら、新しい名前を付けられても不思議じゃないだろう?」
「うーん。何だか、巧く言いくるめられている気がしないでもないわね」
納得いかないといった感じの善光寺秋子。
「本人が良いって言ってるんだから、問題ないだろう。ナウでヤングな名前を付けてくれよ」
「あんたが言うなら、それで構わないけれど……」
額に手を当てて唸っている仕草を見ていると、彼女が歳相応の少女に見えてくるから不思議だ。つい先程まで纏っていた、ドロドロの殺意の残滓すら感じさせない。
「えっと、秋伸とか」
「おいおい、お前の父親の名前じゃねーかよ。お前、極度のファザコンか?」
善光寺秋子の家庭環境を考慮すれば、あり得なくないと思う。
「ち、違うわよ! ただ、男の人の名前をよく知らないだけで……」
これは、ファザコン確定だな。結婚相手には、父親と似ている男性を選ぶタイプだ。
「クラスメートとかの名前でも構わないぞ」
「私の学校、女子校だもん」
だとしても、中学までの友人がいただろうが……。もちろん、思っていても口には出さなかった。
「じゃあ、お前が好きな小説とかの登場人物でも良い」
このままでは、埒が明かないだろう。実際、名前にはほとんど興味がないのだから、早めにこの話題は切り上げたいのだ。
「──ドリアン・グレイとか?」
「外人じゃねーかよ。しかも、堕落する貴族だし」
さすがにその名前は勘弁して欲しい。作品自体は好きなのだが……。
「えー、格好いいじゃない」
頬を膨らませて抗議されても、首を縦に振るわけにはいかない。
「いや、そういう問題じゃないだろ。何か、日本人っぽい名前はないのか?」
「えっと……。呉一郎とか? あー、だめだ。あんたが最初に名乗ってた偽名と変わらないじゃない」
「今のなし」と言いつつ、首を振る善光寺秋子だが、俺個人としては悪くないと思っている。
彼女が言った通り、最初に名乗った偽名だという事もあるのだろうが……。
「記憶喪失の人間としては、おあつらえ向きな名前だから良いんじゃないか? てか、あの小説読んだことあるのか?」
俺の問いかけに善光寺秋子は当然と言ったように首を振る。
「名作を読むのに年齢なんて関係ないわよ」
さらりと言われると、反論の仕様がない。
「面白いわよね、あの本。一年に何度も読み返しちゃうくらい」
うっとりとした表情を浮かべる善光寺秋子。どこか遠くの世界へと旅立つ一歩手前だろう。
それほど好きならば、俺には訊いてみたいことがあった。
「俺さ、あの小説の真犯人が未だに分からないんだよ。できれば、教えてくれないか?」
「ダメ。もう一度、最初っから読み直しなさい」人差し指を立てて、叱るように言う善光寺秋子。「ていうか、本当にそれで良いの?」
「問題ないな。で、犯人は誰なんだ?」
「だから、教えてあげない」
けちな奴だ。
「じゃあ、あんたは記憶を取り戻すまで『呉一郎』ね」
「はいよ。一郎と呼んでくれや」
「ねえ、一郎」
名付けられてから一分も満たないうちに、名前を呼ばれる。
そして、その名前で呼ばれても、やはり抵抗はなかった。
「何だ? ただ、名前を呼んでみたかったなんて、甘い言葉をくれるのか?」
くいくい、と挑発するように人差し指を折り曲げてからかってみる。
「はあ? 何言ってるの? 気持ち悪いわよ、それ」
冗談で言ったつもりなのに、嫌悪感を剥き出しにした冷たい視線で射抜かれてしまった。
心の深い部分まで抉られる感覚、マゾヒストには堪らないだろう。
「ただ、一郎が私を『お前』って呼ぶのを止めて欲しいって言おうと思ったの」
「気に障ったのか?」
記憶を検索すると、女性は呼び名に拘るという知識があった。
もしかすると、彼女もまたそれに当てはまるのかもしれない。だとすれば、随分と不快な思いをさせていたことになる。
「そうじゃなくて、不公平でしょうが。私が名前で呼ぶのに、一郎だけが私を『お前』って呼ぶのは」
「じゃあ、善光寺秋子さん。これで、良いか?」
反論しても無駄だと分かっていたため、素直に従う。
「何、その他人行儀な呼び方は?」
他人なんだが、と言いかけて止めた。
「じゃあ、秋子さんで良いか?」
「もう一声」
魚屋で商品を値切る主婦のような言い方は止めて欲しい。
「呼び捨てにしろってか? 慣れ慣れしいだろ」
「だって、私達仲間じゃない」
仲間か。まあ、同じ目的を持つ間柄なのだから、そう表現できなくもないか。
「秋子。これで良いか?」
正直、呼び方なんてどうでも良かったのだが、仲間とやらの要望には形だけでも応えてやりたい。
「何だか、投げやりっぽいところが気になる」
「全然投げやりじゃないって。親愛の情を込めて言ったつもりなんだけどな」
肩を竦めて言い訳をするが、秋子の眼を見れば信じていないとよく分かった。
「まあ、良いわ。そういうことにしておきましょう」
秋子が言い終えると同時に、どこからともなく電子音が聞えてきた。詐欺師を描いた有名な映画のテーマソングだった。
「お前の電話じゃねーのか?」
「そう見たいね」
秋子は、膝に置いてあるバックから携帯電話を取り出す。背面ディスプレイが光り、着信かメール受信があることを示している。
携帯電話を開き、ポチポチとボタンを押して操作をする秋子。操作する指の動きは、感服するほどの早さだった。
「メールか?」
「ええ。友達から、お父さんのことについて」
顔を画面に向けたまま、こともなげに答える秋子。
しかし、その表情からは、喜びとも安心とも取れる感情が読み取れた。
何だ。一人ではないじゃないか。
そう思って、どことなく寂しく思った。家族はいなくても、友人がいるならば一人ではない。
その点で、秋子が遠い存在のように思えた。
******************************************
その後、何度も秋子の携帯電話には、着信とメール受信があった。その度に彼女は、丁寧に返事をしていた。
夜の十時を過ぎて、ようやく一息つく。
「友達、多いんだな」
「うーん。そうかな? 日本人の平均値を知らないから、何とも言えないわね。それに、友達って量より質じゃないの?」
「違いない。有象無象の奴らよりも、一人の善人が友人である方が、有益だな」
そうでしょ? と言いつつ秋子は、やおら俺に体を寄せ、マジマジと顔を見る。
「でも、一郎って友達少なそう」
なんて、心無いことを平然と言ってのける。
「イジメか? 出るところに出てやろうか?」
「あは。でも、当たってると思うけれどな。友達はいるにはいるけれど、すっごく変わり者って気がする」
「そいつは、量と質ともに最悪だな」
「でも、いないよりは良いと思わない?」
「そりゃーそうかもしれないがな」とは言っても嬉しくはない。「でも、そんなこと言ってて、記憶が戻った後、友達がいなかったりして」
「大丈夫、その時は私が友達になってあげるよ。質的には、問題ないでしょ?」
「その自信は、どこから出てくるんだ?」
「決まってるでしょ。ここよ、ここ」
トントンと大き目の胸を、親指で叩きながら秋子が笑う。
「大した奴だよ。本当に」
俺は肩を竦めて、苦笑するしかなかった。
「はー。それにしても、今日は疲れたわね」
秋子が、欠伸をかみ殺しながら言った。確かに、今日は色々とあった。よく、これまで保ったと思えるくらいだ。
「寝たらどうだ? ベッドは先に好きな方を選ぶと良い」
「そう? じゃあ、そうさせてもらおうかな」秋子は立ち止まり、背伸びをする。「あー、でも制服で寝ると皺になっちゃうな」
「そこのクローゼットに寝巻きが入ってるはずだ。それを着ると良い」
俺の言葉に従って、秋子はクローゼットの中から、浴衣を取り出す。
「着替えている間、外に出てるから終わったら呼んでくれ」
と言って、腰を上げようとした時、
「良いわよ。ここにいても。お風呂場で着替えるから、一郎はここで着替えると良いわ」
「確かにそうすれば手間がかからないが……。変なことを言うと、勘違いする男がいると覚えておくと良い」
「知ってるわよ、それくらい。でも、一郎は違うでしょう?」
「さぁ、どうだろうな」
「だって、さっきも全然反応しなかったし」
「じゃあ、そうなんだな」
「なーんだ。つまらないの」
秋子は不貞腐れたように、バスルールへと入っていく。
それを確認して、俺はため息をつく。
「元気なのは良いが、人をからかうのは勘弁してくれよ」
動揺しないでも、反応するのが面倒臭い事この上ない。
***********************************
秋子が窓際のベッドを選択したため、俺はドア側のベッドで眠ることになった。
「鼾かいたりしない?」
声の主を、ここから見ることはできない。
両者の間にはバスルームがあり、ベッド同士の距離が二メートル近くある。
「さあ、どうだろうな。なにせ、一郎になってから初めて寝るもんでな」玄関の鍵を確認しながら、答える。「もしかして、五月蝿いと眠れないのか?」
「うん。静かじゃないと眠れないし、眠りも浅いし」
「鼾をかいていたら、我慢してくれよ」
「いやよ。その時は、一郎の口と鼻を塞ぐわ」
「殺す気か……?」
「まさか。冗談よ、冗談」
全く冗談に聞えなかったのだが。
「明日の朝、無事に目覚められることを期待するよ」
言って、俺は部屋の電気を消した。
室内が暗くなると同時に、瞳孔が急速に収縮する。
「ちょ、ちょっと待って。なんで、電気消しちゃうの?」
慌てたような秋子の声が聞えた。
「何言ってるんだ? 寝る時は電気を消すのが……」そこまで言って、理解した。「豆電球を点ければ、良いのか?」
「──お願いします」
出会って初めて、秋子から何かを頼まれた気がする。
「お前、暗いの怖いのか?」
「はぁ? どこをどう解釈すれば、その結論が出るわけ? そんなはずないじゃない」
酷く不機嫌そうな声。逆に、それが言葉の真偽を如実に表している。
「じゃあ、好きなのか?」
暗いところが好きな奴なんているのだろうか? 言ってから思った。
「うっ……」と言葉に詰まる秋子。
「秋子は、暗いところが怖いと」
これは、いつか使える情報かもしれないな。頭のメモ帳にしっかりと記入しておこう。
「怖いんじゃないの、苦手なだけ」
まあ、そういうことにしておいてやろう。
ベッドに入り、目を閉じる。その途端、疲れが雪崩のように押し寄せてくる。
「絶対に信じてないでしょ?」
しつこい奴だ。しつこい女は嫌われるぞ、と言いたかったがすんでの所で堪えた。
「いや、信じてますって。つーか、無駄口きいてないで寝ろよ」
起きていられるのも、後一分程度だろう。その前に、秋子に言うべきことがある。
「襲うなよ」
「襲わないでね」
どうやら、言いたいことは同じだったようだ。
「「お休み」」
ここもまた、同じ。
でも、多分、次の言葉は俺だけのものだろう。
「「誕生日、おめでとう」」
ところが、そうもそうでなかったらしい。
「──ありがとう……」
眠りに落ちる直前の俺が、蚊の鳴くような声で答える。
「ありがとう」
秋子が、微かに光る豆電球と同じくらい微かな声で答えた。