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逃亡

 黄色い頭の男(彼を〝黄男〟と呼称すると決めた)に連れられて、ペデストリアンデッキの真下にある、西口のタクシー乗り場へと向かう。

 タクシー乗り場には、相当な数の客待ちタクシーが連なっていた。その内の一台を捕まえると、黄男は俺に乗るように顎で示す。


「どちらまで?」


 運転手は、奇妙な取り合わせの俺達に怪訝そうな表情を浮かべたが、直ぐにそれを業務用スマイルで打ち消す。


「片平の方に行ってくれ」


 横柄な態度で黄男が言うと、タクシーは静かに走り出した。


「あんたもツイてないな」


 嫌らしい笑みを浮かべてながら、黄男が蔑んだ眼で俺を見る。

 その視線を軽く受け流す。

他人がいる場所でこの話題を出す神経が、俺には信じられなかった。黄男の思考能力の低さに辟易する。


「そう思うなら、何とかしてくれないか? 何かと最近、不幸続きで気が滅入ってるんだよ」

「へぇ、ビビッねーみたいだな」


 自分でも不思議だが、神経が上手く起動していない気がする。いや、二時間ほど前の出来事で、神経が強化されたと言った方が的確か。神経にも超回復というものが、存在するようだ。

 

「それより、どうして俺を連れていくんだ?」

「答える義務はねーな。つーか、下手なことを聴くんじゃねーよ。俺がその気になれば……」


 言って黄男は、俺に携帯電話をチラリと見せる。自分でアウトラインギリギリの台詞を吐きつつこれか。しかも、演出がダサすぎる。


「タバコ、吸っても?」


 吸い過ぎだとは思ったが、それでも欲求には勝てない。


「構わないぜ。俺にも一本くれや」


 みみっちい奴だ。もちろん、そんなことは口にせず、静かに一本差し出した。

 サンキューと言って、黄男は旨そうにタバコをふかしている。


「どれくらいで着くんだ?」

「あー? あと少しだよ。まあ、急ぐなって。あの女と会えるのが嬉しいのは分かるがな」


 あの女。善光寺秋子のことだろう。そう考えると同時に、重大な問題にようやく気付く。

 会った時、俺のことをどう説明しよう……。

 犯人達を笑えない。こんな根本的で重大な問題に今更気付くなんて。


「ところでよ、お前とあの女ってどんな関係だ?」


 下劣な笑みを浮かべて、黄男が問う。その笑みを見ているだけで、胃もたれを起こしそうだった。可能ならば、こいつの顔にモザイクをかけたい。こいつの存在自体が十八歳未満閲覧禁止だ。


「さぁ、何だろうな?」


 つーか、俺が知りたいくらいだ。


「もしかして、お前の女か?」肉体関係を示す卑猥な表現を、右手でやりながら男が言った。「おっ、図星か? だとすれば、残念。今から、お前の前で……」


 ニヤニヤと、笑う黄男。省略された先は容易に想像できた。こいつの頭の中は、性欲と金欲で占められているのだろう。もう少し、有意義なことに頭を使えば良いのにな……。


「何だ? 今になってビビッたのか? だろうな。後で自分と彼女が、どうなるか想像すりゃー、そうなるだろーな」


 無言のままの俺をどう勘違いしたのか、男が勝手に解釈を始める。


 勝手に妄想させておけば良いだろう。

 黄男の妄想とは違い、俺は気味悪いほどに落ち着いていた。

 目覚めてから、二時間が経過している。ようやく、脳にかかっていたオブラートが、体内を循環する血液によって、完全に溶かされたようだ。本来の自分(とは言っても、確信は持てないのだが)を取り戻しつつある。

 少なくとも、確実に言えるのは一つ。

 黄男が言うような未来が、俺には全く想像できない。


**********************************


「ここで、良いぞ」


 黄男の言葉に従い、運転手がタクシーを停車させる。ブレーキパッドが薄くなっているのだろうか、女性の悲鳴のような音が聞えた。


「降りろ」


 正面には、五階建てのマンションが見える。規模から考えて、ワンルームマンションだろう。外壁に汚れやヒビは見られず、比較的新しい物件だということが分かる。


「おい、金払えよ」


 振り返ると、黄男が右手を差し出して催促している。どうやら、タクシー代を払えと言うことらしい。


「ほら、これだけあれば足りるだろ」


 俺は五千円札をぞんざいに突き出す。


「釣りはいらねーよな?」


 とことん小物だと思う。これでは、他の誘拐犯達も大した事ないだろう。何より、誘拐の基本がなっていない。こんな計画を立てて、本当に成功すると思っているのだろうか? 

 もしも、善光寺秋伸が存命で、警察に通報したらどうするつもりだったんだ? 身代金の受け渡し場所で待ち受けている警察に、嗅ぎつけられて後は芋づる式で検挙されるのがオチだ。


「ぼけっとしてんじゃねーよ」


 背中を小突かれる。気がつけば、タクシーは既に走り去った後であった。


 黄男と共に、オートロックのドアをくぐり、正面に見えるエレベーターへと向かう。

 ポーン、という音がして一階にエレベーターが到着した。


 黄男は、五階のボタンを押す。音もなくドアが閉まり、鉄の箱はゆっくりと上昇していく。

 一瞬の浮遊感を覚えた後、エレベーターの中にはモーターの駆動音のみが響く。


「ところでよ。お前の名前、なんて言うんだ?」


 沈黙に耐えかねたのか、黄男が尋ねてきた。何故、こいつは俺自身が知りたいことを訊いてくるのだろうか?


「呉一郎……」

 

 俺が投げやりに呟く。

 

「いちろー? 大したことない名前だな」


 興味を失ったのか、黄男は話題を勝手に打ち切る。


 ポーンと軽い音がしてエレベーターが停止した。


「着いたんだろ? 案内してくれよ」

「あ、ああ。こっちだ」


 マンションの廊下を無言で歩く。何気なく、手すりから下を見る。地上十メートルと言ったところだろうか。意外に、低いと感じた。

 これなら、飛び降りれるな……。

 いや待て。今俺は、何を考えた? ここから、飛び降りるだと? 

 確かに、物理的には飛び降りることは可能だ。しかし、飛び降りた後、無事かと言えば、そんなわけがない。

 頭が冴えてきたというのは、ただの勘違いだったのか?


「おい、どうした? ここだぞ」


 いつの間にか、目的の部屋の前にいたらしい。

 ドアを見ると、505号室と書かれている。表札に世帯主の名前は書かれていない。最上階の角部屋。立地条件としては最高だろう。仙台市中心部で、この立地条件ならば月の家賃も馬鹿にならないはずだ。こんな場所に住んでいる奴が、身代金目的の誘拐を企てるほど、困窮しているとは思えない。


 ならば、愉快犯か? それもないだろう。愉快犯にしては、善光寺秋伸の所持金を把握しているなど、奇妙な点で綿密だ。比較して、計画自体は隙間風が吹く長屋ほどお粗末だ。


 酷く、グロテスクな印象を受ける。

 何にせよ、こんな下らない事件を起こしたメンバーと会えるのだ。

──あと被害者の善光寺秋子とも対面できる。

 黄男はインターフォンを鳴らし、室内に到着したことを知らせる。直ぐに、誰何する声が返ってくる。


「俺だよ。豊田だ」黄男の苗字は豊田と言うらしい。「連れてきたぜ」

「おう。ちょっと待ってろ、今空けるからよ」


 インターフォンの声の主がそう言うと、ガチャリと音がしてドアが開いた。


「こいつが、善光寺秋伸か……?」


 ドアを開けた人物。彼もまた、豊田と同じで髪を黄色に染めていた。

 耳には金属探知機が盛大に反応しそうなほどのピアスをつけ、くちゃくちゃとガムを噛んでいる。

 甘ったるいブルーベリーの匂いが、不快だった。


「ちげーよ。代理の奴らしい。聞いてねーのかよ?」


 呆れたように豊田が言った。


「あー、そう言えばそんなこと言ってたな」


 わりーわりー、とニヤつきながら謝るピアス付き黄男。


「そろそろ、中に入れてくれないか?」


 こいつらは、来客時のマナーを習っていないようだ。本当に、どんな躾をされていたのだろうか?


「なぁ、こいつマジむかつくんだけど」


 ピアス付き黄男が俺を睨む。

 これが所謂ガンを飛ばす、というやつなのだろう。しかし、俺には、下痢を我慢して顔を顰めている滑稽な男にしか見えない。


「まぁ、そう言うなって。後で、じっくりと自分の立場って奴を教えてやろーぜ」

「ははそれもそーだな」ピアス付き黄男がドアを大きく開き、俺を招き入れる。「今から、やっちまうところだったんだよ。ったく、良いところで邪魔しやがって」

「おいおい。俺が来る前に、始めようとしてたのかよ?」


 こいつらが何を始めようとしていたのかは、大体分かる。こいつらみたいに欲望に忠実に生きていれば、さぞかし楽な人生を送れるんだろうな。

 少しだけ、本当に少しだけこいつ等が羨ましくなった。

 

 玄関には靴が六足あった。その中に小さめのローファーが一つ。これが、善光寺秋子の物だろう。と言うことは、犯行グループは豊田を加えて六名か。

 大した数ではない。


「おいっ、靴ぐらい脱げよ!」


 豊田が、俺の肩を掴むが邪険にそれを振り解く。


「うるせーよ。どうせ、殺すつもりなんだろ? だったら、最後くらい好きにさせろ」

 吐き捨てながら、廊下をさっさと一人で歩き始めると、慌てたように二人がついて来るのが分かった。


「ここだな?」


 正面に見えるドアを指しながら、俺が問う。


「さあな? 開けてみれば分かるんじゃねーか?」


 豊田が、卑しい笑い声交じりで答える。同様に、ピアス付き黄男も耳障りな笑い声を上げる。


──絶対にこいつはただじゃおかない。徐々に、思考が攻撃的になっていく。


 この時点で俺は明確な敵として、豊田達を認識した。先程までは、敵にすらなっておらず、ただ蔑むだけの存在だった。ならば、ある意味で昇進したことになるだろう。

 原因は、俺に向けられた侮蔑の言葉か? それとも、今から善光寺秋子に為されようとする行為に対する義憤心か?

 まあ、そんなことは些細なものだ。

 思考と同時に、体も戦闘を予想して体勢を整える。心拍数が上がり、脳内物質が切り替わる。


「ここから逃げる」という選択肢は既になくなっていたからだ。


「あけねーのか?」


 豊田が、俺の背中を小突く。


「黙ってろ。言われなくても、開けてやるよ」


 俺はドアノブに手をかけ、一気にドアを開け放つ。

 派手な音を立てて、ドアが開いた。

 室内は……。まあ、予想した通りの情景だった。

 いや、予想外だった点一つ。

 善光寺秋子の服が、まだ脱がされきっていないかった。てっきり、ある意味での手遅れだったと思ったのだが。

 いや、別に期待していたわけではない、はず……


 室内には、善光寺秋子を含めて五人の男女がいた。

 下校時に拉致されたのだろう。

 善光寺秋子は、制服姿のままだ。

 彼女の足元には、学校指定のものだと思われる鞄が、投げ捨てられていた。

 両手を手錠で拘束され、制服であるセーラー服の上半分はたくし上げられ、白い下着が露になっている。

 スカート部分は脱がされていないものの、抵抗したためだろうか下着が丸見えだった。

 口には猿轡が嵌められ、言葉を発することができないようだ。端的に言えば、アダルトビデオのパッケージを想像すれば良いだろう。

 少し違う部分は。善光寺秋子の容姿が、そこらのAV女優よりも整っている点だろう。

 カラスの濡れ羽色、という表現がぴったりな長い髪。

 そこらのモデルよりも小さな顔。

 そこに付属するのは、白磁よりも白い肌、マッチ棒が乗るんじゃないかと思えるほどに長い睫毛、ルビーのように赤い唇、そして黒真珠のような二つの瞳。


──襲いたくなるのも分からなくはない。

 

 しかし、何より感心したのは、善光寺秋子の瞳に絶望や恐怖といった感情が、見られない点だ。

 男にこんな状況で囲まれてもなお、その両目には相手に対する侮蔑と敵意しか宿っていない。

 

 室内にいる男は、四人。

 全員が全員、頭を黄色に染めている。

 何だ? こいつらは。変なカルト宗教にでも入信しているのか? そうでなければ、揃いも揃って頭髪を黄色に染める理由がないだろう。黄色には神秘性でも宿っているのか? 

 

 男達の体格は、現代っ子らしくひ弱で貧弱そうに見えた。鶏がらみたいな腕をした奴までいる始末だ。出汁にしても安っぽい味しか出ないだろうが。

 服装も似たり寄ったりで、全員が全員ぶかぶかのトレーナとジーンズで身を固めている。

 

 その内の一人は、気が早いもので既に全裸の状態だ。こいつの全身に、今すぐモザイクをかけてやりたい。

 非常にグロテスクな画像で、成人指定がかかるレベルだろう。


「おい、こいつが例の男か?」


 部屋の隅でタバコをふかしていた男が、俺を睨みながら豊田に問う。


「ああ。善光寺秋伸の代理で……名前は」


 数分前に聞いた名前は既に忘れられているようで、仕方なく再度名乗る。


「呉一郎」


 善光寺秋子の眉が顰められる。

 そりゃそうだろう。いきなり見知らぬ男が現れて、父親の代理だと名乗っているのだから。しかも、その名前が、某小説からとった偽名ときている。

 

「そうそう、一郎って言って、その女の彼氏らしい」


 豊田が、俺を小突きながら、虚構の補足を加える。

 その言葉を聞いて、善光寺秋子の敵意が俺にまで向けられた気がする。この場にいる、黄色男達よりも怖い。

 室内にいる男が、一様に脂っこい笑みを浮かべて、俺をはやし立てる。


「何だ? 自分の女がヤられるとこを見物しにでも来たのか?」


 ゆっくりと、善光寺秋子にタバコを銜えた男が歩み寄る。

 「ほら、彼氏に助けでも求めてみろよ」


 猿轡を乱暴に取り外し、男は善光寺秋子を脚で軽く蹴る。涎でドロドロになった猿轡が、床にベチャリと卑猥な音を立てて張り付く。

 善光寺秋子は何度か咳き込んだ後、その男を睨みつけ言った。


「知らないわよ! あんな男なんて!」


 一斉に、室内にいる全員の視線が俺に集中する。

 そして、善光寺秋子はマジマジト俺を見る。


「……本当に、あんた、誰?」

 

 それは、俺が知りたいくらいだ。


「さあ?」


 首をかしげながら、俺は問い返す。本当に、誰か知らないものだろうか? それでも、この場にいる黄色い男達に、俺の知り合いがいて欲しくないのも事実だ。


「おい、お前。この男を、本当にしらねーのか?」


 善光寺秋子の猿轡を取った男が、俺の方を見ながら彼女に問う。


「さっきから言ってるでしょうが。話聞いてたの?」


 今にも掴みかかりそうな勢いで、善光寺秋子が乱暴に答える。


「──一体、何しに来た?」


 どうやら、善光寺秋子の猿轡を取った男がリーダー格のようだ。他のメンバーは、成り行きを見守ることに決めたようだ。


「俺は、そこの豊田とかって奴に連れて来られただけだ。本当に、誰か俺を知らないか?」

「聞いてるのは、こっちの方だ!」男がいきなり激昂する。「さっさと答えろ!」

「どうせ、力に訴えるんだろ? 力ってーのは、最も公平な裁判官だからな」


 その言葉を聞いて、男の唇が歪む。


「へー、分かってるじゃねーか。だったら、さっさと……」


 その言葉を俺は、鼻で笑って遮る。


「嫌だね」

 瞬間、室内の空気が変わる。サーモグラフィーでは測定できない類の変質。


「はっ、いい根性してるじゃねーか」男が軽く顎を動かすことで、他のメンバーに指示を出す。「間違って、殺しちまうかもしれねーぞ!」


「安っぽい台詞だな。もう少し、映画や小説を勉強して台詞を練り直せよ」

「っの野郎!!」


 背後から豊田が、俺に掴みかかってくる気配を感じた。

 俺は軽く体を開き、豊田の足を払う。

 受身を取れないまま、豊田は潰れた蛙のように床にへばりつく。そのまま後頭部を踏みつけると、動かなくなった。


「で、誰を殺すって?」


 俺もまた、安っぽい台詞で男達を挑発する。

 少しくらい、ウサ晴らしをさせてもらっても良い頃だろう。

 男達は、それぞれポケットからナイフを取り出し、俺に向かって陳腐な殺気を向ける。

 いや、訂正。一人の男は、脱いだ服を着るのに手間取っている。締まらないな、せっかくの見せ場なのに。


「ぶっ殺してやる!」


 リーダー格の男が、俺との距離を詰める。ナイフの切っ先は、正確に俺の左胸に向けられている。人を殺す覚悟がある点では、見上げたものだが……。

 殺し方を知らないのでは、どうしようもない。

 左足を軸に体を開くだけで、ナイフの切っ先は目標物を失う。リーダー格の男と体がすれ違う寸前で、ナイフを持った右手を左腕で拘束する。


「だから、安っぽいって」


 耳元で囁き、がら空きになった顔面に右の掌底を叩きつける。衝撃が伝わったと認識するのと同時に、拘束していた左腕を離す。掴んだままだと、次の行動に支障をきたすと考えたからだ。


 しかし、その選択は間違いだった。


 ここで、この部屋の内装を叙述しよう。室内の広さは十二畳程度。ベッドなどの内装品はない、殺風景な部屋だった。あるのは、空き缶やスナック菓子の袋、それに散乱したタバコの吸殻ぐらいだった。その部屋のドアから向かって左側に、善光寺秋子は拘束されていた。ドアの正面には、大窓がありカーテンが閉められていた。

 その窓が脆かったのだろうか。俺に殴られた男は、弾き出されたピンボールのように室内を一直線に飛んでいくと、そのままの勢いで窓を突き破っていった。

 次に聞えたのは、ドップラー効果を証明しながらの叫び声。数秒後に聞えたのは、何かが叩きつけられた鈍い音。


「あれ? えっと……」俺は、右手を閉じたり開いたりする。


 室内のメンバー全員の目が、文字通り点になっていた。


「ば、ば、ば、ば、ば、ばけもの!」


 その声は、足元から聞えてきた。見ると這い蹲っていたはずの豊田が、起き上がっており、怯えた眼で俺を見つめていた。回復力だけは驚嘆に値する。


「うるせーよ」


 何だか非常に不愉快なことを言われたので、俺は問答無用で豊田の腹に蹴りを入れる。今度は手加減して、死なない程度にしておいた。

「ぐへっ」という間抜けな声を上げて、豊田は打ち上げられた魚みたいに床に伏し、痙攣し始めた。


 手加減したつもりだったのに……。


「おかしいな。俺、いつの間に超人になったんだ?」


 善光寺秋子の方を見て、俺は尋ねる。彼女は怒ったように、答えてくれた。


「知るわけないでしょ!」


 まあ、そりゃそうだな。


「お前らも分からないか?」


 しかし、その言葉には答えず男達は、


「うううあああああうあうあうあうああああああああああ!!!」


 などと奇声を上げながら玄関に向けて脱兎のごとく走り出す。


「ちょ、ちょっと待て!」


 俺は怒鳴るが、もちろん聞く耳を男達が持つはずがない。


「俺を置いていくなよー」


 再び意識を取り戻し間抜けな声を上げる豊田を、再び踏み潰す。お前だけは、絶対に逃がさない。

 よし、今度こそ完璧に昏倒したはず。

 そう思い、男達を追いかけようとした時、


「ちょっと待ちなさいよ!」


 善光寺秋子が、俺を呼び止めた。


「何だよ? 今忙しいんだ」

「あんた、女の子一人を置いていくつもりなの!?」


 ジャラジャラと手錠の鎖を鳴らしながら、善光寺秋子は自己アピールをする。


「ああ、悪い。忘れてた」


 これは冗談。気を紛らわせてやるためのジョークだったのだが、善光寺秋子はお気に召さなかったようだ。


「わ、忘れてたって……。あんた、私を助けに来てくれたんじゃないの?」呆れたように、善光寺秋子は肩を落とすが、直ぐに何かを思い出したように俺を見つめる。「──ごめんなさい。助けてくれたのに、お礼言ってなかったわね。ありがとう」


 平素の精神状況とは格段に異なる時でも、しっかりとお礼を言えるところには好感が持てる。最近の女子高校生にもまともな娘はいるんだな、と感慨深くなってしまった。

「いや、礼はいらない。誰に頼まれたわけでもないしな」


 そう。本当に誰にも頼まれていないのだから……。

 男達を追うよりも、善光寺秋子の体を自由にしてやる方を選択。きちんとお礼を言ってくれたのだから、これくらいの返礼はすべきだろう。


「えっ、お父さんに頼まれたんじゃないの?」


 ぴくり、と自分の体が反応したのが分かった。善光寺秋子の父親は既に……。


「それは後で話す。その前に」手錠を取ってやりたいが、生憎と鍵が見当たらない。もしかすると、逃げた奴らが持っていったのかもしれない。「しょうがねーな。できるかどうかわからないけれど……」


 善光寺秋子の手首を拘束している手錠の輪っかの部分を両手で握ると、力任せに俺は引っ張った。

 甲高い金属音と共に、手錠の一方が破壊された。


「嘘でしょ」


 眼を丸くして善光寺秋子が、揺れ続ける手錠を見つめる。


「俺も、嘘であって欲しい」しかし、大して自らの怪力に驚いていない自分を感じている。「ほら、もう片方も壊すから動くなよ」

「あ、ありがとう」

「どーいたしまして」


 再びの金属音。


「あー、本当に最低。手首は痛いし、汚い手で触られるし」


 乱れた服を直しながら、善光寺秋子は溜め息混じりに言った。彼女の白く細い両手首に、痛々しいほどに赤い線が、一筋ずつ引かれていた。


「災難だったな」

「本当よ。家に帰る途中に拉致られたと思ったら、こんな状況。何が、今月の運勢は最高よ。もう二度と、あの雑誌は買わないことにするわ」

「良く分からないが、雑誌の占いほど信用できないものはないと思う」


 俺自身が雑誌の占いを見た記憶がないが、多分そうなのだろう。しかし、その言葉には耳を貸さず、善光寺秋子は愚痴り続ける。


「今月の末には、素敵な出会いがありますって書いてあったのよ。そして出会ったのが、気持ち悪い男が六人。どんな素敵な出会いよ」


 六人の男というのは、犯行グループの男達だろう。どうやら、俺は気持ち悪い男の中には入っていないようだ。

 少しだけ、安心した。


「それから、不審な男が一人」


 前言撤回。十分に最低な出来事に列せられてました。

 ふいに、廊下からくぐもった音が聞えてきた。続いて、何が柔らかいものが廊下に倒れる音が計四回。


「今、何か聞えなかったか?」

「えっ、そう? 私には聞えなかったけど」


 空耳か? それにしては、嫌にリアルだった。

 いや、気のせいではない。その証拠に、俺の鼻腔がどことなく嗅ぎなれた匂いを捉えている。


「最近、無煙火薬で遊んだか?」

 あり得ないと思いつつ、俺は善光寺秋子に尋ねる。

「無煙火薬? 何それ?」

「だよな……。ちなみに、無煙火薬っていうのは銃弾の推進剤のこと」


 くぐもったように聞えた音は、恐らくサプレッサーを装着した拳銃による発砲音。

いや、それでもおかしい。どんなに精密なサプレッサーでも、ドア越しに善光寺秋子が聞き取れないほどの消音効果があるだろうか?

 しかし、現実として……。この鼻腔は、胸が一杯になるほどの血と脳漿、そして硝煙の匂いを捉えている。


「逃げるぞ」

「えっ、何言ってるの?」

「良いから。さっさと、鞄を持て」

 言って秋子の腕を取る。そのまま、有無を言わさずに玄関へと向かう。

「靴を履け」

「ちょ、ちょっと」抗議しつつも、善光寺秋子は俺の言葉に従う。「いきなりどうしたの? 逃げるって何から?」


 その言葉に答えたのは、俺ではなかった。


「俺から、じゃないのか?」


 答えたのは、ドアを開けて新たに部屋に入ってきた人物。

 目覚めて最初に出会った人物でもある。

 善光寺秋子の家に押し入ってきた男だ。

 先程とは違うのは、その右手に大振りの拳銃が一丁握られている点だ。


「よぅ、元気か?」拳銃を持っていない左手を上げて、男は陽気に俺に向かって挨拶をする。「それにしても、粗い仕事だぞ。力任せに男をこの部屋から突き落としたり、みすみす敵を逃がしたり……」


 そして、男は見たことのある茶封筒を俺に投げて寄越す。


「ほら、金は取り返してやったぞ」


 茶封筒の中身を確認すると、最後に見た時と同様に、眩暈を起こしそうなほどの福沢諭吉先生がいらしゃった。

 封筒を後ろ手で秋子に手渡しながら、警戒を解かずに問う。


「どうやって来た?」


 無意識のうちに俺の体は、善光寺秋子を庇うように体を移動していた。


「それは、WHYの意味でか? それともHOW?」

「どちっちもだ」

「前者は、お前とその女を確保するため。後者は下に停めた車で」


 ここで確定した事項が一つ。目の前の男が、敵であること。

 それが、分かっただけでもすべきことが整理できる。


「なあ、ゆっくりと話し合わないか?」

「人に銃口を向けて、何を言ってやがる」


 流石に銃弾を躱す自信はない。かと言って、言われた通りにはできない。


「銃口? 別に、お前に向けているわけじゃねーよ」


 言って、男は躊躇なく引き金を引く。

 低くくぐもった音。

 発射された銃弾は、俺や善光寺秋子ではなく、床に臥している豊田の頭部を打ち抜いた。

 豊田は、一度だけ大きく痙攣すると、それっきり動かなくなった。じわじわと、フローリングの床に血と脳漿の水溜りが形成されていく。


「うそ……。撃った、人、撃った……」

 いつの間にか、善光寺秋子が俺の服の裾を握っていた。その手は小刻みに震えている。

「殺すなら、しっかり殺しとけよ」クルクルと西部劇のガンマンのように銃を回しながら、男が笑う。「ほら、早いところ女を渡せ。お前にとっては、それがベターな選択肢だ」


 俺は後ろで震えている善光寺秋子を見る。彼女も俺を見た。

 それで、回答は決まる。


「ベストな選択肢ではないんだな? できるはずがないだろう」


 ベターであるならば、ベストな選択肢もあるはずだ。男は、それを提示していない。その時点で信頼できるはずがない。


「言葉尻を一々捉えるなよ。ベターだろうが、ベストだろうが、お前の利益になることは間違いない」


「あのさ、私……」


 秋子が、何を言おうとしているのかは理解できた。

 だからこそ、言わせるわけにはいかない。


「あーそうか。やっぱり、あんな殺人鬼とは、一緒に行きたくないかー」


 思いっきり棒読みで言ってやった。善光寺秋子の意図する所とは、正反対のことを。

「えっ、私そんなこと……」


 慌てたように善光寺秋子が口を開くが、その言葉を遮り片手で彼女を抱き上げる。


「大切なお金、落とすなよ」

「ちょ、ちょっと!」


 いきなりの出来事に、善光寺秋子が目を白黒させる。

 俺が選択したいのは、ベストの選択肢。そして、現在考えられるそれは……。

 そのまま、一気に走り出す。

 男にとっても、予想外の行動だったようだ。銃口を俺に向けるだけで精一杯であり、銃弾が発射されることはない。

 体を低くして、男の脇をすり抜ける。このマンションの玄関が無駄に広くて助かった。


 その際、男の腰にぶら下がっている、やたらと大きいキーホルダーを、残っている片手で、引きちぎる。

 男も、俺の行動に気付いたようだ。慌てて、俺に手を伸ばすが、一メートルの距離で人間離れした加速を見せる俺に、触れることは叶わない。

 勢いを殺さずに、ベランダの手すりに飛び乗る。

素早く視界に移るものを分析。


 15メートルほどの距離。

 真下には、以前に見たことのある黒い車があった。ナンバープレートを確認する。「77―77」、間違いない。

 敵ではあろうと、正直な奴は好感が持てる。


「ちょっと、あんた何を……」


 抱きかかえている善光寺秋子が、どこか引きつった表情で言った瞬間、

 俺は跳躍した。


「うそ……」余りに現実離れした状況に、善光寺秋子が呆然と呟く。

 重力というものの偉大さを、体で実感する。

 15メートルの距離を、これだけの速さで移動させてくるれるのだから。


「着地する。しっかりつかまってろよ」


 俺の服を掴んだ小さな手に、力が篭るのが分かった。こんな非現実的な状況でも、まだ冷静に人の話を聞くだけの理性が残っているようだ。少し、驚かされたが、パニックを起こされるよりはよっぽどマシだ。

 勤めて静かに着地する。


「あはは。あんた、凄いね。牛乳を毎日飲めば、そんなに強い骨になれるの?」


 引きつったように唇を歪めて、善光寺秋子が笑う。


「それと、外でよく遊ぶことだな。ビタミンDがなければ、話にならない」


 車のドアを開錠した時、

「鍵返せ!」

 頭上から怒鳴り声がした。


 視線を移す。


「もう信じられない……」


 男が今まさに、俺と同じように飛び降りようとしていたところだ。

「早く乗れ!」


 善光寺秋子に怒鳴り、運転席に乗り込む。

 それと同時に、男が車の正面に着地する。

 Startと刻印されたボタンを押して、エンジンをかける。心強い駆動音が、ハンドルを通して伝わってくる。マニュアル式のギアを一速に入れる。


「おい、早く車から降りろ!」


 サングラスの男が、車の正面に仁王立ちする。つーか、銃口をこっちに向けてやがる。撃つ気満々だな。


「どうするの?」心配そうに俺を見る善光寺秋子。

「さぁな? 俺には正面に何もないように見えるが」


 言って、俺はクラッチを解放しアクセルを踏み込む。

 女の悲鳴のような甲高い音を立てて、車が急発進する。一瞬、シートに体が沈み込むが、そんなことは気にしない。


「ちょっと、轢いちゃうわよ!」


 そう言った瞬間、鈍い音を立てて男が自らの車に撥ね飛ばされる。衝撃は殆ど感じなかった。エアバックは作動していない。フロントガラスにも、ヒビ一つ入っていない。


「最近の車って、頑丈なんだな」

 スピードを落とさず、俺は車を走らせ続ける。


「信じらんない……」善光寺秋子は頭を抱える。

 ルームミラーを見ると、サングラスの男は既に立ち上がり、こちらに向かって中指をおっ立ててなにやら怒鳴り散らしている。あいつも、この車に負けず劣らず頑丈だな。

「ところで、あんた免許持ってるんでしょうね」


 鋭い指摘ですよ、善光寺秋子さん。


「免許はないが、運転できる」

「そう。それなら、問題ないわね」


 何かを諦めたように、善光寺秋子がため息混じりに言った。

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