金と穴
目的の2000万円は、思いの外簡単に見つかった。
善光寺秋伸の肉片が散乱する部屋には、彼のものと思われる机があり、その一番下の引き出しに茶封筒に入って置かれていた。
鍵をつけなくて無用心ではないのか?
とも思ったが、むしろ感謝すべき事なのかもしれない。
「後は……。受け渡し場所か」
受け渡し場所は、仙台駅と言っていた。
仙台くらいは俺の頭に残っている。
東北地方最大の都市で、通称「杜の都」だったはずだ。
期限である3時までには、容易に仙台駅へと到着できる位置にこの家は存在するのだろう。
いくら何でもここが東北地方ですらない、ということはないはずだ。
そんな無茶な要求をして、肝心の金が手に入らない状況を犯人が作るとは思えない。
まずは、この家がどこに存在しているかを把握しなければならない。
窓の外を何気なく見る。
そこから見える景色から推測するに、善光寺家は地上三メートルほどの場所に位置しているようだ。
外に出ていないので断言できないが、ほぼ間違いない。
この家の内装が質素な点から考えて、格好良く言えばテラスハウス、悪く言えば二階建ての長屋、といった建物だろう。
窓の外にある電柱に、青い金属製のプレートが付けられているのが見えた。
住所を示すプレートだろう。
正に、渡りに船だった。
生憎と、ここからでは角度の問題で文字を読むことができない。
恐らく、読める場所は……善光寺秋伸の死体がある部屋だ。
気は進まないが、死体のある部屋へ移動する。
「えっと、仙台市青葉区……」
プレートに刻印されている白文字を読む。
「良かった。ここが仙台市で……」
ほっと息をついた。
タクシーを捕まえれば、3時までに仙台駅へ到着するだろう。
幸い、財布の中には3万円ほど入っていた。
タクシー料金を払えない、なんて笑えない事態は避けられる。
そこまで考えて、俺はとんでもないことに気がついた。
慌てて、再び電柱を見る。
ここから電柱まで、およそ20メートル。
住所を示すプレートは、縦5センチ、横10センチ程度だろう。
刻印されている文字は、当然さらに小さい。
それをこの距離から肉眼で、苦もなく読むことができた。
「俺、こんなに眼が良いんだ……」
いや、眼が良いどころの話ではない。
アフリカだかの先住民族の視力が10を超えると聞いたことはあるが、現代日本に生きているはずの俺に同レベルの視力があるとは……。
俄かには信じられなかった。
呆然とする俺の視界に、閑静な住宅街には不似合いなモノが入ってきた。
いや、姿形は問題ない。
しかし、俺の脳が体中に違和感と不快感を伝える、数百匹のナメクジが背中と内腿を這い回るような気持ち悪さ。
4台の車が、善光寺家のある集合住宅の前に横付けする。
うち3台は銀色の業務用ワゴン車。
残り1台は黒塗りのスポーツタイプのセダン車だった。
車のナンバーは「77―77」。
随分と縁起の良い数字だ。
横付けするなり、3台のワゴン車からツナギを来た男性が4人ずつ、計12名が降りる。
続いて、黒塗りのスポーツカーからラフな格好をした若い長身の男性が1人。
挑発的な英単語がプリントされた黒のフェイクレイヤードシャツを着て、薄汚れたジーンズを穿いている。
腰には、数本の鍵を束ねたキーホルダーを付けており、ジャラジャラと歩くたびに喧しそうなほどだ。
その若者は、俺のいる善光寺家を気だるそうに見上げる。
サングラスをかけた彼の眼を見ることはできない。
しかし……その瞬間に俺と男の視線がかち合う。
ヤバイ。
脳から発せられた警告が、体中の神経を瞬時に駆け巡る。
俺を指差しながら若者は、他のツナギを着た者達に何やら指示をする。
一斉に、彼らの視線が俺に集中する。
視線が交わされたのは、ほんの数秒だろう。
しかし、彼らはそれだけで自分が何をするべきか理解したようだ。
サングラスをかけた若者を先頭にして、俺のいる善光寺家へと駆け寄ってくる。
「何なんだよ、一体!」
とにかく、彼らの目的が俺であることは疑いようがない。
逃げるか……。
そう考えたのもつかの間。右手に持った2000枚の福沢諭吉が、空気の読めない自己主張を始める。
逃げるにしても、やるべきことはある。
俺は駆け出した。
玄関に走り、靴を1足調達する。
上手い具合に、スポーツシューズを調達できた。
サイズも問題ない。
もしかすると、俺がこの家に来た時に履いていた物かもしれない。
「どこから逃げる?」
玄関越しに、大勢の人間が階段を駆け上がる音が聞えた。
ここからは無理だ。
そうだ。
洗面所にも窓があった……そこからなら……。
しかし、そこで気がつく。階段から聞える足音は9人分。
4人分足りない。
「他の脱出経路も塞いでいるのか……」
どうする……?
確認できた窓は、リビングに2箇所、善光寺秋子の部屋、善光寺秋伸の部屋、洗面所に一箇所ずつ。
計5箇所。
五箇所?
計算が合わない。
外で待機しているであろう人数は、4人。
つまり、1箇所穴がある。
何故、1箇所穴を残した?
中にいるのは、俺1人。
別に9人も動員しなくても良いはずだ。
それにもかかわらず、わざわざ1箇所穴を開けてまで、ここに大勢で向かっている。
まさか、俺を警戒してギリギリの人数を割いたのか?
それとも、罠か?
いや、そんな考察はどうでも良い。
頭を振って思考を強制的に変更。
今考えるべきは、どこに穴があるか。
罠があるにしても、この家から出なければ話は始まらない。
もちろん、5箇所全てを回っている時間はない。
逆の立場になって考える。俺が、穴を残すとしたら……。
──俺が彼らを視認した場所。
来た道を戻る。
目指すは、死体の転がっている善光寺秋伸の部屋。
俺がここから移動した後に他の窓から脱出すると、奴らは踏んでいるはずだ。
窓の外に見えるのは、4台の車のみ。
「当たりか……?」
もちろん、伏兵がいる可能性も捨てきれない。
しかし、他に納得できる選択肢は存在しない。
地上まで、3メートル程度。
着地に失敗すれば、骨の1本くらいは壊れる可能性がある。
しかし、それは躊躇する理由にならない。
窓を開ける。
同時に、ドアを蹴破る音が聞えた。
無残な善光寺秋伸の死体を見る。吐き気を感じることはなかった。
「期待しないでくれよ……」
言い訳がましい言葉をかけつつ、俺は飛び降りた。
急速に地面が近づいてくる。
それを認識すると同時に、両足が地面に接した。
意外なほど、衝撃のない完璧な着地。
記憶を失う前の俺は、かなり体を鍛えていたか、運動神経抜群の若者だったのかもしれない。
「おい! ちょっと待て!」
背後から、そう怒鳴る声が聞えた。
もちろん、振り返るつもりはない。
全速力で走り出す。
文字通り、脱兎のごとく。
いや、もしかすると脱兎よりも速いかもしれない。
本気でそう思うほどの加速だった。
人間って、ここまで早く走れるんだ……。そんなことをぼんやり思ったが、深く考えている暇はない。
1分足らずで、片側4車線の道路に出ることができた。