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かかってきた電話

  口元を押さえて、その場に蹲る。

 

 嘔吐中枢が暴走し、意思の制御を受け付けなくなる。

 指の隙間から、気持ち悪いほど生暖かく黄色い粘着質の液体が漏れ出てくる。

 

 しばらく何も口にしていなかったのだろう。

 口から出てくるのは、奇妙な呻き声と黄色い胃液だけだった。

 固形物は一切漏れてこない。

 ビクビクと胃が痙攣している。


「っ、何だよこれ……」


 涙で視界が歪んでいる。

 鼻腔に胃液が入ったために、鼻の奥が焼けたように痛い。

 息を吸うたびに、血の匂いが鼻腔に侵入し、嗅覚だけでなく思考まで浸食していく。

「うぐぇぁ……」

 

 無様な声とともに、再び吐き気がこみ上げてくる。

 

 限界だった。

 

 走って、洗面所に向かう。

 

 蛇口を限界まで捻り、滝のように水を出し続ける。

 何度も吐きながら、涙を流す。

 

 意味が分からない。

 どうして、俺がこんな目に会わなければならない。

 俺が、何か悪いことをしたのか?

 

 惨めで、怖くて、悔しくて涙が出てきた。

 自我が崩壊しかけている。


──むしろ、壊れてしまえば楽かもしれない。


 そんな恐ろしいことを、どこか他人事のように感じていた。

 俺はどうすれば良い? 知らん顔をして、ここから出て行くか?

 無理だ。人が一人死んでいる。


 それなら、正直に警察に通報するか?

 無理だ。俺が疑われるに決まっている。


 死体のある家には、記憶喪失で身分証を持たない男が一人。

 疑わない方が、おかしい。


 ひとしきり、絶望感に浸った後には、理不尽さに対する怒りが湧いてきた。


「クソッたれがっ!」


 感情に任せて、陶器製の洗面台を殴りつける。

 それこそ、叩きつけた右手の骨が折れてしまうくらいに。

 しかし、痛みは一向に訪れない。

 代わりに、バリン、と重い音を立てて洗面台が真っ二つに割れた。


「えっ……」


 洗面台が床に落下していく様子を呆然と見詰める。

 洗面台の一片が、重い音を立てて床に落ちる。


 落下の勢いを殺しきれずに、グルングルンと奇妙なダンスをする欠片が、呆然とする俺を笑っている気がした。


 殴りつけた右手を動かす。

 骨折どころか、痛みすら感じない。

 陶器とは、ここまで脆かっただろうか? 

 陶器が割れるほどの力で殴りつけた右手が、何故少しも痛くないのだ?


「────あはははっはは」


 何故だか、酷く愉快だった。

 未だに続く陶器のダンスが、一流コメディアンのボケよりも笑えた。

 思考することに脳が、いい加減疲れてきたのだろう。


 とても気持ち良い。

 腹が捩れるほどに笑える。

 これ以上、笑うと、俺壊れるかもな……。

 崩壊一歩手前で、脳に警告信号が点った。

 

 それに気付くと、奇妙なほどピタリと笑いが収まる。

 

 残るのは、薄ら寒くなるほどの虚脱感。

 それは、急速に体を侵していく。

 

 がっくりと、肩を落とした。

 分からないことだらけだった。

 記憶は無くしてるし、頼みの綱の家人は見るも無残な姿になっていた。

 

 どうすりゃ良いんだよ……。

 ヘンゼルとグレーテルよりも、自分がか弱い存在のように思えてくる。

 

 その時……静寂を切り裂くように、プルルルルル、と甲高い音が聞えてきた。

 

 ビクリと体が震える。

 電子音が、まるで死刑を宣告する裁判官の言葉のように恐ろしく感じられる。


 音は、リビングから聞えてくる。

 まるで、俺を誘うかのように。

 

 力ない足取りで、リビングへと移動する。

 

 リビングに置かれている電話が鳴っていた。

 着信音に合わせて、プッシュ式のボタンが光っている。


 どうする? 取るべきか? 


 しかし体は動かず、固まったまま電話をじっと見つめるしかなかった。

 彫像のように身動き一つできない。


 ガチャリ、と音がして電話が留守番電話のメッセージを流し始める。

 その途端、電話は切れた。

 静かな室内で、自分の鼓動と呼吸音が嫌に大きく聞えた。


 ほっと、一息つく。


 しかし、それも束の間、再び電話が甲高い音を鳴らす。

 当然、体は動かない。

 先程と同様に、電話は留守番電話に切り替わると直ぐに切れた。


 そして、間を置かずに三度の着信。

 思わず、手が受話器に伸びる。


「もしもし……」


 取ってしまった……。そんな後悔が脳裏を掠めた途端、


「善光寺秋伸だな?」


 まるで、ヘリウムガスを吸った後のような声が受話器から聞えた。

 ボイスチェンジャーだっただろうか? 

 機械を通した、滑稽な声だった。


「そうですが……。あなたは?」


 手拍子でそう答えると、電話口の相手は思いもよらぬことを宣言した。


「お宅の娘は預かった」

********************************* 


 勘弁してくれ……。


 通話を終了した後、思わずその場に膝をついた。

 記憶喪失の上に、誘拐犯からの電話だと?

 しかも、家人の死体までもれなくセットでついてきている。

 思考回路が焼き切れそうだ。

 

 とりあえず……今ある選択肢は、


「このまま逃げる」

「警察に全てを話し、助けを求める」


 この二つ。


 前者が、最も理に適っている気がする。

 もちろん、道徳とか倫理と言った部分を無視すればの話だが……。


 逆に後者は、最も人間らしい、と言うか常識的な判断だろう。

 しかし、自己保身という本能を無視できる余裕が、今の俺には無い。


「どうする……?」


 目の前のテーブルに置かれた一つの携帯電話。

 殺害されていた善光寺秋伸の携帯電話だ。


 壁掛け時計の秒針の音と、心臓のリズムが気持ち悪いほどに一致する。

 時計を見る。

 時刻は午後12時55分。


 先程電話してきた誘拐犯を名乗る人物から、午後一時に再び電話をすると告げられていた。

 次からの連絡は、携帯電話に入れるとも言われている。


 そのため、吐き気を堪えながら、彼の部屋からやっとの思いで携帯電話を探し当てた次第だ。

 

「真ん中を取って、匿名で警察に通報して逃げるべきか?」


 しかし、この家には俺の痕跡が残りすぎている。

 今から念入りに掃除しても、拭い切れるとは思えない。

 そして、それを見逃すほど、警察の捜査能力が低いとも思えない。


 思考が固まらないまま、時間だけが過ぎていく。そして、時間が過ぎるにつれて、危険度も増していく。


 どうすりゃ良いんだよ……。

 頭を抱える。


 そして、ブブブブブブ、と携帯電話が無情にも震え始める。


 非通知設定と表示されている。

 十中八九、犯人からだろう。

 

 とにかく、今回だけは電話を受けよう。

 それで、どうするか考えよう。

 

 結論の先送りと言う、最悪の選択肢。

 自覚はしているが、回避することができない。

 震える指で通話ボタンを押す。


「もしもし……」


「善光寺秋伸か?」


 本当は違うのだが、正直に言えるはずがない。

 俺は、曖昧に肯定するだけだった。


「さっきも話したが、娘は預かっている」


「無事、なんですか?」


 そう言った時、電話口の犯人の声質が少し変わったような気がした。


「お前、本当に善光寺秋伸か……?」


 その時、ようやく俺がとんでもない失態を冒していたことに気がついた。


 善光寺秋伸は死体から察するに、40代後半。

 対する俺は、どう見積もっても20代がせいぜいだろう。

 声質にズレが生じてしまう可能性を考慮していなかった。


「も、もちろんです。少し、動揺しているだけで……」


 言い訳にすらなっていない。


「そうか。それならいい」


 意外なほど、軽く流された。

 相手も、まさか他人が電話を受けているなど、本気で思うはずがない。

 杞憂と言えばそれまでだが、心臓は限界までに収縮と膨張を繰り返している。


「こっちの要求を満たしてくれれば、ずっと無事のままだ。今、声を聞かせてやるよ」

 がさがさと、音がした後、電話口に少女の声が聞えてきた。


「──お父さん……?」


 電話口でも分かるほど、彼女の声は震えていた。

 何か声をかけてやりたいが、肉親の耳を俺の声が誤魔化せるとは思えない。

 声をかけるべきか判断に迷う。


「娘の無事が、確認できて嬉しいか?」


 唐突に、不快な機械音が再び電話口から聞えた。

 秋子と会話をさせるつもりはないようだ。

 都合が良いと言えば、都合が良いのかもしれない。

 

「私は、何をすれば良いんですか?」


「なーに、簡単だ。あんたが、溜め込んでいる金。2000万を寄越せ。言っておくが、隠しても無駄だぞ。こっちは、ちゃんと調べて連絡してるんだからな。家の中にあるんだから、用意するのも簡単だろ?」


 そんな大金が、この家のどこかにある? 

 思わず、きょろきょろとリビングを見渡す。

 それだけの金があれば、もっと良い生活ができると思うのだが。


「要求はそれだけだ。次に、金の受け渡し方法を伝える。あんたみたいなオッサンでも、簡単にできる。仙台駅東口のコインロッカーに金を入れろ。番号は203だ。そして、その鍵をA3番の茶封筒に入れて、西口のバスプール前にあるゴミ箱に入れろ。こっちで金を確認し次第、娘を解放してやる。期限は午後3時だ。それまでに、終わらせろ」

 手元のメモ帳に、犯人の要求を一言一句漏らすことなく書き留める。


「以上だ。もちろん、警察や他人に話したら、娘は殺す」


 それだけ言うと、通話は終了した。


「冗談だろう……」


 犯人は、十中八九本気だ。3時を1秒でも過ぎれば、善光寺秋子を容赦なく殺すだろう。

 

 心のどこかでは、この誘拐が冗談であって欲しいと願っていた。

 しかし、犯人が善光寺秋伸の溜め込んでいる金の在り処を知っていることなどを鑑みれば、その願望は紙屑のように吹き飛ばれていく。

 

 警察に通報するとか、悠長なことを言っていられなくなった。

 警察が早急に体勢を整えたとしても、3時までに善光寺秋子を保護できるとは思えない。


 この誘拐事件を知っているのは、俺だけ。

 つまり、俺がどうにかしなければならない。


「やるしか、ないのか……」


 時計を見る。3時まで残り2時間もない。

 

 この間に、犯人からの要求をクリアーできるか? いや、やるしかないのか……

 

 先程までの逃げ出す、という選択肢は消滅した。

 電話口で直接、善光寺秋子の声を聴いたのが良くなかった。

 それさえなければ、善光寺秋子は架空の人物と言っても、差し支えなかった。

 もしも、無残に殺されたとしても、俺の良心がほんの少しの痛痒を感じる程度だっただろう。

 

 しかし、今は違う。

「善光寺秋子」という人物を実像として認識してしまった。


 腹を括るしかないようだ。


「やるか……」


 俺は、重い腰を上げた。



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