見知らぬ死体
眼球が焼かれているような感覚。
それに耐えかね、瞼を開ける。
脳がオブラートに包まれているかのような不明瞭さを覚えた。
「寝てたのか……?」
胎児のように体を丸めたまま、何度か瞬きをする。
頬に触れているのは、冷たく硬いフローリング。
木目は、お世辞にも美しいとは言えない。
「起きなきゃ……」
そう呟き、床に手をついた瞬間、
「痛っ……」
鋭い痛みを覚えた。
一つの関節を一センチ動かすたびに、乾いた木材が折れる時のように、パキパキと不快な音がする。
産まれたての子羊のように、両足を震わせながら立ち上がる。その動作にすら、かなりの時間がかかった。
ようやく立ち上がり、室内を見回す。
八畳ほどの部屋だった。
置かれているのは質素なテーブルと四脚の椅子。
その他には特に、目を引くものは無い。
カーテンが開けっ放しになっている窓からは、白い陽光が室内に入ってくる。
カチコチと秒針を刻む音と、自分の呼吸音しか聞えない。
不気味なほど、室内は静かだった。
秒針が一回転したところで、俺は呟く。
「
ここ、どこだっけ……?」
耳に届いた自分の声は、童話に出てくる魔女のようにしわがれていて、鼓膜に不快な振動を伝える。
俺がいる部屋の奥にはドアがあり、今は開けっ放しになっている。
そのドアの奥には洗面所が見えた。
それを認めた途端、焼け付くような喉の渇きを覚えた。
「水……」
夢遊病患者のような覚束ない足取りで、洗面所へと向かう。
無様に震える手で蛇口を捻ると、冷たい水が勢いよく流れ出た。
洗面台に跳ね返った水が、服を濡らす。
着ている白いTシャツに、細かな水玉模様が描かれていく。
それに構わず、コップを使わずに直接蛇口に口をつけ水を流し込む。
砂漠に水を垂らしたかのように、急速に細胞に水分が行き渡っていくのが分かった。
そのままの勢いで、脂で粘っこくなっていた顔を洗う。
何回か、鼻に水が入ってむせ返る。
鼻の奥が、鋭く痛んだ。
しかし、それさえも心地よく、徐々に意識がはっきりしていくのが自覚できた。
蛇口を閉め、水が滴る顔を上げる。
顎先から流れる水が、胸元からTシャツの中に入り込んできた。
洗面台に備え付けられた鏡に、自分の顔が映る。
その虚像に違和感を覚え、水滴の垂れる右手でなぞってみる。
何度それを繰り返しても、当然ながら顔貌が変わるわけが無い。
照明を点けていないせいかもしれないが、やけに青白い自分の顔。
精悍というには、程遠い幼い顔立ち。鼻筋は通っている。
自分で言うのもなんだが、女好きのする顔立ちだろう。
それは、喜ぶべことかもしれない。
しかし、今の自分には酷くグロテスクなものに思える。
なぜなら……。
「これ、誰だよ……?」
奇妙な表現だが、自分の顔に見覚えがないのだ。
鏡に映る自分の顔が、見ず知らずの他人であるように感じる。
これが、本当に自分の顔であるのか確信が持てない。
愕然とする。
床が液状化現象を起こしたように、グニャグニャと軟化していく。
「そう言えば、俺、誰だ……?」
顔だけではない、確信が持てないのは自分自身に関すること全てだと気付く。
アイデンティティが宙ぶらりんになっている。
ヒューヒューと壊れた笛の音のような呼吸音が、やけに五月蝿い。
視界が、グルグルと回り始める。
三半規管に致命的な不具合が生じている。
立っていられずに、その場に座り込んでしまう。
両手で頭を抱え込み、必死に脳内をかき回す。
何か、役に立つ情報は無いのか?
ここは、どこだ? 思い出せない。
俺は誰だ? 思い出せない。
しかし、俺の性別が男性だということは認識している。
では、個人情報以外はどうだ?
しばらく、身動き一つせずに自分の脳内を探索する。
結果、俺自身に関する個人情報以外の知識に欠損は見られない。
いや、欠損があったとしても今の俺に、それを認識することができないだけかもしれない。
その考え自体が酷く恐怖心を煽るから、その思考を無理やり打ち切った。
思考を次の段階へと強制的にシフトする。
知識を総動員した結果、自らに下した診断は「全生活史健忘症」。
発症以前の自らに関する出自の記憶を失う状態である。
多くの原因は、心因性と言われている。
だが、その知識を俺がどうして得ているのか思い出す事は出来ない。
俺はズボンのポケットを弄る。
何か、自らのヒントになる物は残っていないか。
手が震える。
呼吸が浅い。
心拍数が上昇する。
吐きそうだ。
眩暈がする。
最初に見つけたのは、財布。
免許証や学生証が入っているならば、名前などが分かるかもしれない。
しかし、中に入っていたのは一万円札が三枚だけ。
他には何も入っていなかった。
免許証、献血カード、臓器提供意思表示カード、レンタルビデオの会員証すら入っていない。
続いて後ろポケットから携帯電話を発見した。
使い方を忘れているのでは? と考えたがそれは杞憂だった。
ディスプレイには、今日の日付が表示されていた。
「五月、三十一日か……」
日付が分かっただけでも、一歩前進。
他には何か……。
アドレス帳を開く。
しかし、登録件数はゼロ。
着信履歴、リダイヤル履歴、メールの発受信もゼロ。
ユーザーデータを見ても、表示されるのは自局番号と、無機質なアルファベットと数字の羅列で構成されたメールアドレスだけだった。
もちろん、所有者の名前の欄は空白。
他には、十本ほど中身が残っているタバコの箱とガスライターが一つ。
発見できたのはそれだけ。
じりじりとした焦燥感が身を焦がし、恐怖感が湿気のようにねっとりと体を覆っていく。
「ここは、自宅のはずだ。何か、ヒントがあるはず。家族もいるはずだし問題ない……はず」
カチカチと歯を鳴らしながら言ったものの、その可能性がかなり低いと自覚していた。
目覚めた場所が寝室ではなく、床の上という時点で奇妙だ。
家族が同居しているならば、寝室に運んでくれてもおかしくない。
ならば、一人暮らしの可能性は?
その可能性も低いだろう。
男の一人暮らしの部屋に、四脚の椅子がセットになったテーブルがあるだろうか? もちろん、可能性が無いわけではないが、期待できるほど高くはない。
そんな覚束ない思考をしながら、俺の目は一つの物を捉える。
洗面台の脇にある棚には、女性用の化粧品が置かれていた。
この時点で、俺がこの部屋で一人暮らしをしているという可能性は消失した。
ただし、俺に女装癖がない限りだが……。
もう一度、蛇口を捻る。
今度は顔ではなく、頭に水をぶっ掛ける。
気を抜けば、絶望に占拠されそうになる思考を切り替えるために。
周囲の壁が水浸しになろうが、知ったことではない。
水を止め、犬のように頭を振りながら考える。
すべきことを整理しよう。
自分のことが分からないならば、置かれている状況を明らかにしよう。
ここがどこなのか。それを、明らかにしよう。
やることが決まると、心なしか体が軽くなった。
目覚めた場所に戻る。
先程は気付かなかったが、リビングには木製のサイドボードがあり、その上には電話が置かれていた。
「何か、あるかな」
見たところ、電話はかなり旧型である。
電話帳機能すら搭載されていないものだ。
それならば、それが置かれているサイドボードには、電話帳の類がある可能性が高い。
「あった……」
一番上の引き出しを開けたるとすぐに、目当ての物が見つかった。
思いの外、書かれている件数が少ない。
合わせて10件程度だろう。
落胆しつつ、最後のページを捲った時、俺は息を大きく吸った。
そこは家族の欄となっており「娘……善光寺秋子携帯」という件名と「家主 善光寺秋伸 携帯」の二件だけ記載されていた。
この時点で、俺がこの家の一員でないことが明確になった。
そして、この家の家主が、善光寺秋伸だとも判明する。
電話帳が置かれていた引き出しには、皮製の財布もあった。
中を見ると、免許証が入っており、それは件の善光寺秋伸のものであった。
年齢は47歳、温和そうな顔をしている。
「って、ことはあれか? 俺は不法侵入者か?」
現時点では、最も蓋然性が高い推測のように思えた。
もちろん、この家に招かれて、その時に運悪く記憶を失った可能性はある……。
しかし、家人がこんな昼過ぎになって、客人を放ったままでいるだろうか?
──家人?
何故、今まで気付かなかったのだろう?
自分の思考能力の低さに、ため息が漏れそうになる。
この家が俺の家でないとしても、住んでいる人はいるはずだ。
その人ならば、俺のことを知っている可能性が高い。
もちろん、先程言ったように、俺が不法侵入者である可能性も否定できないが……。
だとしても、今の状態から多少なりとも前進できるはずだ。
警察に通報され、拘束されるとしても自らの情報に近づくことは間違いない。
そう思い、家の中を警戒しながら移動する。
リビングには洗面所に向かうドアの他に、廊下へと続くドアがあった。
正面には玄関があり、廊下の左右には一つずつドアがある。構造から考えるに2LDKの集合住宅である可能性が高い。
右側のドアをノックする。中からの返事はない。
警戒しながら、ドアを静かに開ける。
錆びた蝶番の軋む音が、女の悲鳴のように耳に刺さる。
部屋に入った途端、甘い香りが漂ってきた。
芳香剤の様に特徴的な歪んだものではなく、この部屋の主の匂いという感じがする。 女性特有の甘さ、とでも表現すべきだろうか。
恐らく、ここが娘の秋子の部屋なのだろう。
「誰も、いないな」
それを確認して、少しだけほっとした。
秋子は女性、と言うよりも少女、と表現した方が良い年齢なのかもしれない。
室内には、女子中高生が好みそうなぬいぐるみが数個置かれており、本棚には小説や漫画がきちんと整理されていた。
「女の部屋を漁るのは、少し気が咎めるな……」
そんなことを言っている状況ではないのだが、気が進まない。
本棚をざっと観察する。収められているのは漫画と一般書。
その比率は3対7程度だろう。
漫画は少女漫画がその殆どを占めていた。
逆に一般書のジャンルには幅がある。
いや、ここまで来ると雑食と言っても良いかもしれない。
夢野久作からクラウゼヴィッツ、ミステリー小説から哲学書、作家とジャンルに統一性が無かった。
本棚の隣にはCDラックがあり、その殆どがメタルで占められていた。
「女性もメタルを聴くんだ……」
メタル好きの女性に怒られそうな言葉が、思わず口から出てくる。
他にも色々と漁ったのだが、箪笥の中から下着を発見してしまったため撤退。
「残るは、もう一つの部屋か」
秋子の部屋を後にして、もう一方の部屋へと向かう。
先程秋子の部屋を漁っている際に下着を発見してしまし狼狽したのは、秘密にしておこう。
深呼吸を一つして、ゆっくりとドアを開ける。
その途端、甘ったるい匂いが鼻をついた。
いや、それは俺がそう感じただけだろう。
他者がこの匂いを嗅いだら、最初に鉄臭いと感じるはずだ。
むせ返るような、血の匂い。
テラテラと光沢を放つ肉片が、室内に散乱していた。
頭が転がっていた。
腕が観葉植物のように床から生えていた。
3分割された脚が奇妙なオブジェのように並んでいた。
白かったはずの壁紙に、肉片が鳥の糞みたいにべったりと付着していた。
まるで、眼球に赤いセロハンを、瞬間接着剤で貼り付けたような感覚。
酔っ払いそうなほどの原色の世界。
アルコールよりも強く脳を麻痺させ、スプリングの悪い車よりも三半規管を狂わせる。
グルグルグルグルと世界が回る。
……ブウウ──────ンンン──────ンンンン…………とどこかの小説で目にした表現のような音が鳴り響く。
それら全ては、極上の催吐剤だった。
「ウグッ……。ぜ、善光寺秋伸……」
免許証の写真で見た顔が、そこに転がっていた。