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エピローグ的なもの

「なるほどね……」


 長い話を聞き終え、彼は静かに頷く。

 6月6日。生ぬるい雨が降る。

 20畳以上の広さを持つ応接室には、二人だけ。

 左右の壁には、医学専門書で占拠された上質の本棚。部屋の奥には映画館のスクリーン並みの広さを持つ一枚のガラス窓。足元のカーペットは、足首まで沈んでしまうと思えるほど柔らかい。

 そして、部屋の中央には一組の応接セット。

 ドアに近い方には俺が座り、正面には白衣を着た一人の男。

 名前は犹森雅也。


 この応接室は、地上30階建てのビルの屋上にある。ビルの正面には「社会医療法人犹森会 犹森会病院」と書かれた豪勢なモニュメントがあった。


「結局は、そうなったわけだ」


 犹森雅也は、既に40代後半であるはずだ。しかし、その容貌や雰囲気から実年齢を推察することは難しい。下手をすれば、俺と同年代と見られる可能性すらある。


 大畠曰く「不思議な七つの玉で不老不死にしてもらったそうだ」とのこと。

 まあ、絶対に嘘だろう。


「なるほど、なるほど……」


 彼は、何度も何度も頷く。

 しかし、その何気ない一つ一つの行動が、俺の心臓を鷲掴みにする程の威圧感を発している。ロールプレイングゲームのラスボスと対峙している気分だ。


「…………申し訳ありませんでした」


 静かに頭を下げる。

 すると、彼は驚いたような表情を浮かべる。


「よく分からないが……。何に対して謝っているんだい? ここまで来るのに、何か悪いことでもしたのかい?」彼は顎に手を当てる。「例えば、来る途中に飾られていた絵画に落書きをしたとか、可愛いナースにセクハラをしたとか」

「そ、そんなことしてませんよ!」

「そうなのかい? それなら、どうして謝るんだい?」

「ですから、この一件について……」


 言いかけると、彼は俺の言葉を遮る。


「一つだけ訊こう。君は、僕達にとって不利益な行動、もしくは仇為す行為をしたのかな?」タバコを加えて、火を点ける。「大畠からは、特にそのような報告を受けた覚えはないのだけどね」


 吸っているタバコは、俺と同じ種類のものだった。大畠から聞いたのだが、俺がタバコを吸っているのは、目の前にいる男に憧れてのことだったらしい。


「君がしたことと言えば……。記憶を失くし、出会った女の子と短い逃避行をしただけじゃないのかな? 他には、そうだね……。前科三犯の若者を一人殺し、大畠の車を強奪したくらいか」


 後半の方が、一般社会的には重大だ。しかし、目の前の男性は一般社会の住人ではない。彼にとっては、前科三犯の男などどうでも良いのだろう。一般社会に仇を為すどころか、むしろ利益になっていると考えている。


「ほら。何も、悪いことはしてないじゃないか。そこまでいくと、加害妄想だよ」


 それでも、俺は何も言えない。


「あー。もしかして、君は記憶を失くしたことや、計画を破綻させたことを謝っているのかな?」


 自分の体の筋肉が、不自然に収縮するのが分かった。


「そうかそうか。ようやく理解できたよ、君が何に対して謝っているのか」


 なるほど、と呟きながら頷く。


「俺は、貴方が大事にしてくれた桑原和志ではありません……。それに、貴方が授けてくれた事や物を何一つ役立てることができませんでした」

「そうだね。それは、揺ぎ無い事実だ……」


 彼の瞳が、少しだけ曇る。しかし、それは一瞬。次に瞬間には、先程と同様に柔和な笑みを浮かべている。


「でも、考えてみなよ。この件に一番尽力したのは誰かな?」


 頭に浮かぶのは、二人の友人。


「そう。大畠と若松だね。彼らは、怒っているのかい?」


 全く、そんなことはない。むしろ、色々と世話をしてくれる。失われた俺を埋めてくれるように、様々な話を聞かせてくれる。


「そして、この部屋の外にいる少女。彼女はどうかな?」


 背後に感じるのは、秋子の気配。先程から身じろぎ一つせず、俺が出てくるのを待っている。


「そうだろ? その人達が、君を許す……。いや、それ以前に怒っていないのなら……」


 彼は短くなったタバコを、机の上に置かれた灰皿で揉み消す。


「僕たちは、何ら不利益を被ってはいない。それに個人的には、この終わり方を嬉しく思っている。それで、良いんじゃないのか」

「それは、どういうことですか?」

「さぁ? それは、自分で考えてみなよ」


 犹森雅也は、柔らかでありながらも、どこか奇妙な笑みを浮かべている。

 彼の浮かべている笑顔を解釈することが、俺にはできない。


「和志に関しては、気の毒だった。恐らくは、一連の件で最も被害を受けたのは彼だろう。せめて、君は和志を忘れないでやってくれ。それだけで、充分だよ」


 犹森雅也は、この話はこれで終わり、といったかのように手を叩く。

 それならば、これ以上俺が言うべきことはないだろう。

 退席しようと腰を上げる。


「それでは、失礼します」

「あー、ちょっと待ってくれ。その前に一つだけ、お願いがあるんだ」


 少しだけ恥ずかしそうに、犹森文哉は頬を掻く。


「できれば、敬語を使うのは止めてくれないかな?」


 予想外の言葉に、俺は逆に脱力してしまう。


「えーと、それはタメ口を利けと?」

「そう。どうも、君に敬語を使われると、違和感があってね」

「もしかすると、桑原和志って、貴方にタメ口を……?」

「まあ、そんなところだね。お願いできるかな?」


 散々迷惑をかけた人の願いだ。叶えないわけにはいかなだろう。


「分かったよ、雅也……。こんな感じで、良いんですか?」


 しかし、犹森雅也は答えない。ただ、目を細めて俺を見つめるだけだ。


「あの、どうか……?」

「い、いや。何でもないよ。うん、そんな感じでお願いするよ」


 慌てたように、言葉を取り繕う。

 その理由は容易に推測できたが、確かめることは躊躇われた。

 その代わりに、ふとあることが頭に浮かんだ。


「そう言えば、俺が記憶を失くした後の新しい戸籍ってあるよな? その戸籍の名前って知ってるかい?」


 雅也は不思議そうに、小首を傾げる。


「知ってるよ。けれど、どうして?」

「いや、何となくね」


 まあ良いや、と言った後雅也は、


「呉一郎だよ。中々、気の利いた名前だろ?」


 笑顔で言った。

****************************


「終わったの?」


 意外に長く話し込んでしまっていた。腕時計を見ると、ここに秋子を一時間近く待たせてしまったことになる。


「悪かったな」

「別に、一郎の心配なんてしてなかったわよ」


 だろうな……。心配の裏返しによる態度でなく、彼女は本当に俺のことを心配などしていないだろう。無関心からではなく、それは全幅の信頼によるものであるため、残念に思うことはない。


「知ってるよ。謝ったのは、一人で暇だっただろうから」

「大丈夫。さっきまで、面白い人達とお話してたから」


 その時のことを思い出したのだろう。秋子が吹き出す。


「で、誰と話してたんだ?」

「犹森文哉って言う男の子と、深澤翔子っていう女の子」

「それって、もしかして……」

「そう。犹森雅也の息子。それから、翔子ちゃんはその彼女。ちなみに、二人とも私と同い年」


 翔子ちゃんか、随分と仲良くなったようだ。

 何にせよ、友人ができるのは良いことだ。


「さて、帰るぞ」


 しかし、秋子はその場から動かない。

 じー、と目を細めて俺を見る。やはり、誤魔化そうとしても無理か。


「この場で言わないとダメか?」


 無言で首を縦に振る秋子。


「決めたよ。俺は、またこの世界に戻る」


 記憶を失くし、新しい戸籍と名前を犹森機関から与えられた。

 この世界と縁を切って過ごすことも、可能だった。

 それでも……。


「理由は?」

「世話になった奴らに、恩を返すため」

「それは、2割程度でしょう? 残りの8割は?」

「桑原和志に対する、弔いの意味」

「それは三割程度ね。残りの五割は?」

 

 的確な秋子の指摘。だからこそ、誤魔化せないと悟る。


「聞きたいか?」

「聞かせなさいよ」

「しゃーねー。聞かせてやるから、耳貸せよ」

 

 秋子が背伸びをして、俺の口元に耳を寄せる。

 残りの5割の理由を囁く。

 その途端、彼女は深い溜め息をつく。


「馬っ鹿じゃない。そんな理由で、入るなんて頭がおかしいんじゃない?」

「嬉しくないのか?」


 首をかしげて、秋子に尋ねる。

 数秒の間の後に、彼女はぶっきらぼうに返す。


「まあ、消費税程度にはね」


 その言葉で充分だろう。


「ねえ、その理由他人には、絶対に話さないでよ」


 俺の上着の裾を握りながら、秋子が上目遣いで言ってきた。


「もちろんだ。恥ずかしくて言えたもんじゃない」


 この理由は、ずっと俺と秋子の秘密になるのだろう。

 それが、何故か、とても嬉しかった。

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