死人の記憶
深夜、善光寺秋伸からの連絡があった。
今まで、直接的な連絡は一度としてなかった。
唯一の接触は、月に二、三回届く謝罪の手紙のみ。互いに連絡先を知りつつも、電話などはしたことがなかった。
しかし、今夜、しかも夜中の二時に善光寺秋伸から電話があった。
「申し訳ないのですが、今から会えませんか?」
興奮して眠れなかったところに、最も憎んでいる相手からの電話。不機嫌にならないはずがない。
「構いません。どちらに、向かえば宜しいでしょうか?」
しかし、先の感情などおくびにも出さない。ここで、とちれば全てが水泡に帰してしまう。
「できれば、我が家に来てもらえませんか? 少し、お話したいことがありまして」
「娘さんがいらっしゃるのでは?」
もちろん、そんなことはないと知っていた。善光寺秋子は、今夜友人の家に泊まることになっている。どうやら、誕生パーティーというものを開いてもらっているらしい。一々癇に障る女だ。
まあ、楽しめるのは今だけだ。
翌日、善光寺秋子が自宅に帰る途中、彼女は誘拐されるのだから。そして、自宅に生きて戻ることは叶わない。
「娘は、今夜友人宅におり、不在ですので」
「分かりました。では、お伺いします」
なるべく軽い感じで、疑心を抱かせないように簡潔に答える。
「重ね重ね、申し訳ありません」
「いいえ、構いませよ。いきなりの電話でしたので、少々驚いておりますが……」
「本当に申し訳ありません。それでは、お待ちしております」
電話を切り、ため息をつく。
用件とは一体なんだろう?
まさか、俺の計画に気付いたのか?
いや、それは無い。すぐさま、その考えを打ち消す。
「そうだ。問題なんてない。全部順調なんだ……」
両親の遺影と位牌が納められた、仏壇に眼を移す。
ふいに、視界に霞が掛かる。
その霞を拭うように、目頭を擦る。
「泣くのはまだ早い」
そう。まだ、終わってないのだ。
全てが終わるのは……。
ポケットから、お守り代わりに持ち歩いている錠剤を取り出す。
市販されている薬と何ら代わらない形状。しかし、その効果は現代技術では達成不可能なもの。
これを飲む時、その時くらいは泣いても良いだろう。
「そうだよな? 親父、お袋」
ゆっくりと立ち上がる。
時計を見ると、時刻は午前2時を過ぎていた。既に日付は変わり、俺の二十回目の誕生日を迎えていた。
「ついでだから、持って行くか……」
自室に戻り、茶封筒に包まれた汚らしい金を手に取る。
「二度も、あんな奴の家に行くなんてごめんだしな」
本当は、明日(正確に言えば今日になる)の朝に持っていくつもりだったが、既に日付は変わっている。問題は無い。
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善光寺家に着くと、善光寺秋伸が俺を向かえた。
思わず、右手に力が篭る。この場で、この男を縊り殺してやりたい。目の前で火花がスパークするほどの激情が、身を焦がし始める。
しかし、それを相手に悟られてはいけない。
奥歯が砕けるほど歯を食いしばり、肉が裂けるほどに手を握る。
「申し訳ありません。お休みだったのに、非常識な時間帯にお呼び出ししまして」
深く腰を折る善光寺秋伸。その動作が、一々俺の殺意を刺激するから性質が悪い。
「いいえ。ちょうど、眠れなかったところですし」
唇を歪ませ、塗りたてのペンキのような笑みを顔に貼り付ける。
「本当に申し訳ありませんでした……。あっ、申し訳ありません。お呼びしたのに玄関に立たせたままで」
促され、靴を脱ぎ廊下に上がる。
「私の部屋で、お話を致しますので……」
善光寺秋伸に連れられて、彼の部屋へと通される。既に室内には座布団が用意されており、そこへと座るよう促される。
しばらく、嫌な沈黙が流れる。
こいつは、人を呼びつけておいて何故、用件をさっさと済ませないんだ?
心の中でため息をつく。
「実は、私も善光寺さんに御用がありまして……」
中々話し出さない善光寺秋伸に苛立ち、先に俺の用件を終えることにした。
「こ、これは……」
中身を確認した、善光寺秋伸の両目が見開かれる。
「貴方が送ってくれた、賠償金全額をお持ちしました」善光寺秋伸の両目は茶封筒から離れることはない。「もう、償いは十分受け取りました。今度は、このお金で娘さんを幸せにしてあげてください」
「う、受け取れるはずがありません! これは、私の……」
慌てたように茶封筒を俺に返してくる。しかし、それを拒否する。
「良いのですよ、善光寺秋伸さん。貴方は、私の母の命を奪った。それは、揺ぎ無い事実です。そして、それを償うのは当たり前のことです」
よくもまあ、こんな聞くに堪えない台詞がすらすらと言えたもんだ。自分自身に対して、嘲笑が漏れそうになる。
俺は、震える善光寺秋伸の手に、自らの手を添える。
「だからと言って、永遠に罪に縛られる必用などはないのです。貴方が罪を感じ続けている限り、確実に不幸になっている人がいることに、お気づきですか?」
善光寺秋伸が、はっとして俺の顔を見つめる。その瞳には既に涙が溜まり、涙腺の堤防は今すぐにでも決壊するだろう。
「そう。善光寺秋子さんですよ。私にも、貴方にも彼女を不幸にする権利はない。違いますか?」
「わ、私、私は……。貴方の、お母さんを……」
「そうです。貴方は私の母親を殺しました。それを忘れることはありません。しかし……」
さあ、これが決め台詞だ。
桑原和志、一世一代の演技だ。
涙しろ、善光寺秋伸。
「全てを許します」
「あ、あ、あああああああああああああああああああああああああああああ」
善光寺秋伸が、号泣する。
「わ、私は、私は、本当に許されたのですか?」
まるで赤子のように、娘とそう変わらない年齢の俺に縋り付く。
「ええ、許します」俺は彼をあやすように、背中を摩る。「私を、信じてください」
せいぜい、虚構の許しを信じていてくれ。
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どれくらい、善光寺秋伸は泣いていたのだろう? 涙も枯れ果てた彼の表情は、安らかだった。
俺が返した金を自分の机に、それこそ宝石のように大事に仕舞いこみ、再び俺に向き直る。
「申し訳ありません。見苦しい所をお見せしまして」
「いいえ、構いませんよ」
本当に、見苦しかったよ……。
「それで、善光寺さんが私を呼んだ理由は何でしょうか?」
善光寺秋伸は、しばらく逡巡した後に口を開く。
「実は……。私は、もう長くないのです……」
「えっ……?」
後頭部を殴られたような衝撃を受けた。
「そ、それはどういう……?」
「半年ほど前から、心臓を患っていまして……」
「びょ、病院には行ったのですか?」
「いいえ、行ってませんが、自分の体です。誰よりも理解しています」
「そ、それでも」
「既に手の施しようはないでしょう……」自分の胸に手を当てる。「今すぐ、迎えが来ても不思議ではないと思います」
善光寺秋伸の表情は、未だに安らかなまま。
これは、生に既に執着のない人間が見せる類のものだ。
そこでようやく気付いた。
言葉通りに善光寺秋伸の顔からは、一秒ごとに生気が失われていくのだ。
本当に、今すぐ死んでもおかしくはないかもしれない。
「冗談にしては、性質が悪いですよ……。貴方には、娘さんが……」
「いいえ、あの娘は私に似ず、強く育ちました。一人でも、きっと生きていけます」
ダメだ、それではダメなんだ。
「最期に、和志さんから許され、思い残すことはありません……」
徐々に、善光寺秋伸の存在感が希薄になっていく。
おいおい、笑えないぞ。
まさか、俺の演技が、こいつの最期の生への執着を断ち切ったというのか?
それなら、
「いいか、よく聞けよ」俺の声質が、ガラスの欠片のように鋭くなる。「善光寺秋伸……。お前を許してはいない。お前には、生きてもらわなければ困るんだ」
苦肉の策だった。予定とは違ったが、ここで全てを明かすことにした。
そうしなければ、目の前の人間は死んでしまうと確信したから。
しかし、
「優しいのですね……」
どこをどう解釈すれば、そんな結論に至るのだ?
「私を、この犯罪者を生かそうと……」
「違う! そうじゃない!」
必死になって、善光寺秋伸の体を揺する。勘違いも甚だしい。
「良いのですよ、もう。最期を貴方に看取ってもらえるなんて、神様からの多分なプレゼントもいただきましたし……」
ゆっくりと、善光寺秋伸の瞳が閉じていく。
「ふざけるな! 勝手にくたばるんじゃねーよ!」
だが、離れ行く魂を繋ぎとめることはできない。
「あ、り、がとう……ございま、した」
最期に礼を言うと、善光寺秋伸はあっさりと死んだ。
俺は物言わぬ体を叩き続ける。
「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい」
だが、その瞳が再び開くことはない。
「死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな死ぬな」
狂ったように叫び続ける。
「冗談、だよな……?」
答えてくれる者はいない。
「う、うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
俺の中で何かが音を立てて崩れ落ちた……。
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笑いがこみ上げてくる。
この五分間でしたのは、体を汚さずに善光寺秋伸の死体を力任せに破壊し続けたことのみ。
「あははははははっはははっははっははっははは」
とても、滑稽だった。
長い時間をかけて、多くの仲間の力を借りて立てた計画が、いつの間にか崩壊していた。
一体、桑原和志は何のために、この7年間を生きていたのだろうか?
空虚だった。
「もう。どうでも良いや……」
明日、善光寺秋子が誘拐されようが、知ったことではない。
全てが、無味無臭の純水のように味気なく思えてくる。
立ち上がり、善光寺秋伸の部屋を後にする。
玄関へ向かおうとしたのだが、何故かリビングに来てしまった。
どうやら、本格的に狂ってしまったようだ。
「何してるんだろ、俺?」
ポケットから、PTP包装された錠剤を取り出す。
アルミフィルムを破り、白い錠剤を掌に。
「ごめんな……」
静かに瞳を閉じる。
浮かぶのは、馬鹿だけれど最高の仲間達。
「ごめんな……」
浮かぶのは、ここまで導いてくれた尊敬すべき人。
「ごめんなさい……」
浮かぶのは、写真で見たことしかない父親。
「本当に、ごめんなさい」
浮かぶのは、優しい母親。
こんな時でも、瞼の裏の彼女は、俺に微笑みかけてくれる。
「俺には……。何も、できませんでした」
錠剤を口に入れ、飲み込む。
そして、急激な眠気が俺を襲おう。
消しゴムで消されるように、俺の記憶が失われていく。
「もう、無理なんだよ……」
これが、桑原和志という負け犬の死。
そして、これから始まるのは、新しい男の物語。
願わくば……。
「誰かを、助けられるような人間になりたい、な」
ブツリ、と音を立てて、体中の神経が断絶した。




