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ある人の日記と事実

 ・5月31日

『日記を書くようにお袋から勧められていたので、今日から始めようと思う。

 今日は、俺の12歳の誕生日だ。お袋が、俺の好物を作ると張り切っていた。

 忙しいのに、無理する必要はないと思った』


 俺の本当の誕生日は、5月21日らしい。何というか、奇妙なものだと思う。

 秋子と同じ誕生日であり、俺が目覚めた日でもある。


「しかし、12歳の頃から母親を「お袋」と呼ぶのは、どうかと思うぞ」


 パラパラと日記帳を捲っていく。毎日書いているというわけではないが、少なくとも二日に一回は、日記を書いている。


・7月20日

『お袋が、また仕事を増やしたらしい。

 親父が死ななければ、ここまで苦労しなかったと思う。

 早く働いて、お袋を楽させてやりたい』


 書いてある文章はそっけないが、母親の心配をする一人の少年が、そこにいた。


・10月22日


『今日は、親父の命日だ。

 俺が生まれて直ぐに死んだから、顔は写真でしか見たことがない。

 本当は、墓参りなんて行きたくないけど、そう言うとお袋が泣きそうになるので止めておく。

 俺は、そんなに親父が好きじゃない』


・11月13日


『今日、クラスの澤田に告白された。

 断ると、自分のどこが嫌いなのか教えてくれと言われた。

 正直に『顔』と答えると泣かれた。

 女は、よく分からない』


──酷いな……。

 幼い、という表現で片付けられる行為ではない。酷く歪な人格が形成されている気がする。


・2月22日


『最近、体が変だ。

 少し手に力を入れると、持っている物が直ぐに壊れる。

 遠くの物がよく見えるようになってきた。どんな小さな音でも、聞き取れるようになってきている。

 何だか、気持ち悪い』


 そのページで俺の手は止まる。

 この頃から、俺の体はおかしくなり始めているようだ。どうやら、この体は記憶を亡くす以前から、常人離れしているらしい。


・2月24日


『お袋に、体が変だと言った。

 話を聞いた後、お袋は『お父さんと同じね』と言った。

 どうやら、親父も人より強い体を持っていたそうだ。

 お袋に、人前では力を抑えるように言われた。

 難しそうだけど、頑張ろうと思う』


・2月26日


『知らない奴が、家に来た。

 どうやら、お袋が呼んだらしい。

 何だか、深刻そうな話をしている。

 二人の話が終わった後、その男を紹介された。

 親父の親戚で(えぞ)(もり)雅也(まさや)という男だった。

 今日は、俺の体について話に来たそうだ。

 雅也は、力の使い方を教えてくれると言った。

 興味はなかったけれど、このままでも困るので、頷いておいた』

犹森雅也。この男が、何らかの鍵を握っているのは間違いないだろう。その名を脳に刻み付ける。


・2月27日


『今日から二週間ほど、雅也の知り合いの所へ行くことになった。

 そこに行けば、俺の体が使い易くなるそうだ。

 面倒臭いけど、素直に行くことにした。

 雅也は、結構良い奴だ。』


 一日足らずで、この捻くれたガキに「結構良い奴」と言わしめる、犹森雅也とは何者だろう。只者ではないことだけは、容易に理解できる。


・3月14日


『ようやく、帰ってこれた。

 この二週間は、本当に地獄だった。

 思い出したくない。

 でも、自分の体のこととかが分かって良かった。

 親父を、少し見直したかもしれない。

 将来は、親父と同じようになるのも、少し悪くないかもしれないと思った。

 それを話すと、お袋は嬉しそうな顔をした。』


 この二週間で、十二歳の俺の中の何かが劇的に変わったようだ。詳しい内容は書かれていないが、これが俺の人生の転換点であったと容易に想像できた。


・3月15日


『今日は、卒業式だった』


 そこまでで、1と書かれた日記帳は終わっていた。

 静かに日記帳を本棚に戻す。一冊読んでみたが、全く記憶が戻る気配がない。

 記憶は、本当に戻るのだろうか……。そんな焦燥感が、俺の体を取り囲む。


「まあ、まだまだあるし……」


 自分自身を鼓舞するかのように、次の日記へと手を伸ばす。


・4月10日


『今日は、中学の入学式だった。

 小学校の頃と、生徒はほとんど変わらないので、特に新しいことはなかった。

 何か、部活に入ろうと思う。

 昔の俺は、社交的でなかったらしい。

 雅也がそう言うのだから、間違いないだろう。

 社交的になるためには、まずは部活に入る必要があるそうだ』


 ここで、先程の犹森雅也という人物が再び登場した。しかも、昔の俺の中ではかなり神格化されているようで、昔の俺が素直に助言に従っている。小説でいうところの『賢者役』に相当するのだろう。


・4月13日


『迷った結果、家庭科部に入部することにした。

 そのことを話したら、お袋に笑われた。

 何が面白かったのだろう?

 料理が上手くなって、損はないと思うのだが』


 ──よりにもよって家庭科部かよ……。そんなのって、女子が入る部活じゃないのか? 

 こんなこと、秋子に言ったらまた怒られそうな気がするが……。


・5月2日


『家庭科部には、男が俺しかいない。

 何故だろう? 理解できない。』


 そりゃそうだろう……。


・5月29日


『最近、クラスの人と話す機会が多くなった。

 小学校と比べれば、その機会は段違いだと思う。

 同じクラスの山下は、俺が小学校時代に比べて優しくなったと言っていた。

 自覚はないが、そうなのだろう。

 悪くはないと思うので、変に意識する必要は無いはずだ』 


 ここまで読んでも、これを書いたのが自分だと思えない。記憶の取っ掛かりすら、見つけることができない。

 それでも、一人の少年が徐々に成長していくのを見ているのは、非常に楽しい。

 このままならば、この桑原和志は少し不器用で、無愛想だけれど、良い青年になれると思える……。

 まあ、その結果が今の俺なら、何と言うのだろう……。微妙かも。

 五月最後の日。俺の誕生日の日記は少し長めだった。


・5月31日


『今日は、俺の誕生日だ。

 だから料理は俺が作ることにした。

 当然、お袋は反対した。しかし、この日のために、お袋の好きないり鶏を覚えたんだから、どうしても作りたかった。

 あと、一時間程度でお袋は帰ってくるはずだ。

 今日の料理には自信がある。

 お袋が、喜んでくれれば良いと思う』


・6月4日


『お袋が殺された。

 今日は、お袋の葬式だった』


 ページを捲る手が、ピタリと止まった。

 書かれているのは、端的な事実のみ。黒鉛と粘土で構成されたその文字は、酷く無機質で感情の欠片すら見つけることができない。


「ちょっと待てよ。4日が葬式ってことは、まさか……。俺の誕生日殺されたのか……?」

 

 だとすれば、今まで二日に一回は書かれていた日記が、四日も書かれていなかい理由が分かる。

 そして何より、殺されたとは穏やかではない。


「──そう言えば、秋子も自分の誕生日に父親が殺されてるんだよな」


 ここでも、奇妙な一致を見つけた。

 誕生日が同じで、しかも唯一の肉親が自分の誕生日に逝去している。


「何だか、気持ち悪いほど俺達って同じなんだな」


 妙な感慨ともに、俺はページを捲る。


・6月5日


『今日は、雅也が家に来た。

 仕事でお袋の葬式に来れなかったことを謝っていた。

 雅也から、身内にならないかと誘われた。

 もちろん、俺は頷いた』


・6月6日


『お袋を殺した奴が、誰か分かった。

 雅也が言うには、犯人は懲役にすらならないらしい。

 絶対に、そんなことは認められない。

 人を殺したのに、車が凶器だからって執行猶予なんて……。

そんな、ふざけた話を認めるわけにはいかない。

 そのことを雅也に話すと『なら、復讐するしかないね』と言われた。

 もちろん、そうするつもりだ。

 絶対に、許さない』


 身内? 復讐? 穏やかではない。

 綴られている一文字一文字に殺気が滲んでいる。それは、視界が真っ黒に染まりそうなほどの質量と密度を湛えている。

 この次の日は、自らも整理できていないのか、理路整然としておらず、思いついたことをただ綴っていくといった感じの内容であった。そのため、かなり文章量が多い。

 内容としては、俺が入ることになった『身内』とやらに関する補足説明である。


・6月7日


『俺が入った身内のことを書こうと思う。

 俺が入ったのは『犹森(えぞもり)機関(きかん)』と呼ばれているものだ。この呼称は、外の奴らが言っているだけで内部の奴ら(身内)は、特に決まった呼称を持っていない。

 犹森機関とは、早い話化け物の集まりだ。もちろん、その中には俺も含まれている。そういう奴らが集まった、互助機関が犹森機関の概念だ。

 人間ですらない奴や、人間でありながら特殊な能力を持った奴ら(俺を含む)が構成員の殆どだ。

 その特性もまちまちで、戦闘能力に特化した奴から、馬鹿みたいに頭の良い奴まで幅が広い。

 そして何より、個性が強い奴らが多い。

こんな奴らで一つの共同体を維持できるなと、本当に感心するほどだ。

 さて、犹森機関は、その人並み外れた能力を活かして、日本、いや世界中で強い力を持っている。日本のトップ企業の何個かは、身内が経営しているし、政界にすら身内がいる。

小説とか漫画に出てくる「世界を牛耳る秘密組織」をイメージすれば良いだろう。

 しかし、設立の理念は、世界を牛耳ることではない。世界に対する影響力は、元々の理念を果たす上で必要になっただけだ。つまり、手段であって目的ではない。

 理念はただ一つ。

「身内を守る」これだけだ。

 身内に手を出す者(人外や異能者を専門に殺す輩)から身内を守るために、犹森機関は存在する。万が一、身内に危害が加えられたならば、冗談抜きで一族郎党皆殺しという制裁を加える。

 そのため、直接行動を主な役職とする者、陽の当たる世界で強い力を持ち機関の存在や行動を秘匿する者、この二つに身内の属性は大まかに分別できる。もちろん、両者を兼ねる者(雅也みたいな奴)もいる。

 そして、もう一つ、犹森機関には重要な役割がある。

注意すべき点としては、この役割が設立以後に付け加えられたという点である。

その役割とは、人間社会に仇を為す人外や異能者を殺すことである。なぜなら、そいつらを放置しておけば、平和に暮らしている身内にまで不利益が発生する可能性があるからだ。加えて、そんな常識離れした存在を殺せるのは、同類である俺達だけなのだから。

 長くなったが、俺自身が整理をするために書いた。読み返すことなど、これ以後ないだろう。

 少しだけ狂っていて、馬鹿な奴らが集まっている中に、俺は自ら飛び込んだ。

 一番大きな理由は、お袋の仇を討つため。

 身内になれば、お袋の仇を討つのに何かと都合が良い。復讐の方法、手段、そして後始末まで犹森機関が協力してくれるからだ。

 さらに、お袋もまた犹森機関の身内だったことも大きな要因だった。正確に言うと、元々俺の父親が犹森機関の身内だったそうだ。身内の身内は、機関の身内でもあるそうだ。

 だから、俺が手を下さなくとも、頼めば速やかにあいつを殺してくれるだろう。

 しかし、それでは俺の気が済まない。

 最高の苦痛と絶望を与えて……。

あいつを、この手で殺してやる』


 冗談だろ……。笑えないぞ、これ。

 精神異常者が、書いた小説なら笑って済まされる。

 文章も支離滅裂で、理解することが難しい。

 しかし、これを書いたのは、紛れもない俺なのだ。

 俺は、イカれているのだろうか?

 呼吸が上手くできない。日記の殺気にあてられて、呼吸の仕方を忘れてしまったのだろうか?

 アル中患者のように震える手で、ページを捲る。


・7月7日


『今日、俺とチームを組む奴と初めて対面した。

 当然ながら俺は、戦闘職種に配属された。

 戦闘職種の奴らは、基本的に三人一組でチームを作る。

 そのメンバーと今日、初めて顔合わせをした。

 他のメンバー二人は、俺よりも三つ年上の男だった。

 中々、面白い奴らだった』


・7月22日


『日記を見返していると、あることに気が付いた。

 俺のチームのメンバーと、書きたくないが復讐する相手の名前を書き忘れていた。

 最近、忙しかったために忘れていたのだろう。

 今日、改めて書くことにする。

 そいつらの名前は……』


 日記を全て読み終えた。

 未だに、記憶は戻らない。いや、戻るはずがない。

 その理由が分かった。

 何故記憶を失ったのか、何故秋子の家にいたのか。全てが分かった。

 そして、こいつの正体も……。

 善光寺秋伸の携帯電話を取り出す。

 日記に書いてあった番号へと、電話をかける。

 二回目のコールで相手が出た。


「──思い出したのか?」


 出るなり相手は、絶対にあり得ないことを尋ねてきた。いや、あいつも分かっているのだが、訊かずにはいられなかったのだろう。

「いや、思い出せない。でも、全部を知った」


 そう。思い出していなくても、知るだけで充分だ。


「そうか。久しぶりだな、和志」


 どこか懐かしそうな声で俺の名を呼ぶ男。


「迷惑かけたな。直樹……」


 俺が組んでいたチームの一人、大畠直樹が電話口で笑う。


「その言葉は、聞き飽きた」

「確かに、そうかもしれないな……。若松にも会ったよ。あれってお前の差し金だろ? ここに導くために、あの時わざと逃がしたんだな?」

「これが、一番良いと思ったからな。本当は、お前が善光寺秋子と離れてくれれば、もっと楽だったんだがな」


 大畠の言葉に従っていれば、もっと早くにこの事実と対面していただろう。まあ、その時に俺がこの事実を素直に認めていたかと言えば、また別の話だが。


「それは、仕方がないだろう。知らなかったんだから」

「おいおい。開き直るなよ」電話口の声は笑っている。「こっちは、すっげー驚いたんだぞ。まさか、善光寺秋子と一緒にいるとは思いもしなかった」

「そうだろうな。殺す予定の相手を助けに行ってるんだからな」


 それは、今年の4月30日の日記だった。


・4月30日


『決行日まで、一ヶ月となった。

 本当ならば、直ぐにでも殺してやりたかったのだが、我慢した甲斐があった。

 長いようで短い、7年だった。

 善光寺秋伸には、一人娘がいる。こいつを利用しようと思う。

 今まで、善光寺秋伸から謝罪の手紙が幾つも届き、その全てに俺は許しの言葉を書き綴っていた。あいつは、俺が成人するまで、つまり今年の5月31日まで自腹の賠償金を払うつもりらしい。

 それを利用しようと思ったのが、7年前だった。

 計画は、実にシンプルなものだ。

 まず、5月31日に善光寺秋伸に賠償金の全てを返す。その際には「娘さんのために使ってください」などと、適当な言葉を並べておく。

その前日に、善光寺秋子を誘拐する。

誘拐するのは、もちろん俺ではない。そこら辺のゴロツキに大金を払ってやらせるつもりだ。もちろん、全てが終わったら、そいつらも殺す。どうせ、犯罪者集団だ。殺しても世の中にプラスでしかない。

 そして、5月31日に善光寺秋伸へ脅迫電話をかけさせる。身代金の額は、あいつが払った賠償金と同額だ。あいつは悩むだろう。それを想像しただけでも、笑いがこみ上げてくる。

 頃合を見計らって、俺があいつの家に行く。二千万円の金を持ってだ。訪問する名目は、全てを水に流すことと、善光寺秋子の誕生祝で問題ないだろう。

 善光寺秋伸には一人で身代金を払わせに行かせる。場合によっては、付き添いとして俺が行く可能性もあるが、かなり低いと思われる。

金の受け渡しが済んだら、善光寺秋伸を拉致させ善光寺秋子と対面させる。

 ここが、最も重要だ。

その場で、善光寺秋子をゴロツキにレイプさせ、殺す。

頃合を見計らい、俺が現場へと赴く。まあ、場合によってはその場にいるかもしれないが……。

そして、全てを告げる。

「俺は、お前を少しも許していない。そして、お前の娘はお前のせいで殺された」

絶望に塗れた、善光寺秋伸の顔を想像するだけで興奮する。

最高だ。

これほど、自分の誕生日を心待ちにしたことはない』


 読み終えて、俺は吐き気を催した。人間は、ここまで残酷になれるのだろうか。

 ただ、殺すだけではない。

 ただ、苦痛を与えるだけではない。

 一度救いを与え、絶望の淵に叩き落してから殺す。

 しかも、関係のない者まで巻き込んで。


「俺は……。秋子を、殺すつもりだったのか……」

 つまり俺は、

 殺すつもりの人間を助けたのか?

 それでも、分からないことがある……。

 俺の記憶が、失われる理由が分からない。


 答えは、5月30日に書かれていた。


・5月30日

『興奮して眠れない。

 明日で全てが終わる。

 復讐を終えた後、何をしよう? そんなことをこの前、ふと考えた。

 特にやりたいことが浮かばない。このまま、大畠達とダラダラ生きるのも悪くないとも思う。

 やはり、雅也の言う通り、将来のことを考えておくべきだったと、今更ながら後悔する。

 どうしよう、と考えていたら大畠が、

「思い切って、人生やり直してみたらどうだ?」といきなり言ってきた。

大畠は身内に頼んで、ある薬を作ってもらったそうだ。

記憶を消去できるという、魔法じみた薬だ。成分や仕組は分からないが、効果だけは保証できるらしい。

それでも、記憶を失くし、新しい人生を歩むには色々問題があるはずだ。体のことや、生きる術など……。

しかし、何も心配する必要はないそうだ。全て、大畠と若松が上手くやってくれるらしい。あいつらは、俺に一般人の戸籍、家、身分を用意してくれるそうだ。

「復讐を終えた自分へのご褒美にしてやれ」とも言われた。

 新しい人生とやらに興味は無いが、親友の提案だ。断る理由は無い。

全てを終えたら、この薬を飲むだろう。

記憶を失った俺は、新しい環境で新たな記憶を紡いでいく。

 新しい、俺が、そこから始まる。

 記憶が失われれば、そこで実質的な死が訪れる。

そう言えば、二人に新しい俺について聞いたが、教えてくれなかった。

曰く「最高の環境を用意してやった」だそうだ。

あいつらの「最高」ほど、信用できないものはない。

──明日で大畠達との思い出すら失ってしまう。そう考えると、ほんの少しだけ寂しい気がする……』


「それで、どうするんだ?」


 直樹の言葉で、回想から現実に引き戻される。


「ここまま、善光寺秋子を殺すか? それとも、全部忘れて新しい人間になるか?」電話口で直樹がタバコに火を点けるのが分かった。「どっちを取るにしても、俺は止めねーよ。ただ、協力はしてやる」

「秋子は、殺せない……」


 復讐を決意した桑原和志はもういないし、永遠に戻ってこない。

 ここにいるのは、ただの呉一郎だ。


「それなら、静かに余生を過ごすのか?」

「それも、できない」

「──まさかお前、自分が善光寺秋子に悪いことをしたと思ってるのか!?」


 余りに大きな声だったので、思わず電話口から耳を離す。


「悪いか?」

「かぁー、止めとけ止めとけ。そんのは、ただのセンチメンタリズムだ。安っぽいヒューマニズムだ。断言してやる。お前は、何も悪いことはしていない」

「そう、かもな……」

「そうだそうだ。一番悪いのは、お前のお袋さんを殺した、善光寺秋伸だ。そいつに対して、対価を払わせただけだろ? まあ、一般人から見たら、娘まで殺すのはやり過ぎって思うかもしれないが、それはてめーの大事な人間を殺されてないから、言えるんだよ」


 直樹の言っていることは、間違えていないと思う。俺が、以前の俺と同じ立場だったら、何度でも同じ選択を繰り返すだろう。

 復讐する相手が分かっていて、達成する手段がある。

 ならば、選択肢は一つだけだ。


「あのよー。一つ訊きたいんだが……」


 言いにくそうに、直樹が口ごもる。


「何だよ。言ってみろ」

「……善光寺秋子に、惚れたのか?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。そのまま、口をアホらしく開けたまま時間が過ぎる。


「いや、ほら、あれだ! 吊橋効果ってーの? そーゆーのって、よくあるじゃんか」


 フォローするように慌てて付け加えるが、それが逆に滑稽だった。


「あのさ、直樹……」余りに面白い発想なので、吹き出しそうになる。「俺、記憶がないんだぜ。そんな男に、恋愛感情を問うのは意味ないだろ?」

「そりゃそーかもしれないが……。でも、万が一、という可能性も」


 こいつは、色恋沙汰が苦手なタイプだな。初めてのデートで手すら繋げないようなヘタレだと思う。


「ほら、善光寺秋子って面だけはいいじゃねーか。面だけはよ」

「性格は?」

「あー、無理無理。絶対にパスだね。睨まれただけで、アソコが縮こまる」

「そうか? 直樹には、ピッタリだと思うがな」


 結構、良いコンビになりそうだと思うんだけれどな。


「うー、止めろ止めろ。サブ疣が立ったきた」

「本当に、嫌そうだな。後で伝えとくよ。直樹が、秋子のことを『非人道的兵器だ』って言ってたってな」

「おいおい、止めろよ。絶対に殺されちまう」そこで、直樹は一つ呼吸を置く。「で、実際のところ、どうなんだ?」

「嫌いではないぞ。何だかんだ言って、生死を共にしてるからな」


 素直に伝える。嘘偽りない俺の本心を。


「お、お前、それはつまりだ……」

「早計過ぎるぞ。好きイコール恋愛感情という方程式は存在しない」

「それでもだぞ、いつかは……」

「その可能性は、否定できないな」

「げっ! ま、マジかよ……」 

「あくまで、可能性だ。絶対、とも言い切れないんだからな」


 そう、この世界に絶対は一つだけしか存在しないのだから……。


「あー、そりゃーまいったな。惚れた女を殺せるほど、お前は頭が良くないからな」


 面倒臭くなったので、否定することは止めた。


「なあ、直樹。この一件の当事者って、今は一人だけなんだよ」


 話題を転換する。


「はぁ? 二人だろ。お前と善光寺秋子だ」

「いや、俺は違う。既に、異なる存在なんだから」

「まあ、物は言いようだな。だが、中身が違うから、異なる存在ってーのも真理だ」

「だから、秋子に選ばせようと思う」

「何をだ……?」


 恐らく、全てを理解したのだろう。直樹の口調が、切れる寸前の絹糸のような緊張感を帯びる。

「この一件の、始末をだ……」

「そうか……。それなら、一つだけ伝えておかないといけないな」


 意外にも、直樹は反論しなかった。俺の決意が、揺るがないと分かっているのだろう。


「有益な情報か?」

「さあな。それは受け取り方次第だ」大畠は一呼吸置く。「善光寺秋伸の死因についてだが……」

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