邂逅
大通りに出て、少し歩いた後、
「ねえ、一郎」
俺の顔を覗き込む秋子。
「何だ? 別に体は心配要らないぞ」
「だれも、そんなこと言ってないでしょうが。一郎は、無理なら無理ってはっきり言うタイプじゃないの?」
的を射た発言ではあるが、若干寂しく思わなくもない。そう思うのは、俺の我がままなのだろうか?
「この後、どうするのか訊こうと思っただけよ」
付近には仙台市中心部並みとは行かないまでも、そこそこの交通量があった。タクシーを捕まえるのには、さして苦労しないだろう。
「大畠の家を訪ねてみようと思う。あいつは、ああ言っていたが、行って損はないはずだ」
「罠の可能性は?」
「それは、無いな」俺は、きっぱりと断言した。「大畠は、せこい真似をするような奴じゃないと思う」
「一郎らしくないわね。他人をそこまで信頼するなんて」疑わしげな視線を俺に向ける。「拳を一度合わせたら、宿敵と書いてトモと読むって感じ?」
「そんな臭いもんじゃねーよ。もしも、大畠が何振り構わず俺達を潰しに来るなら、もっと効率的な方法があったはずだ」
例えば、「省略」の能力を使って、秋子を人質に取ったりすれば良かったはずだ。何も、正々堂々と正面から来る必要などはなかったはずだ。
「そう言われると、そんな気がしないでもないわね」秋子は、顎に手を当てて考え込む。
「深く考えるのは、後からにしよう。丁度、タクシーも来たことだし」
俺は手を上げて、タクシーを停める。その車は、今流行のハイブリットカーであり、速度を落とすと驚くほど走行音が小さくなった。
後部ドアが開き、二人で乗り込む。窓ガラスには「地域最安値 初乗り運賃三百七十円」と書かれたシールが貼られていた。二千万円という大金があると雖も、節約するに越した事はない。何より、この金にはできるだけ手を着けたくなかった。
思いの外若い運転手に、大畠の家の住所を告げて、そこに向かってもらうように頼む。
しかし、運転手は、何故か俺の顔を見て硬直する。
「和志君か……?」
「はぁ?」
よく分からずに、間抜けな返答をする。そもそも、和志って誰だよ?
「ああ、やっぱり和志君だ。久しぶりじゃないか、俺のこと覚えているかい? ほら、隣の部屋に住んでいた、若松だよ」
親しげに俺の肩を何度も叩く運転手。
俺はただ、目を白黒させるばかりだ。
「運転手さん。彼の知り合いですか?」
突然の状況でも、彼女の切り替えは早い。こういう時は、本当に頼りになる。
「もちろんだよ」そこまで言って、運転手は声を潜める。「和志君、可愛い彼女じゃないか」
ちょっと待て。何をこの運転手は言っているんだ? 秋子が彼女とか、ラブコメっぽい展開はどうでも良い。
この運転手は、俺を知っている……?
「本当に久しぶりだね。7年ぶりかい? お袋さんのお葬式以来だから……」
「えっ、俺のお袋は……」
言いかけた時、
「あっ、そうだ」秋子が、ぽんと掌を打つ。「和志。私、貴方の家に忘れ物しちゃった」
「忘れ物……?」
鸚鵡返しに聞き返す俺に構うことなく、秋子は運転手に行き先を指定する。
「運転手さん。和志の家に向かってもらえますか? ずっと前から引っ越していないので、ご存知だと思いますが」
「ああ、構わないよ。場所はまだ覚えているしね」
若松と名乗る運転手は、ギアをドライブに入れ、車を走らせ始める。
「ちょっと、一郎。ぼーとしてないの」
顔の前で手をヒラヒラ振られ、俺はようやく反応を示すことができた。
「ああ、悪い」
「お母さんが、亡くなっていることがショックだった?」
「ショックであることには間違いない。でも、秋子が考えているほどではないと思う。何せ、記憶を亡くしているから、母親に対する愛情がないからな」
その言葉を聞き、複雑そうに目を伏せる秋子。
「いや……思ったよりも、あっさりと俺のことが分かりそうで驚いている方が大きいかな」
「それは、あれよ。占いの結果どおりじゃないの?」
失せ物が見つかるか……。確か、ラッキーアイテムはタクシーだったな。
これを期に、占いを信じても良いかなと思った。
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「さて、名残惜しいけど到着したよ」
車内で若松と色々な話をしたのだが、よく覚えていない。内容自体が、大したものでなかったことに加えて、俺自身が動揺していたということが大きかった。
「おいくらですか? 生憎と大きい札しかないので……」
一万円札を取り出そうとすると、若松は手を振ってそれを遮る。
「お代はいらないよ。懐かしい友人と、久しぶりに会ったんだからね」
理由になっていないと思ったが、その言葉に素直に従う。
「ありがとうございました」と二人で礼を言って、タクシーを降りる。
目の前には、秋子の自宅と似たり寄ったりの長屋があった。
周囲の近代的な住宅とは、明らかに一線を画している。
「何だか、私の家と似てるね」
「そうだな」
昭和の香りがぷんぷん漂う、お世辞にも見栄えがするとは言えない長屋だった。
玄関先には洗濯機が並び、二階へと続く階段の手摺には錆がいたるところに浮いていた。
「名前がメゾン上杉って詐欺よね」
「そうだな。この長屋に、横文字は反則だろ」
階段脇に設置されているポストを見る。一階二階ともに、四つの部屋があり、その半分が埋まっている。
「一ヶ月あたり、四万円ってところかしら」
「それが、妥当な値段だろうな。金のない学生には、手ごろな物件だ」
103同室のポストには、桑原恵子・和志と書かれた表札が入れられていた。どうやら、ここが俺の家らしい。そのポストの中には、ピストンシリンダー錠の鍵が一つ。無用心すぎる事この上ない。
「お母さんの名前、恵子っていうんだ」
「死んでるのに名前を残しているなんて、今の俺からすれば考えられないな。死んだら、それで終わりだろ?」
「一郎……、いや和志か。それを、父親を亡くしたばかりの私に言う?」
悪気は全くなかったが、配慮のない発言だったと気付く。
「すまない。悪かった……」
「まあ、良いわ。そんなに、深刻な表情をしないでよ。何だか、私の方が悪い気がするわよ」
「そうだな……」
上の空で俺が答えると、はぁと大げさなため息を秋子がついた。
「和志。あなた変よ。記憶を取り戻せるかもしれないんだから、もっと元気を出したらどうなの?」
「いや、元気がないわけじゃない。ただ……」
「ただ、どうしたの?」
まるで両足が強力な接着剤で、地面に貼り付けられたようだ。中々、その場から動けない。
「これで、良いのかなって思って」
「良いに決まってるじゃない。記憶が戻るんだから」
「そりゃーそうなんだが……。記憶を取り戻すっていうのは、初めての経験でな」
「それを二回も経験する人を、是非見てみたいわね」
「茶化すなよ。元の記憶を取り戻したらさ、俺どうなると思う?」
「どうなるって、そのままじゃないの?」
「だと良いんだがな……」
「もしかして、怖いの?」
図星を突かれて、言い淀む。それだけで、彼女の言葉に肯定の意を示したことになる。
「なーに、怖がってるのよ。大丈夫だって」バシバシと俺の背中を叩く秋子。「記憶を取り戻したからって、急に人間が変わるわけないでしょうが」
「お前、本当にポジティブだな」
「和志だから、言ってるのよ」
「さいですか。信頼していただきまして、光栄至極でありますよ」
「私が保証するから、問題ないわよ」
その言葉に押されるようにして、俺は103号室へ向かう。手には、ポストから取った一つの鍵。しかし、ポストに鍵を置いたままにするなんて、昔の俺は気でもふれていたのだろうか?
チャチな作りの赤い鉄製のドアは、俺の侵入を阻むかのような空気を発散している。
俺は深呼吸を一つすると、鍵を鍵穴に差し込む。半回転させると、カチャリと音を立てて鍵が開く。
「開けるぞ……」
「別に、わざわざ言わなくても」
「気分だよ、気分」
ゆっくりと、ドアが軋みながら開く。
「ここ、和志が一人で住んでたんでしょう? それにしては、綺麗……」
「気を遣わなくても良いぞ。物が無いって言ってもらって構わない」
玄関から見える居間の中央には、一つのちゃぶ台とテレビ、そして質素な仏壇が一つあるだけだった。
昨日、俺が目覚めた善光寺家とは比較にならないほど質素だった。物が無いのに加えて、生活感が非常に希薄だった。普通、部屋にはその主の存在感というか、言葉にできない雰囲気といったものがあるはずだ。しかし、この部屋はマンションのモデルルームよりも、その類のものが感じられない。
この部屋に、本当に俺は住んでいたのか? そんな疑問が頭をよぎる。
「ただいま……」
自然と、言葉が出ていた。
「お邪魔します」
続いて、秋子が靴を脱ぎ部屋に上がる。
誰も、俺達を迎えてくれない。
部屋に上がり、最初に向かったのは正面にある仏壇。
仏壇の前に座り、安置されている遺影と位牌を撫ぜる。二つずつ、計四つのそれらは、俺の父親と母親のものだ。
位牌に彫られている名前と戒名は、小説の登場人物のように虚構に満ち溢れ、現実のものとは思えないくらい無機質だ。
遺影も同じだった。笑顔を浮かべる両親を見ても、特段感慨は湧かない。
「お線香、あげないの?」
「それは、記憶を取り戻してからだ」
今の俺が、両親に線香をあげても無意味だろう。ここにいる俺は、桑原和志の体を持った呉一郎という記憶喪失の男なのだから。
「そう。和志がそう言うなら、そうなんだろうね」
秋子は俺を咎めない。俺の意図を汲んでくれたのだろうか? この少女なら、その可能性が高いだろう。
「ねえ、向こうにも部屋があるみたいよ」
湿っぽく粘度の高い空気を振り払うように、秋子は右手側にある襖を指差す。
右側には、襖があり、その奥にはさらに部屋があると思われる。
居間に面しているを襖を開く。
奥の部屋もまた、質素だった。
ある物は、ビジネスデスクと天井まである大きな本棚が二つとベッドぐらいのであった。本棚の中には、ぎっしりと本が詰め込まれており、以前の俺がかなりの読書家であると感じさせる。
「ここ、和志の部屋だよね」部屋の中央に立ち、キョロキョロと部屋を観察する秋子。「大学生の部屋にしては、質素すぎるわね」
「無趣味だったんじゃないのか?」
どこから、手をつけるべきか? 少しだけ考えた後、本棚から始めることにした。
秋子は手持ち無沙汰そうに、部屋をキョロキョロと眺めている。
「秋子は、適当に他を漁っていてくれ、ベッドの下とか隅々まで」
「え、良いの? いかがわしい本とか発見したら、どうするの?」
「その時は、俺の奇特な性癖を嘲笑ってくれ」
向かって右側の本棚を上から順に調べる。
本は系統ごとに分かれており、五段ある棚の上段から順に、哲学、心理学、工学、医学、薬学の書籍が並べられていた。
「雑食なのかな、俺」
一つ目の本棚を調べ終わった俺は、独りごちる。以前見た秋子の本棚よりも、ジャンルに幅があった。
「そっちは、何かあったか?」
二つ目の本棚に向かう前に、秋子に尋ねる。
彼女は、ビジネスデスクの引き出しを調べ終えたところだった。
「うーん。目ぼしい物は特にないわね。机の引き出しに、漫画がごっそりあるだけ」
「ちなみに、どんなジャンルだ?」
「青年漫画から、少女漫画まで」
ここでもまた、節操なく手にしていたようだ。
「それと、残念ながら和志の性癖が露呈する資料は、発見できなかったわ」
それは、残念ではない気がする。
二つ目の本棚を調べる。ここに収められている書物は、先程の本棚とは毛色が違った。上段三つには、小説が収められていた。そこまでは、特に目ぼしいものがない。
しかし、残りの二つの棚に目が奪われる。
「アルバムと日記か……」
どうやら、当たりらしい。
その言葉を聞いて、秋子が俺の元に来る。
「わっ、本当だ。ついに見つけたね」
俺は、1と記入された日記帳を開こうとして、止めた。
「どうしたの、和志?」
「悪い、秋子……。ちょっと、外してくれないか?」
冷たいとも受け取れる俺の言葉だが、秋子は素直に従ってくれる。
「うん。分かった。近くにマンガ喫茶があったから、時間潰してくるわね」
「すまない。金、渡しとくよ」
ポケットから財布を取り出そうとすると、直ぐにその手を遮られる。
「それくらいのお金は持ってるわよ。整理がついたら、ちゃんと呼んでよね」
「もちろんだ。秋子も、何かあったら連絡してくれ」
「頑張ってね」
ポンポンと俺の肩を叩くと、秋子は部屋を出て行く。
ドアが閉まる音がすると、不気味なほどに室内は静まり返る。
一冊の日記帳を手にする。表紙に1と記入されたそれを、開く。
最初の日付は、今から八年前の5月31日であった。
少し幼さの残る文字で、そこには3行ほどの短い文章が綴られていた。




