プロローグ
人間は、誰しも何がしかの影響を受けて、人格を形成することになると私は確信している。
例えば、それは名作と誉れ高い映画かもしれない、小説かもしれない、はたまた感動的な偉人の自伝かもしれない。
とにかく、何がしかの物から、大小の差異はあれども影響を受けて人格を形成している。
私にとってのそれは、間違いなく目の前にいる人物だろう。
その彼は、奇妙な笑みを浮かべて彼は私の頭を撫でる。
アルカイック・スマイルと言っただろうか?
その笑みの持つ意味を解するのは、非常に困難だ。
哀れみによるものか、素朴な喜びを反映したものか?
いずれにせよ、一般的な愉快さなどを表す微笑とはほど遠いことだけは分かる。
「復讐すべきだね」
私と目線を合わせるために、彼は膝を曲げる。
発せられた言葉が、私の耳朶を柔らかく撫ぜた。
「君のことだから、目的を果たしても後悔なんてしないだろう。むしろ、自らを手放しで褒め称えるだろうね。それは、とても素晴らしいことだよ。誇って良いことだ」
──そうなのだろうか? 私には判断できない。
「大切な人を殺されて、相手に復讐したいというのは人間らしい情動だよ。人間は、牙が無くても仇敵に向かっていく。牙が無ければ、牙を生やして。牙が生えなければ、牙を体に埋め込んでね。それができるのは、人間だけだ」
私の両目を、彼は両手で塞ぐ。
「世界がどう見えるかな?」
──真っ暗で何も見えない。
「そうだね。それが、今の君だよ。たった一人の家族が殺され、喪服よりも黒い感情に目が塗りつぶされている」
彼は、ゆっくりと手を離す。
「それがある限り、君は盲目のままだ。使えるのは、聴覚、触覚、嗅覚、味覚だけ。友人の笑い声は聞えても、笑顔は見えない。初夏の日差しは感じられても、鮮やかな新緑に目を刺されることはない」
窓の外を見る。今の私は、確かに街路樹の新緑にすら心を動かされることがない。
「そんな世界。意味があるのかな?」
──答える必要などない。
「そうだね。それなら、どうすれば良いかな?」
──観察者が消えれば良い。
「確かに、それは一つの正答だね。でも……」
そこで言葉を区切り、彼は少しだけ口をへの字に曲げた。
その仕草が、何を表そうとしているか、私には理解できなかった。
「それは困るな。僕は君のことを気に入っている。君に、この世から去られると、とても困るし悲しいね」
──だからこそ、復讐なのだろうか?
「そう。その通りだよ。君が舞台から退場する必要と道理はない。目の前を塞いでいる存在を、拭ってやれば良いんだよ」
──それなら、今すぐにでもあいつを……。
「ううん。ところがそう単純じゃないんだよ」
──何故? 私の目を塞いでいる奴を殺せば良いのではないのか?
「それだけじゃダメだよ。対象を消して復讐は終わり、そんな単純な話じゃないんだ。むしろ、大変なのは、その後だね」
──その後? 死体とかの後処理?
「残念。それはハズレだよ」
彼はタバコを銜えて火を点ける。
「君は、復讐相手を殺せば済むと思い込んでいる。でもね、その相手を殺したら、今度は君が、ある人の目を塞ぐ存在になるんだよ」
私は少しだけ言葉に詰まる。
「よく聞くだろう? 復讐の連鎖っていう奴だよ。君が殺したい相手にも、家族や友人がいる。今度は、彼らが目を塞がれるんだよ。それを拭うために、彼らは君を殺しに来るかもしれない」
──それは……。とても困る。
「困るよね。開けた世界に一歩踏み出そうとした瞬間、後ろから刺されたら意味がない。どうすれば良いと思う?」
──ばれないようにすれば良いのでは?
「それは、無理だよ。この世には、ある一つの事象を除いて絶対は存在しない。どこから、どのような情報が漏れるか分かったもんじゃない」
短くなったタバコがテーブルの上にある灰皿に押し付けられて、微かな紫煙が断末魔の様に宙をさ迷った。
「だから、唯一の絶対的事象を選択するしかないんだ」
──絶対的な事象?
「簡単な話だよ」
耳元でささやかれた言葉は、甘く私の耳朶を打つ。
「皆、殺してしまえば良いんだ」
──それは……。確実で簡潔な選択だ。
「復讐をしようと考えうる対象、その全てを殺し尽くせば良い。連鎖が連鎖を呼ぶならば、百人だろうが、千人だろうが殺し尽くせば良い。連鎖自体を発生させなければ良いんだ」
──そんなこと、できるのだろうか……?
「可能だよ。僕が、君にあらゆる物を与えてあげるよ。欲しがるなら、新しい牙も植えてあげよう。その使い方も教えてあげる。力を持つに相応しい、知識も授けてあげる」
彼は、私に手を伸ばす。
「どうする? この手を取るなら、契約成立だよ」
私は迷わなかった。
縋りつくように、彼の手を握る。
その手は、酷く冷たいものだった。
心の温かい人は手が冷たい、そんな話をふと思い出した。
「うん。良い子だ」
細い指先が私の長い黒髪を撫ぜた。
少しだけくすぐったくて、無意識のうちに頬がゆるんでしまう。
「ああ、そうだ。君に一つだけお願いがあるんだよ」
しばらく私の髪を撫ぜた後、彼が何気ない口調で言った、
お願いとは珍しい、何を言われるのだろうと、期待半分、恐れ半分で彼を見る。
「全てを終えた後の自分を、今から考えておいて欲しい」
少しだけ照れくさそうに彼が口にした言葉が、何故か胸に突き刺さった。
なぜなら……それがとても難しいお願いだと、私は理解していたのだから。