時空の歪(ひず)み
「ああ! 一体いつになったら地上に出られるのかしら! 皆も、ちゃんと無事なの
かしら? 」
バスターブレードとチャール・ダパゴの魔道書を無くしたケインとクレアは、仲間
を探し、砂漠の地下を歩く。
もと来た迷路のような白い壁や、サンダガーと出会った草むらなど、再び隈無く
探すが、誰も見つけることは出来なかった。そんな最中に発せられた、クレアの嘆き
であった。
「なんて悲惨な境遇なの!? この世は、本当は神など存在していないのではないか
しら!? 」
「だから、ここにいるって言ってんだろー! 」
マリスから分離したヒトサイズのサンダガーが、面白くなさそうな声を出す。
異次元の自分の居場所に戻り損ない、地上で暴走を目論み、失敗した彼が、ケイン
たちと行動を共にしているのを、ケインは不思議に思っていた。
クレアが、キッと、サンダガーを睨みつける。
「あなたのような、野蛮な獣神のことじゃありません。ヒトの拝む尊いお方のことを
言っているんです。それとも、邪神は存在するというのに、人々を導いてくれる聖な
る神は、いらっしゃらなかったというのかしら? そんなの、あんまりだわ! それ
なら、ヒトは一体、何を心の支えにして生きていけばいいというの!? 」
クレアは、天を仰いで、今にも泣き出しそうだった。今の獣神にはたいしたことが
出来ないとわかってからのクレアの態度は、一変していた。
「ぎゃあぎゃあうるせえ女だなぁ! こんなことで、いちいち泣き言いうんじゃねえ
よ」
「あなたって人は――! 」
言いかけて、彼女は、ふらふらとその場に崩れるようにして、座り込んだ。
「大丈夫か、クレア。薬は? 」ケインが、彼女の側に屈む。
「全部落としちゃったみたいなの」
砂漠病の一種である、貧血に似た症状の病気は、一日で完治はしなかった。
彼女の顔色は、徐々に青ざめていき、色白であったのが、一層白くなってしまって
いる。
「早く、ヴァルか、ミュミュでもいいから探さないと」
「しょうがねえな。ほらよ」
クレアの前で、サンダガーが背を向けたまま、腰を屈めた。
「結構よ! あなたの手なんか借りなくたって――! 」
先よりも弱々しい声で彼女が言いかけるのを、ケインが打ち切った。
「そんなこと言わないで、ここは、彼の言う通りにした方が、クレアのためだと思う
よ」
つり上がった目尻を元に戻す。
「……ケインがそう言うなら……」
クレアは、渋々サンダガーの背に乗った。
(サンダガー、意外にいいヤツなのかも知れない)
感心しながら、ケインは獣神の隣に並び、草むらの中を歩き続けた。
「まずは、ヴァルドリューズのヤツを見つけないとな」
そのサンダガーの声に、クレアが嬉しそうに面を輝かせる。
「あの野郎縛り上げて、俺様にかけた術を解かせなくちゃなんねえ」
忌々(いまいま)しそうに言うサンダガーを見て、二人は、彼がなぜ自分たちと行動
していたのかを理解した。
「神様でも術を解けないなんて——ヴァルドリューズさんて、よほどすごいのね! 」
クレアが嬉しそうな声を上げた。
「そうじゃねえよ。ここの空間がおかしいんだよ。俺が元通りになれば、こんなとこ
ろ早く抜け出せるんだがな。ヤツは、俺が『そのもの』に戻る前に術をかけやがった
のよ。まったく面白くもねえ! 」
サンダガーは、ブツクサと続けた。
「だいたい、あいつは人間のくせして、生意気なんだよ。妙な術ばかり編み出しやが
って……! 魔神『グルーヌ・ルー』とグルになって、素直な俺様をハメやがるんだ」
ケインは、密かに笑いをこらえていた。
(神とは言っても、獣神は動物に近く、あまり小ズルイことは出来ないのかも。ある
意味、自分で言うように、素直なのかも知れない)
「やはり、ヴァルドリューズさんは、すごい方なんだわ! あの方から魔術を習える
なんて、本当に光栄なことだわ! 」
サンダガーの背の上で、クレアは顔を綻ばせていた。
「お前、ヴァルドリューズの女か? 」
平然と、サンダガーが言った。
神にしては、俗っぽい発言だとケインが思っていると、クレアの顔が上気していき、
またもや目尻が上がっていった。
「な、なんて品のない……! あなた、それでも神様ですか!? 信じられないわ! 」
「あいつ、意外とモテるみたいだな。あんなんでも、実は、結構スケコマシだったり
してなー。お前も、魔道以外にも教わってること、あるんじゃねえの? 」
サンダガーがゲラゲラ笑い出す。
ケインは、ハラハラしながら、二人を見る。
「ひどいわ! なんてこと言うのよ! あの人は、そんな人じゃないわ! この邪神
(ケダモノ)! 降ろしてちょうだい! 」
サンダガーの背で、クレアが暴れ出した。カイルにからかわれても、ここまで彼女
が怒ったのは、ケインは見たことがない。
「なんだよ、冗談も通じねえのかよ。お固い女だなー。そんなんじゃ、おめえ、モテ
ないぞ」
「おっ、大きなお世話ですっ! あ、あなたみたいなケダモノ獣神になんか、おぶっ
てもらうんじゃなかったわ! 今すぐ降ろしてよ! 」
本心なのか、からかっているだけなのか、彼の言うことは、彼女を怒らせるばかり
であった。
無理矢理背から降りたクレアは、崩れるように座り込む。
「大丈夫か? 」
「え、ええ」
クレアはケインに答えると、額に手を当て、乱れた呼吸を落ち着かせようとする。
獣神は腕を組み、そっぽを向いていた。
「なんだか、さっきよりも具合が悪くなってるみたい……。巫女の名残かしら?
邪なものに長い間触れているのは、身体が耐えられないみたい」
「なんだと、このアマ! 俺様は邪神じゃねえ! 失礼な! 」
「ここから別の次元になってるみてえだな」
どのくらい歩いたか、三人には見当もつかなかったが、進んで行くうちに、あたり
は岩山のような景色になっていた。
岩の間から覗く、奇妙な、はっきりとしない、まるで水溜りが縦に出来たような
ものが、どうも時空の歪みらしいことがわかる。
「やたら通り抜けない方がいいだろう」
珍しく、サンダガーの口調は真面目だった。
「他を探すぞ」
さっさと違う方向へと進みかける彼の背に、クレアが弱々しく声をかける。
「そこにヴァルドリューズさんたちが紛れ込んでしまったということは、ない
かしら? 」
体調のよくならない彼女には、ケインが肩を貸していた。
「……かも知れねえが、今、俺たちはここを通るべきではない、そんな気がする」
能力もヒトサイズになってしまったと嘆いていたサンダガーではあったが、神らし
い感覚はあるようだ。
「可能性があるのなら、探した方がいいのではないかしら? 」
「やたら、生身の人間が空間を越えるもんじゃねえ。身体にはたいしたことはねえが、
精神にダメージを受けるぞ。今の俺は、お前らのために、いちいち結界を張ってやる
ようなことはできねえんだからな」
慎重な面持ちでそう言うと、獣神は、そこを離れた。
「だったら、自分が行って、ちょっと見て来てくれればいいじゃないの、ねえ? 」
クレアが、ケインに耳打ちする。
辺りには、特に目印になるようなものはなく、風もなにもない薄暗い空間をひたす
ら歩き続ける。
「ここもか。……一体、なんだって、『ここ』は、こんなに時空が入り組んでやがる
んだ? 」
岩の間の妙なうねり――縦になった水溜りを再び発見したサンダガーが、舌打ちす
る。
その奥も、同じようにうねっている『水溜りの膜』が何重にも重なっているらしく、
眺めているだけで、目の感覚が狂いそうだ。
その時、後ろから何かの気配が感じられた。
三人が振り向くと、そこには、いつの間にか現れた、ヒトほどもある巨大な茶色い
ムシが一匹いたのだった。
ムシは、背から羽を生やし、大きな逆三角の頭部には、触角が、長いものと短いも
のと二本ずつ生え、大きな丸い赤い目が不気味に輝いていた。
しゃあっ! と開いた口からは、牙が見える。細長い胴からは、両脇に足が五、六
本ずつ生え、特に前の左右四本には鋭く長い爪が見られた。
ムシは、それを彼らに向け、威嚇するように伸び上がり、振り上げた!
「ミドル・モンスターか。へっ! こんなヤツ、俺様の敵ではないわ」
サンダガーがにやっと笑い、手を組んでボキボキ言わせながら、一歩前進した時、
「きゃああああ! いやーっ! 」
ぼわーっ!
「うわあああ! 」
クレアの放った強風に、モンスター、ケイン、サンダガーまでもが吹き飛ばされた。
だが、威力は、普段の彼女に比べて、落ち込んでいただろう。
「このヘタクソ! どこに向けて打ってやがんだ! 」
サンダガーが立ち上がり、怒鳴ったと同時に、クレアは、へなへなとその場に倒れ
た。
「ちっ! 俺様としたことが——! 油断したぜ! 」
自らの背で、ざざざーっと草むらを削り取っていった跡から目を反らし、サンダガ
ーは、少しだけ羞恥心に顔を赤らめながらも、よろよろと起き上がったムシに、手の
ひらを向けた。
発射された小さな炎がムシに到達し、ムシ全体を火達磨にして、消滅さ
せたのは、あっという間だった。
「クレア! 」倒れた彼女をケインが揺さぶる。
「寝かせておけ。その方が回復するだろう」
ケインはクレアを背負うと、獣神が歩き出す後ろについていく。
「うるせえ女が眠ってくれたおかげで、助かったぜ! 」
伸びをしながら、彼は悪ぶって言った。
進んで行くと、草むらに、焼け焦げたような跡がいくつか見える。
「これは、モンスターを殺った跡だ」
地面をじっと見下ろしていたサンダガーが、何を思ったか、突然走り出す。クレア
を背負ったケインも、後を追う。
「ヴァルドリューズ! 」
サンダガーが立ち止まった前には、長身の黒マント姿が見える。
彼らの探していたうちの一人、ヴァルドリューズであった。
彼は、ゆっくり振り返ると、驚くこともなく、いつもの静かな眼を、獣神に向けた。
「おい、てめえ! 俺様をこんなにしやがって! ヒト並みの術しか使えねえもんだ
から、いろいろと恥かいちゃったじゃねえか! 」
赤面したサンダガーが、威勢良く文句を言った。
「……では、あの呪文は成功したのだな」
ヴァルドリューズの方は、それでも冷静だ。
「ヴァル、クレアをなんとかしてやってくれないか? 薬を落としちゃって」
ヴァルドリューズは、ケインと、背で眠っているクレアとを見つめた。
「そんな女、眠らしときゃいいんだ! うるせーったら、ありゃしねえ! 邪神邪神
て、ヒトのこと何だと思ってやがんだ」
横では、サンダガーがぶーぶー言う。
「悪いが、私の魔力も通常の半分ほどに減っているのだ。彼女は特殊な病気のため、
体力を復活させても、またすぐに減ってしまう。ここは、サンダガーの言う通り、
眠らせたままにしておいた方がいいだろう」
「そんなことよりもさー、早く俺様のことを、もとに戻せよー! 俺様の、神様とし
てのプライドは、もうズタズタだぜー! 」
サンダガーは、まるでだだっ子のように、ヴァルドリューズの周りを、うろうろし
ながら抗議していた。
ヴァルドリューズの碧眼は、一見いつもと変わらず穏やかではあったが、どこか
おかしさを堪えているようでもある。
「言った通り、私の魔力も半減しているのだ。悪いが、あなたをもとに戻すことは
できない」
「ウソだろ……? 」
「本当だ」
「…………わーっ! 」
放心していたサンダガーは、しゃがんで頭を抱えこむ。
「それじゃあ、俺様は、いつ、もとに戻れるんだよー! こんなひどい話がある
か!? 貴様ら、俺に一体何のウラミがあるってんだー! 」
彼には、既に、神の威厳などというものは存在していなかった。
「ところで、他のみんなを見かけなかったか? 」
ケインの質問に、ヴァルドリューズは、静かに首を横に振る。
「マリスは? 」
「今探している」
そう答えると、ヴァルドリューズは彼らに背を向けて、歩き出した。クレアを背負
ったまま、ケインも歩き出すが、側でしゃがみこんでいる獣神を見下ろした。
「ほら、探しに行こう。あなたは、マリスの守護神なんでしょう? 」
そう言って、ケインはサンダガーの腕を引っ張り上げた。
「誰かが通った跡がある」
ヴァルドリューズは、『それ』に触れもせずに調べたところだった。
「なんだ、ここの時空の歪みは? さっきまで見て来たのと、ちょっと違う
みたいだな」
岩の間に出来た、大きな薄い膜を前にして、ヴァルドリューズとケイン、眠って
回復したクレア、サンダガーは立ち止まっている。
その『時空の膜』だけは、他のものと違い、水溜りの向こう側の景色が、揺らめき
ながらも見える。
「なんだか、さっき通った砂漠にも似てるけど、……なんか違うような? 」
ケインの言う通り、その景色とは、彼らが通ってきた砂漠とよく似ていた。
立っている樹木と、ところどころに生えている植物は似ていても、違うものであり、
岩も、まったく違う鉱物だ。
砂漠のようには見えたが、砂漠では赤茶色をしていた砂の地面が、膜の向こうでは、
石が細かくなったような、粗い灰色で、砂丘といった方が近い。荒れ地に砂が溜まっ
ているようなところも見える。
「なんでえ、ありゃあ、ベアトリクスの辺境じゃねえか」
ケインの右肩から顔を覗かせて、サンダガーが言った。
「ベアトリクスですって……!? 」
クレアが、サンダガーと、仲間を見回す。
ヴァルドリューズは黙ったままだ。
「どうして、こんなところに、そんな離れた国の辺境なんかが見えるのかしら? 」
「だから、『ここは、そういうとこ』なんだ。空間がよじれて、合わさって、乱れて
る! 世界中の自然の森――特に、辺境みたいな得体の知れない場所と、つながって
んだ。
お前たちの辿ってきたモルデラの山や、アストーレの北の山なんかにあった次元の
穴は、それぞれ独立して沸いたものだったが、ここは違う。次元の穴すら、こういう
歪みに左右されてんだ。ある時は砂漠の上に、またある時は地下に――それも、しょ
っちゅう位置が移動しているらしい、すげえ不安定な状態なんだぜ」
獣神の静かな口調には、真実味を帯びていた。
「……誰かいる」
ヴァルドリューズの静かな声に、彼らは、さっと緊張して、時空の膜を覗き込んだ。
砂埃の奥には、黒い、ひとつの影がある。
砂が風に巻き上げられていくと、それが、全身を黒いマントに包んだ、痩せた男で
あるのがわかった。
顔は、フードに覆われていて、彼らからは見えなかったが、その男の手には、見覚
えのある大剣が握られていたのだった。
「それを、返してもらいましょうか? 」
聞き覚えのある声とともに、膜に映った左側から、赤い衣装に身を包んだ、独りの
女が現れた。
「……マリス! 」
ケインとクレアが、同時に叫んだ。
まさしくマリスであったが、二人の声は届いていないのか、膜に映った二つの人影
は、反応しなかった。
「これは、これは――! まさか、このようなところで、お遭いするとは、思いも
よりませんでした。これは、盲点をつかれましたな、マリス殿」
ゆっくりとマリスの方へ首を回し、その一見して魔道士とわかるマントの男が、
平坦な声で告げた。
声の様子からすると、それほど年齢は離れていないようだ。
「私だって、戻ってくるつもりはなかったわ。だけど、ちょっと落とし物しちゃった
から、取りに来たのよ」
「それが、この剣なわけですか? 」
ケインの背に緊張が走る。
その魔道士が持ち上げて、彼女に見せた剣は、紛れも無く、バスターブレードで
あったのだ。
「それさえ返してもらえば、用はないわ。おとなしく帰るから、剣をこっちに、ちょ
うだい」
マリスが、手を差し伸べた。
男との間には、互いの顔がはっきり見える程度ではあるが、いつ戦闘が始まっても、
攻撃を避けられるほどの距離はあり、それは、決して、二人が友好関係などでは
なく、実力がわかった上での警戒なのだということを、充分に感じさせる。
「……さて、どうしたものでしょう」
魔道士の男は、フードの頭を傾げた。マリスも黙って、彼を見つめる。
「見たところ、この国の剣ではないようですが、これを、あなたは、どうされたので
す? 」
魔道士は、大きく、重厚な剣の先を地面に立て、上から下まで眺め回す。
「もらったのよ」
「あげてないぞ」と、心の中で反論しながら、ケインはそのまま状況を見守る。
「本当に、これは、あなたのものなのですか? 私には、なんとなく、違う方のもの
のように、思えるんですけれども? 」
男の声は、からかうような響きをはらんでいた。
「この剣は、後で私が持ち主に返しておくとしても、あなたを見逃すというのは、
ちょっと――いや、大分、もったいないですねえ。そうは思いませんか? 」
男は、にたりと笑っているような声で言った。
マリスは表情を変えずに、男を見ている。
「あなたを、女王陛下に突き出す、そうすれば、宮廷での私の株も上がりますしねえ。
それどころか、私は、国を挙げての英雄にまでなってしまうかも知れませんよ!
反対に、そんなチャンスをみすみす逃してしまえば、怒られるだけでなく、たちま
ち謀反人扱いです。そんなのは、まっぴらごめんです」
「女王への反逆罪で追われてるあたしには、『謀反人』なんていうと、仲間意識が
湧いてきちゃうけど? 」
マリスも、不適な笑顔で返す。
「マリスが、ベアトリクス女王へ、反逆――!? 」
無意識に繰り返したクレアが、驚いて、口に手を持っていく。
ケインの目が細められ、一層、二人のやり取りに注目する。
膜の向こうの二人は、しばらく、そのまま動かなかった。
それを見守る膜の外の四人の中でも、身動きするものはいない。
「この剣は返さない――と言ったら、どうします? 」
魔道士が、再び口を開く。
マリスが、キッと、男を睨みつけた。
「ここで、私は、この剣を拾った。誰にも遭わなかった。剣ひとつで、あなたを見逃
そうというのです。どうです? 悪い話じゃないでしょう? 」
ケインは、思わず身を乗り出していた。
緊張したまま、歪みの向こうの彼女の表情を見つめる。