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呪い達に懐かれている封印修復師ですが、胡散臭い文官が毎日来ます

作者: パル
掲載日:2026/05/28

※短編です。

「あっ!だめ!」


宵灯(よいあかり)工房へ入ってきた客の顔面へ、

花瓶が飛んだ。


べしゃっ。


黒薔薇まみれになってよろけたのは、

店の常連客ベルクだ。


「いっっったぁ!?」

花瓶の残骸が転がる。

床には水浸しの黒薔薇。


棚の奥では、戒札だらけの箱が

がたがた揺れていた。


「こら!

投げちゃだめでしょう!」

工房の奥から、ユナが慌てて走り寄ってきた。


棚の上では、青白かった灯火が橙色へ変わり、

ぷるぷる震えている。


「絶対笑ってるよね……?」

ユナはじとっと見上げる。



壁へ、じわじわ焦げ跡が浮かんだ。


『草、ない』


「めっ!」

ユナが叱ると、焦げた文字が

しゅん……と縮んだ。


「反省した?」


――しない。


もっとも、ベルクには、視えていない。

文字も灯火も、蔦も。


その横で。

黒い蔦のような影が、ベルクの靴紐を

するすると解いていく。


「あっ」


どんがらがっしゃん。

ベルクは今日も盛大に転んだ。


「ぐふっ」

床へ潰れたまま、ベルクが呻く。


「もーっ!

 全然反省してないっっ!!!」

「……大丈夫?」

カウンター越しに、ユナが心配そうに覗き込む。


「はは、

君の店へ来ると、変な事故が多いな」

ベルクは黒薔薇を頭から払って、

苦笑しながら立ち上がった。


『くるな』


『かゑれ』



「やぁ、相変わらず丁寧な仕事だ。

ありがとう」

彼は、修復済みの呪物を受け取り、

革袋を机へ置く。


さらりと差し出された報酬明細書には、

《封印物輸送・管理委託組合》の刻印。

「さすがユナちゃんだね。

君に頼むと、本当に事故が減る」

「えへへ」

ユナが、少し嬉しそうに笑った。


ベルクは自然な動作で、

そのまま彼女の手を取る。

「そうだ!

これから食事でもどう?」


「えっ?」


「ちょっと早いけど、夕食。

まだだろ?」


距離が近い。

けれど嫌味がない。

人に好かれることへ、

慣れている男の笑い方だった。


「このあと仕事なの。

お客さん来るから」


「そっか、残念だな。

じゃ、また今度ね」

と、ベルクは肩をすくめ帰っていった。


その背後。

黒い花びらが、静かに舞った。

扉へ、じわりと焦げ跡の文字が浮かぶ。


『あいつきらい』


「こら。

あの人はお得意さまだって、

いつも言ってるでしょ。

あんまりひどい悪戯するなら

立ち入り禁止にするからね」


ユナが腰に両手を当てて告げると、

棚の上の灯火が、

しょんぼりしたみたいに薄青く縮こまる。



工房の中へ、

甘い黒薔薇の香りが静かに広がった。

カウンターに飾られた黒い薔薇が、

閉じた扉を睨むように揺れている。


まるで、

逃がさないとでも言うように。






ベルクは組合へ戻る石畳の道を、

機嫌よく歩いていた。


指先で、金貨を弾く。

くるくる回る金色を、片手で掴み取る。


「よぉ、ベルク。

最近羽振りいいらしいな」

煙草を咥えた男が、にやにや笑う。


ベルクは肩をすくめた。

「まぁね」


「けどよ、ほどほどにしとけよ。

あの嬢ちゃん、まだ若ぇだろ」


ベルクは笑った。


軽い。

人当たりの良い、いつもの笑顔のまま。


ぱしっ。

落ちてきた金貨を掴む。

「向こうが納得して受けてる報酬さ」


「いや、そういう問題じゃ――」


「気付かねぇ方が悪いんだよ」

ベルクは鼻で笑った。


「呪物の封印修復師なんて、引く手数多だぜ?

なのに相場も知らねぇんだ。」


金貨を、指先で弄ぶ。

「ありがたい話だよな」


ベルクが鼻で笑った、その瞬間。

足元の影が、ぐにゃりと歪んだ。


黒い影の、その奥で何かの目が、ぎりりと光る。


「……あ?」


ふわり。


足元から濃密な花の香りが漂った。

甘ったるい、黒薔薇の匂い。


「なんだ?」


肩へ、黒い花びらが一枚落ちる。


払う。


だが。


また一枚。


また一枚。


周囲を見回しても花一つ見当たらない。


しかし、気づけば、

上着の肩口は黄色い花粉だらけになっていた。


「うわっ、なんだこれ!?」


しかも臭い。


濃い。


むせ返るほど甘い、薔薇の香り。

通りすがりの女が、ぎょっとして距離を取る。


「くさっ」


「は?」


壁際の影がゆらりと揺れた、その直後。


ばさばさばさっ。


どこからか、大量の蛾がベルクに向かって飛んでくる。


「げっ!?」

続く彼の悲鳴を背に――。

黒い花びらが風へ溶けるように舞った。





その頃。


宵灯(よいあかり)工房の棚の上で

眠たげに漂っていた灯火達が、

一斉に身を震わせた。


橙色だった光が、

警戒するみたいに細く尖った。


からん。


ぎぃ。


入口の扉についた鈴の音に続いて、

扉がゆっくり開いた。


ぱっと、

壁へ焦げた文字が浮かぶ。


『ぎんいろきた』



灯火達は、棚の影へさっと身を隠す。

空気が変わる。


ぼっ。


青白い灯火が膨らんだ。


小さな炎の塊が、扉に向かって一直線に飛ぶ。


だが。

扉を開けた銀髪の男が丁度コートを脱いだ為、


ばふっ。

火は布へ突っ込み、そのまま掻き消える。


「……?」


男は、焦げた袖を一瞥した。


「おや、焦げ跡?」

慣れた様子で、軽く煤を払う。


壁の焦げた文字が、ぴたりと止まった。

『ちっ』



床では、青白い炎が、男の靴紐を焼いている。

彼は気づいた様子もなくカウンターへ向かう。

その途中。


とん。


革靴のつま先が、

靴紐を焼いていた炎を床へ払い落とす。


次の一歩で。


ぐしゃっ。


踵が、そのまま青い炎を踏み潰した。

炎は、

小さく潰れた音を立てて消える。


そのまま、銀髪の男は乱れひとつないまま、

ユナの元へ歩いてきた。


「あ、エドガーさん 」


「どうも」


壁に焦げた文字が浮かぶ。

『ぶーぶー』

そこまではいつもと同じ。

けれど、この日は違った。


ぼっ。


店の書類棚に突然火が付く。

青白い炎が、一瞬で紙束へ燃え移る。

「えっ!?」

「うわっ」


ユナが慌てるより早く。

エドガーが、カウンターの水差しを掴んだ。

ばしゃっ!

白煙が上がり、

少し焦げた臭いが工房内に広がる。


「な、 なんで急に……?」

床へ散らばった、

燃え残りの紙片をエドガーが拾い集め、

ユナが零れた水を拭いていると、

床へ、焦げた文字が浮かんだ。


『これ』


すぐ横へ。

『みろ』

さらに、じわり。


『ぎんいろ』


「……」

エドガーは、濡れた紙片を拾い上げた。

半分ほど焼けている。

だが、依頼番号。


組合印。

支払額。

ところどころ、数字が読めた。

視線を落とすと、エドガーの片眉が僅かに動く。


「……ユナくん」

「はい?」

「これ、預かっても?」

彼は、半分燃えた明細書を軽く振る。


「組合本部なら、管理局(うち)の近くだから。

再発行、ついでに頼んでおくよ」

「わぁ、助かります!」

ユナが、ほっと笑う。


エドガーは紙へ、もう一度視線を落とした。

焼け残った数字。

修復内容。

そして、安すぎる報酬額。


「…………」

何も言わない。

ただ、銀の目は少し冷えていた。


棚の上の灯火が、ふよ、と揺れる。

エドガーは、一瞬だけ視線を向け、

すぐに逸らす。


「エドガーさん、お待たせしました、

行きましょうか!」

ユナが、鞄とコートを抱えて声をかける。


「ええ」


ガラスの小皿

光墨。

小筆。

修復道具の入った鞄を、

彼女は慣れた手つきで肩へ掛けた。


外は、もう薄暮だった。


空が藍色へ沈み始める。

宵の刻。

術式がもっとも静かに馴染む時間だった。


「別に、現地集合でもいいんですよ?」

「査察官には、同行確認義務がありますので」

エドガーが、扉を開ける。


「危険区域へ入る修復師を、一人歩かせて、

何かあると、あとで始末書が増えるんです」

「わぁ……お役所っぽい理由」

ユナが苦笑した。


閉まる扉の向こうで。


ぼっ。


小さな青い火が灯る。

エドガーは、もう振り返らなかった。



王立公園の中央には、古い円形庭園がある。

今は、黒鉄の柵で封鎖されていた。


『立入禁止』

『王立封印局管理区域』

黄色の札が風に揺れる。


近づくほど、空気が重い。

花壇の草花は、そこだけ色褪せていた。


死んでいるわけじゃない。

色だけが世界から抜け落ちている。


石畳には灰色の煤が薄く積もり、

風が吹くたび、乾いた灰がさらさら舞った。


ユナが眉を寄せる。


庭園の中心。

そこには、一本の巨大な古木が立っていた。


だが。


幹の半分以上が、灰色に変色している。


無数の杭が打ち込まれ、

太い術式鎖を編み込んだ封環が、

木全体へ幾重にも巻き付いていた。


鎖には、鈍く光る戒符が

びっしり貼られている。


まるで。

何かを、木の中へ

縫い留めているみたいだった。


ごり。


風もないのに、

古木の内側で何かが軋む音がする。

鎖の周りには黒い呪気が纏わりついていた。


「”灰喰らい”と言ってね。

接触した術式、魔力、生命力――、

あらゆる“力”を灰へ変える禁呪です」


彼は、灰色の地面へ真紅の敷布を広げた。

灰の世界の中で、そこだけ鮮やかだった。


「浸食の発動の予兆は気づきがたい。

七名の封印師により封印したものの、

全員、術式ごと喰われたそうです」

さらりと言う。


「それから三百年、持った方でしょう」


封環の一部は、すでに灰化していた。

ぼろぼろに崩れ、風へ散っていく。


「……御覧の通り、ゆるみが酷い」

エドガーは、静かにユナを見る。


「お願いします。」


「封環の第三節、完全に擦り切れてますね。

まず、そこから手を付けて――」

ユナは手袋を嵌めながら、古木へ近づいた。


その瞬間。


ぞわり。


庭園の空気が揺れる。

灰色の根が、地面の下で脈打った。


じわり。


灰が、ユナの足元へ伸びる。



「止まって」


低い声。

ユナの肩を、エドガーが軽く引いた。

反射的に、ユナの身体がそちらへ寄る。


直後。


さっきまでユナが立っていた石畳が、

音もなく灰へ変わる。

さらさら崩れ、風へ流れた。

「……うわ」


遅れて、背筋がひやりと粟立つ。


気づけば、

ユナはエドガーの服をぎゅっと掴んでいた。


指先に力が入っている。


だが肩へ残る手の感触に、

少しだけ気持ちが落ち着いた。

エドガーは、いつもの穏やかな顔のまま、

灰色の地面を見ていた。


「境界線が動いてる。

今日は機嫌が悪いらしい」

「わかるんですか?」

「長く見てれば、なんとなく」


彼は、

まるで天気でも読むみたいに言った。



本当に、

ただ経験で察知しただけにも見える。


けれど。



灰喰らいの侵食は、

発動の予兆を掴ませないから

封印師が何人も犠牲になった。


と、言ったのは彼だ。


今更、

エドガーの服を掴んでいたことに気づく。

「……あ、すみません」

慌てて手を離す。


エドガーは、少しだけ目を瞬かせたあと、

困ったように笑った。

「いや。

問題ないですよ」


ユナは小さく息を吐いた。


まだ鼓動は速い。

けれど、いつまでも怖がってはいられない。


ユナは赤い敷布の上へ道具を並べると

右手に小筆を持ち、

小さく歌を口ずさみ始めた。


壊れた術式の痛みを、

一時だけ眠らせるための旋律。


封印修復師の古い慰撫術。


だから呪いは、この歌を拒まない。

たとえ、音程や調子が外れていても。


声が、静かな庭園へ溶けていく。



「……ここ、痛いね」


ユナの声は、

独り言みたいに落ちる。


硝子皿から光墨をすくい上げると、

周囲の音が遠のいた。


風に揺れる草木の音も、

虫の羽音も、

意識の外へ沈んでいく。


封環へ細い小筆を滑らせる。


その途端。


庭園の景色が、

水面みたいに揺らいだ。


崩れた術式の綻びが、

ユナの視界へ浮かび上がる。


千切れた線。

擦り切れた戒式。

灰に侵され、

ほどけかけた“結び目”。


ユナは、

欠けた一画へ筆を落とした。


最初からそこにあったみたいに、

途切れた線を繋いでいく。


一画。


また一画。


掠れた線と、

新しい光が静かに溶けあう。


やがて。


がちり、と。


見えない鍵が、

再び閉じる音がした。



重く沈んでいた庭園の気配が、

わずかにほどける。


「……終わりました」


ユナが、ほっと息を吐く。


灰色だった庭園へ色が戻るには、

まだ少し時間がかかりそうだった。


古木へ巻き付いていた封環が、低く軋む。


ひび割れた樹皮の奥から、

灰色の獣が、じっとこちらを見ていた。


黒い呪気はなくなり、威嚇もしない。



獣は少し離れた場所から、

じっ。

警戒するみたいに、エドガーを見ている。


「……あれ?」

ユナが首を傾げる。

次の瞬間。

灰色の獣は、身を翻し、


街の方角へ駆けていった。


灰が舞う。

「行っちゃった……」

ユナが立ち上がろうとして。

「あ!」


膝から力が抜けた。


ぐらり。


「っと」


支えたのは、エドガーだった。

「はわ……すみません」

「かなり呪詛を浴びてましたからね。

今日は強めでした」


「……立てません」

ユナがしょんぼり呟く。

エドガーは少し考えてから、

肩を貸した。


「車まで歩けますか?」

「たぶん……」

「抱えて運べれば楽なんでしょうが

残念ながら文官なもので」


「うそだぁ」


思わずユナが笑う。

力がないと言う割に。

エドガーの歩みは速く、驚くほど揺れない。


腰へ回された腕も、びっくりするくらい

安定していた。


夜風が吹く。

いつの間にか、庭園はすっかり暗くなっていた。

ぽつぽつと、星が見える。


「封印術式が壊れかけるとね、

みんなすごく暴れるの」

ユナが、ぽつりと呟いた。


夜道へ、

小さな声が溶けていく。

「痛いんだと思う」

「痛い?」

「うん」


少し考えながら、

言葉を探すみたいに続ける。


「呪いって、

最初から呪いなわけじゃないの。

強すぎる感情とか、

消えなかった願いとか。

そういうものが、

長い時間をかけて染み込んでいくの」


街灯の明かりが、

銀色の髪を淡く照らした。

「小さな生き物だったり、

道具だったり、

場所だったり。

いろんなものが、だんだん変質して、

――呪物になる」


「禁呪は、また別ですけどね」

ユナは少し眉を下げる。

「人が、呪法で作った呪いだから。

最初から、誰かを害するために

形を与えられてる」

夜道へ、静かな声が溶けていく。


「だから危ないの。

本当は、すごく怖いものなんですよ?」

エドガーは黙って聞いていた。


涼やかな目元へ、街灯の光が落ちる。


「でも、封印してるのは攻撃性とか、

呪詛の出力だけなの」

「壊れた術式だと、ずっと痛いまま。

苦しくて、怖くて、暴れちゃう」

ユナは、少しだけ笑った。


「だから、直してあげると、

みんな急に静かになるんです」


風が吹く。

遠くで、夜警の鐘が鳴った。

「……貴女は、

変わってますね」


低い声だった。

「普通、禁呪をそんなふうには見ない」

ユナは、少しだけ視線を落とす。


「だって」


小さく呟く。


「痛いのは、どっちも同じだから」


エドガーは、静かに目を細めた。

禁呪とは、本来なら管理対象だ。

危険性。

侵食性。

被害規模。

王立封印局では、そういう基準で分類される。

そこへ、痛みだの、可哀想だのを

持ち込む人間は少ない。


少なくとも。

長く封印へ関わるほど、

そういう感覚は削れていく。


――なのに。


この少女は、立てなくなるほど

怯えながらも禍々しい存在へ向けて。


「……貴女は、

 本当に変わっている」


ぽつりと、エドガーが呟く。


静かな横顔。

銀色の髪が、夜風へさらりと流れる。

少し癖のある前髪が、額へ落ちた。


長い睫毛の影が、月明かりに薄く滲む。


ユナは、そっと見上げる。


「……エドガーさんって、

本当に見えてないんですか?」


「さて」


即答だった。

「またそれ」


困ったように笑う横顔を見ながら、

ユナは小さく頬を膨らませる。


(この人、

時々すごく誤魔化す)


なのに。

低い声も、

夜風へ揺れる銀髪も、

近づくたび落ち着かなくなる目元も。



(全部、

ずるいくらい格好いいんだよなぁ。)

ユナは、こっそり思う。


すごく。

かなり。

びっくりするくらい。


でも。

「ただの文官ですよ」

とか。


「視えませんねぇ」

とか。

そういう胡散臭い誤魔化しで、

全部減点される。


(絶対うそなのに)


むすっと口を尖らせた瞬間。


「なんです?」


すぐ近くから、声が落ちてきた。

「ひゃっ」

思ったより近い。


見上げた先で、銀の目が静かに細められていた。

「……なんでもないです」

慌てて目を逸らす。


心臓がうるさい。

夜風のせい、ということにした。



そして、朝。


ユナは、黒薔薇へ埋もれていた。


「…………」


天井が見えない。


視界いっぱい、黒。

艶やかな花弁。


甘い香り。


ふかふか。


しかも、無駄に寝心地がいい。

「……はぁぁ……」

昨日の疲れが、全部溶けていく。


花弁へ顔を埋めると、

ものすごく良い匂いがした。

棘は綺麗に抜かれている。


完璧だった。


「黒花ちゃん……天才です……」


もぞ、と動く。

布団の周囲まで、黒薔薇だらけ。

窓辺。

机。


本棚。

なんなら天井からまで、蔓が垂れている。

どうやったの。

「……ぐぅ」


幸せ。

できれば、このまま二度寝したい。

その時。


時計が目に入る。

遅い。

かなり遅い。


「ひゃあっ!?」


ユナは飛び起きた。

黒薔薇が、ばさぁっと舞う。


「やばっ!

今日ベルクさん来る日!」


「なんでみんな、

起こしてくれなかったの!?」


壁へ焦げた文字が浮かぶ。


『しらない』

『ユナわるい』

『コワいにおいついてた』


黒花庭園は、昨夜ユナへ移った

“銀色の匂い”へ嫉妬し、

全力で快眠環境を整えていた。

しかも、妙な方向へ。


その名も。

『狂乱の薔薇ベッド』である。


もちろん、ユナの知るところではない。


「わーーーっ!!」

ユナは転びそうになりながら、

慌てて身支度を整えた。


ばたばたと階段を降りる。



しかしその日。

ベルクは来なかった。

そして、次の日も。


ユナは特に気にしなかった。

(あれ?呪い(このこ)たち最近ちょっと静かよね?

わたしのしつけもなかなかのものね)



路地裏。

夜露に濡れた石畳が、鈍く光っていた。

人気はない。

酒場の喧騒も、表通りの灯りも、

ここまでは届かない。


暗い。


じめついた空気だけが、細い路地へ澱んでいる。


「うっ……」

ベルクは、口元を押さえて後ずさった。

甘ったるい。

黒薔薇の匂い。


鼻の奥へ、ねっとり絡みつくみたいに濃い。

「はっ……

 はっ……」


荒い息。


眠れていない。

ここ数日。

どこへ行っても。

黒い花びら。

黒薔薇。


焦げた文字。

視線。

影。

ついてくる。


通りを歩けば、誰もいない背後で、

かさり、と花弁が鳴る。


宿へ戻れば、枕元に黒薔薇が置かれている。


鏡を見れば。


『かえせ』


花びらで描かれる漆黒の文字。

「くそっ……!」


逃げるように、

ベルクは路地を曲がった。


その瞬間。


するり。


「あっ」


解けた靴紐に足が絡み、石畳へ盛大に転んだ。

「いっっっ……!」


その目の前へ。


はらはら。


黒い花びらが舞い落ちる。


地面へ。


『かえせ』

『かえせ』

『かえせ』

『ユナのかね』


「ひっ……

ひぃぃぃっ……!」


ベルクは転んだまま、

頭を抱えてうずくまった。


ここ数日。

解呪師も回った。

だが。


『うちじゃ無理だ』

『呪いの階層が深すぎる』

『お前、何をやった?』

『待て、これ自然呪詛じゃない』


『禁呪だ』

『ふざけるな!

こんなの触ったら俺まで呪われる!』


誰も助けてくれなかった。


「はっ、

はっ、

はっ……」


逃げられない。

ベルクは、崩れるように

壁へ背中を打ち付けた。


下半身へ、呪気が絡みついている。

まるで、どこかへ引きずり込むみたいに。


「ユナちゃん……、たすけ……」


ごふっ。


口から、大量の黒薔薇が溢れた。

花弁。

花粉。

甘ったるい香り。


咳をするたび、喉の奥から、

黒い花が咲いてくる。

「ぁ……ぁ……」


もう、まともに声も出ない。

髪は乱れ、頬は痩け、爪の先まで、

黒い花粉が染み込んでいた。


もう、以前の余裕ある笑顔はない。


その時。

路地裏の空気が変わった。


しん……、と。


音が消える。


その瞬間。


世界から、色が抜けた。


「――ぁ」


ベルクの影が、灰色へ染まる。

背後。

そこに、巨大な四つ足の獣がいた。


音がない。

呼吸もない。

ただ、灰色だけが広がっていく。


獣が一歩、前へ出る。


それだけで。


石畳が、さらさら灰になった。

壁が崩れる。

街灯が、根元から風化する。


「やめ……、やめろ……」


灰喰らいは答えない。

ただ、ベルクを見ていた。

静かに。

じっと。


逃がさない目だった。


ずるり。


巨大な顎が開く。

その内側には、何もない。

闇すらない。

灰だけだった。


顎が、ベルクへ食らいつく。

「ぎゃあああああっ!!」

だが。

彼の喉元が灰になる寸前。



かつん。



乾いた音が響いた。



瞬間。


空間へ、巨大な封印術式が展開される。

幾重もの銀環。

噛み合う文字列。

まるで、世界そのものへ

錠前を掛けるみたいに。


灰喰らいが止まった。


ぎしり。


路地の空気が軋む。

灰は逆巻き、黒花庭園の花弁は、

一斉に壁際へ逃げた。


怯えているのだ。


「そこまでです」


低い声。

銀杖を片手に、エドガーが立っていた。

夜風が、銀色の髪を揺らす。


その涼やかな目元だけが、

静かに灰喰らいを見据えていた。


「脅すだけなら見逃しますが。

度を越すようなら、

封印強度を見直さなければなりません」


エドガーは、ベルクへ視線も向けずに続ける。

「人は、

人の法で裁かれるべきです」


灰喰らいが低く唸る。

納得しかねる、と言うみたいに。


しかし。

地面へ、黒薔薇の花びらが降り積もった。


『ぎんいろこわい』

『ゆな』

『ゆないっしょ』

『はなれる、ない』


文字が、次々と浮かんでは崩れる。

灰喰らいが、ぴたりと動きを止めた。


巨大な獣が、わずかに後ずさる。


――まるで、

その言葉へ同意するみたいに。


エドガーは、小さく息を吐いた。

「……なるほど」


銀の目が、灰喰らいを見る。

「貴方も、

あの子に懐いた側ですか」


ちょうどこの時、

警備隊が路地裏へ駆け込んできた。

「いたぞ!」

「ベルク!

横領に不正会計、契約改竄、

逃亡の容疑で拘束する!」


ベルクが、崩れるようにその場へ座り込む。

その頭上へ黒い花びらが、はらはら落ちた。


『ざまぁ』


灰喰らいは、

しばらく動かなかった。


数人の警備隊がこちらを見て青ざめている。

「な、なんだあっち……」

「見るな!

封印局案件だ!」


小さくも厳しい声。

足音と慌ただしい気配。

けれど。

路地裏の中心だけが、妙に静かだった。


やがて。


巨大な灰色の獣は、

ゆっくりとエドガーから視線を外す。


そして、

音もなく夜の街へ消えていった。

「……あれ?

君もユナ君のところに行くの?」


エドガーが、小さく笑う。

「もう、

なんなんだろうね、あの()


エドガーは路地裏から出ようとして、

足を止める。


黒薔薇の花弁が、夜風へ流される。

甘い香りが、狭い路地裏へ残っていた。


その真ん中で。


ユナだけが、

じーっとエドガーを見ていた。


「……」


銀の目が、

ほんの僅かに細められる。


「……あたし、黒花ちゃん探しにきてて」


ぱちぱち瞬きをしたあと、びしっと指で差す。

「エドガーさん、やっぱり視えてるじゃない!

それにそれ、封印師が持ってる杖!!」


「……」


エドガーは、自分の手元を見下ろした。


銀杖。


数秒遅れて。


「あ」


じゃきっ。


ようやく気づいたみたいに、エドガーが杖を縮める。

「……さて、なんのことかな」


「遅いです!!」

びしぃっ、とユナが叫ぶ。


その声で。

張り詰めていた路地裏の空気が、

少しだけ緩んだ。


エドガーは、小さく肩を竦める。

夜風が、銀色の髪を揺らした。

「送りますよ。

こんな時間ですし」


「……子供扱いしてません?」

「していますね」

「ひどっ!」


その横で。

黒花庭園の花弁が、石畳へ文字を作る。


『なかよし』


「え、えっ?」


『ちがう?』


エドガーは、一度だけユナを見た。

それから。


「違いません」


あまりにも自然な即答だった。


「えっ、そこは誤魔化さないんですか!?」

ユナが、思わず吹き出す。


夜風が吹いた。

銀色の髪が揺れる。

エドガーは、わずかに口元を緩めた。


その笑い声を遠くで聞きながら。

灰喰らいは、静かに尾を揺らした。


まるで。


“また明日”

とでも言うみたいに。






そして、次の日。


「おはよう」

と、ユナが呼びかけると、

『ゆなきょうもかわいい』

壁いっぱいへ黒薔薇の花びら文字。


『すき』

天井にはごげ跡の文字。


いつも通り。

工房の空気は、フローラルで騒がしかった。


けれど工房前――、巨大禁呪が座っていた。


「…………」


灰喰らい――巨大な灰色の獣。

工房の入口では、小さな禁呪達が固まっている。


灯火、黒花。

『なんでデカイいる』

『なんでコワイいる』


灰喰らいはしれっと居座ったまま動かない。

(ギンイロこわい)

(マモル、ユナ)


まるで、番犬だった。


そして。

いつものように、“何も視えていません”みたいな顔で。

銀髪の男が、工房の扉を開ける。


「おはようございます」


その瞬間。


ぼっ。


青白い火球。


びゅんっ。


黒薔薇の蔓。


さらに。


ざわり。


灰喰らいの足元から、灰色の侵食が滲み出す。

工房入口の床が、じわりと灰へ変わった。


普通の封印師なら、悲鳴を上げる光景だった。

だが。

エドガーは、片手で火球を握り潰し。


もう片方で、伸びた薔薇を避け。

灰色へ変わりかけた床へ、

何気なく革靴を踏み込む。


かつ。


乾いた音。


瞬間。


広がりかけていた灰化が、ぴたりと止まった。

まるで、そこだけ世界の法則を塗り替えたみたいに。


灰喰らいが、びくりと身を強張らせる。

「……朝から元気ですね」

エドガーは、少しだけ肩を竦めた。


『ぎんいろきらい』

『こわい』

『でもユナすき』


床へ、焦げ跡の文字と花びら文字が増えていく。


灰喰らいは、黙ったままエドガーを見ていた。


ただ。

エドガーが静かに視線を向けると、


長い尾が、ゆっくりと腹側へ収まる。

威嚇の気配が消えた。


それでも、床の木目にはわずかに灰が沈んだ。


エドガーは、それを見なかったことにした。

代わりに、ふっと口元を緩める。

「……困ったものですね 」


その直後。


ユナの視線が、じっと刺さる。

「……エドガーさん」

「はい?」

「今のこれ、

絶対ただの文官じゃないですよね?」


「さて」


即答だった。


しかも。


「――あ、灰喰らいの封印術補修費、

お持ちしました」


流れるような話題転換。


「もぉ!

ちゃんと聞いて下さい!!」

「それと、こちらは請求書です」

「……へ?」


ユナが固まる。

そこに書かれていたのは。


《業務外監査補助費》


金貨三十枚。


「えっ!?

たっっっか!!

ってゆうか何の請求っ?」


「組合への監査申請、不正調査、

差額請求、諸々ですね」

「えっ」


「業務外ですので」


しれっと言う。


「えええ!?」


工房へ、ユナの悲鳴が響き、

壁へ、じわじわ焦げた文字が浮かんだ。


『せこい』


「うるさい」


『おともだちかかく』


「友達ではありませんね」


エドガーは、何事もない顔で

カウンター脇のポットを手に取った。


慣れた様子で、

勝手にコップへ紅茶を注ぐ。


ぼっ。


抗議するみたいに、青白い火球が飛ぶ。


だが。


とん。


エドガーが、書類鞄をカウンターへ置く。


その直後。


火球が、鞄へ触れる寸前で、

ぽふっと霧散した。


『むかつく』


焦げ文字が増える。

「どうぞお気になさらず」


誰へ言っているのか分からない口調だった。


ユナは、請求書を握ったまま、

ゆっくり顔を上げた。


火球を弾いた鞄。

何事もなかった顔のエドガー。


優雅にお茶を飲んでいる。


「……」

「……」

「……えっ?」


口が開く。

閉じる。

また開く。


「いや、

今の見えてない人の動きじゃ――」


「さて」


即答だった。


ユナは、

ぐしゃっと顔を覆った。


「もぉぉぉぉ!!!」


工房入口では、

灰喰らいが伏せたまま、

じっとエドガーを見ていた。


長い尾だけが、ゆっくり床を叩く。

威嚇はしない。

けれど、目は離さない。



文官は、今日も何も見ていない顔で来ます。

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