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役立たずスキルで追放された悪役令嬢ですが、辺境で孵した卵が村を救いました

掲載日:2026/03/21

追放の馬車から降ろされたとき、私の膝にはまだ卵が一つ残っていた。


 王都の北門を出る直前、荷台の隅で震えていた雌鳥が産み落とした、小さな薄茶色の卵だ。衛兵はそれを見て笑った。


 「最後まで鳥小屋の女だな」


 笑い声と一緒に雪が頬へ当たる。三月の終わりだというのに、この辺りはまだ冬の色をしていた。白く凍った土、黒い針葉樹、痩せた風。馬車が去っていく轍だけが長く残る。


 私は膝の上の卵へ掌をかぶせた。


 「大丈夫」


 自分へ言ったのか、卵へ言ったのかは分からない。


 王太子アルドリックの前で断罪されたのは、三日前のことだ。


 侯爵令嬢エレノア・ヴァリエールは、王都の保護家禽舎を私物化し、王太子の婚約者としてふさわしくない偏った趣味へ公費を注ぎ込んだ。そう読み上げられた。横には、私より明るい笑みを絶やさないリーゼが立っていた。彼女は手を胸に当て、心から私を心配しているふうの顔で言った。


 「エレノア様はお優しいのです。ただ、そのお優しさが卵や雛に向きすぎて、国の役には……」


 王太子はそこで頷いた。


 「君のスキルは宮廷に不要だ」


 不要。


 その言葉だけは、今も耳に残っている。


 私のスキルは《抱卵の掌》という。卵や雛の体温を魔力で読み、孵化に必要な温度を維持し、弱い命を落としにくくする力だ。王都ではずっと「地味」「農舎向き」「鑑賞価値なし」と言われてきた。花を咲かせる聖女も、炎を操る騎士もいる宮廷では、卵の温度を見分ける力など笑い話の種にしかならなかったのだろう。


 けれど、私はその力が無価値だと思ったことは一度もない。


 卵が無事に孵るかどうかで、春の群れの数は変わる。群れの数が変われば、秋の食糧と冬の羽毛と、来年の種鶏の頭数が変わる。それは王都の舞踏会では誰も話題にしない数字だったが、暮らしそのものを形作る数字でもあった。


 だから私は宮廷の鳥舎に通った。


 王太子妃教育の合間に、王族の狩猟用鷹より、離宮裏で細々と飼われる家禽の方へ時間を割いた。保温箱の藁を替え、卵の向きを変え、雛へ砕いた穀物を与える。それを見た侍女たちは、またエレノア様が鳥臭い場所へ行っていると囁いた。


 私が何を見ているか、誰も聞かなかった。


 聞かれれば答えたのに、と思う。その機会は与えられなかった。


 「降りろ」


 御者の声で我に返る。


 ここは北辺の小村ルーフェ。冬が長く、補給路が細く、家畜の維持すら難しい土地だと道中で聞いた。つまり、卵の温度を気にする私には、宮廷よりよほど向いた場所でもある。


 衛兵が乱暴に木箱を一つ投げ下ろした。中身は私の衣類と、わずかな日用品だけだ。宝飾品は半分以上が王都で差し押さえられた。婚約者から賜った品など、当然のように回収された。


 「食糧は三日分だ。あとは村長に頼め」


 「村長が受け入れを拒んだら?」


 「そのときはそのときだ」


 そう言って、男たちは本当に去った。


 雪道に取り残されるのは初めてではない。宮廷で孤立することに比べれば、むしろ分かりやすい。


 私は木箱を持ち上げ、卵を胸元へしまい、村へ向かった。


 最初に迎えたのは、歓迎ではなく沈黙だった。


 低い木柵の内側に並ぶ家々は、どれも屋根へ雪を厚く乗せている。煙突の煙は薄く、薪の節約が見て取れた。村の中央にいた大柄な男が、私の荷を見て眉をひそめる。


 「王都からの厄介払いか」


 「ええ」


 正直に答えると、周囲の空気が少しだけ動いた。


 「名前は」


 「エレノア・ヴァリエール」


 「元令嬢様か」


 「今はただの流れ者です」


 男は私を上から下まで見た。防寒具はあるが、村人のそれよりずっと上等だ。手のひらは柔らかく見えるだろう。実際、剣や鍬の持ち方は知らない。代わりに、私は卵の温度差なら指先で読める。


 「俺はヨナス。この村でまとめ役の手伝いをしてる」


 「村長ではないのですね」


 「村長は寝込んでる。肺が弱い」


 その短いやりとりで、村の事情が少し見えた。年寄りが倒れ、若い働き手がまとめ役を担い、冬の終わりでも余裕がない。


 「寝床を貸す代わりに、できることを示せ」


 ヨナスが言った。


 当然だと思う。


 「鶏舎を見せてください」


 彼は露骨に怪訝な顔をした。


 「鶏?」


 「ええ」


 「お前もか」


 「私も、ではなく、それが私の仕事です」


 村人たちの中で、小さな笑いが起きる。王都で聞き慣れた笑いに似ていた。


 だが一人だけ、灰色の頭巾を被った年長の女が、面白がるでもなく私を見ていた。


 「見せてやりな、ヨナス」


 彼女が言う。


 「どうせ飼料も足りなくて、このままじゃ来月には半分死ぬよ」


 ヨナスは苦い顔をした。


 「……マルタ婆がそう言うなら」


 私はそのまま村外れの小屋へ連れて行かれた。


 鶏舎と呼ぶには粗末だった。板の隙間から風が入り、藁は湿り、抱卵箱の位置が悪い。雌鳥は落ち着かず、卵は冷え、雛は二羽だけ弱々しく隅へ縮こまっていた。


 私はしゃがみ込み、雌鳥の腹の下へ手を差し入れた。


 「何をする」


 「温度を見ます」


 「見えるのか」


 「触れれば」


 目を閉じる。


 卵ごとの熱の偏りが、掌へ薄い色のように伝わる。冷えすぎ、湿りすぎ、熱が一点に寄りすぎ。雌鳥の体力も落ちている。抱き続けるだけでは持たない。


 「抱卵箱を窓際から離して、囲いを二重に。藁は乾いたものへ替えてください。あと、卵は三つ諦めた方がいいです」


 「何だって?」


 ヨナスの声が荒くなる。


 「助かるものだけを温める必要があります」


 「簡単に言うな」


 「簡単ではありません」


 私は卵へ触れたまま答えた。


 「でも、全部を抱えて全部を失うより、残るものを増やした方がいい」


 マルタ婆が鼻を鳴らした。


 「言うことは厳しいね」


 「雛は厳しさでは育ちません。温度で育ちます」


 そこでまた笑いが起きたが、今度はさっきより短かった。


 私は持っていた卵を取り出した。


 「これは道中で拾いました。試しに一つ、私に預けてください」


 「何を試す」


 「私のスキルが本当に役立たずかどうかです」


 ヨナスは眉を寄せた。だが、他に失うものも少ないと思ったのだろう。結局、温度の落ちた卵を四つ、私へ渡した。


 その日から、私は空き納屋の一角を借りた。


 火床の近くに石を積み、土を塗り、乾いた藁で囲いを作る。抱卵箱の底へ、熱を逃しにくい黒石を入れる。マルタ婆が古い毛布を出してくれた。ヨナスは半信半疑のまま板を運んだ。


 「王都のお嬢様が、こんなことまで」


 「王都のお嬢様だから、こんなことをしていたんです」


 「意味が分からん」


 「向こうでは分からなくて当然でした」


 言ってから、少しだけ自分で可笑しくなった。


 王都では意味がないと言われた作業が、ここでは最初から意味しかない。


 卵の向きを変える。熱の偏りを均す。弱い雛には砕いた穀粒へ湯を混ぜて飲ませる。夜は私自身の掌で保温を補う。村の子どもたちは最初、遠巻きに見ていたが、そのうち一人、二人と近づいてきた。


 「本当に孵るの?」


 「孵ります。あなたたちが箱を揺らさなければ」


 「名前つけてもいい?」


 「孵ってからなら」


 笑いながら答えると、子どもたちは目を丸くした。たぶん、追放された悪役令嬢はもっと刺々しいものだと思っていたのだろう。こちらとしては、知らない噂へ付き合う気はなかった。


 五日後、一つ目の卵が孵った。


 小さな嘴が殻を割り、湿った雛が顔を出したとき、納屋の中にいた全員が息を止めた。次にマルタ婆が、ふん、と鼻を鳴らす。


 「生きたね」


 「ええ」


 「次は?」


 「明日の朝です」


 ヨナスは信じられないものを見るように雛を見ていた。


 「温度だけでそこまで分かるのか」


 「温度だけではありません。殻の薄さ、呼吸の動き、抱き癖、湿り具合」


 「……全部見てるんだな」


 「そういうスキルです」


 その日から、村の態度が少し変わった。


 飼料の配分を相談される。どの雌鳥を抱卵へ回すべきか聞かれる。弱い雛をどう分けるか相談される。私は一つひとつ答えた。ただ答えるだけでなく、なぜそうするのかも伝えた。


 「私がいなくても回るように覚えてください」


 そう言うと、ヨナスは怪訝そうな顔をする。


 「いなくなる気か」


 「追放者ですから」


 「王都へ戻りたいのか」


 私は少し考えてから首を横に振った。


 「戻りたい場所ではありません」


 それは初めて、王都への気持ちを言葉にした瞬間だったかもしれない。


 そこからの一月は、働きづめだった。


 卵はただ孵せば終わりではない。孵化の時期をずらしすぎれば飼料が足りず、一度に集めすぎれば世話の手が足りない。成長の早い群れと遅い群れを分け、卵として食べる分と親鳥に回す分を決め、羽毛を集め、糞を畑へ回す。私は村人たちと小さな表を書き、誰がどの箱を管理するかまで決めた。


 王都では誰も聞かなかった話を、ここでは全員が必要としていた。


 「エレノア、この線は何だ」


 ある日、ヨナスが木板に書いた表を指差す。


 「保温当番です」


 「夜中も?」


 「夜中こそ必要です。温度が落ちるので」


 「お前一人で見れば早いだろ」


 その言葉に、私はすぐ返した。


 「私一人で見たら、私が倒れた日に全部終わります」


 言ってから、ふと、王都でそうしなかった自分を思い出した。


 宮廷では、私一人で抱えていた。誰にも任せず、誰にも教えず、必要ないと言われるのが面倒で、最初から説明を諦めていた。


 ここでは違う。


 違わなければ、同じ失敗を繰り返すだけだ。


 「だから覚えて」


 私はヨナスへ板を押しつけた。


 「今夜はあなたの番です」


 彼は渋い顔をしたが、逃げなかった。


 その頑固さは嫌いではない。


 翌日から、私は納屋の壁へ大きな板を吊るした。卵の数、抱卵開始日、保温槽の石を替える刻限、雛へ与える餌の濃さ。誰が見ても分かるように、字の読めない者でも印で追えるように、線と記号を増やしていく。


 「そんな細かく残す必要があるのか」


 ヨナスが呆れ半分で聞く。


 「あります」


 私は即答した。


 「私の掌は貸せても、ずっと置いてはいけません。だから他の人の目と手で回せる形にします」


 マルタ婆が板の端を叩いた。


 「なるほどね。これなら子どもでも当番を覚えられる」


 「覚えた方がいいです。冬は誰が立っているかより、何が残っているかの方が大事なので」


 王都では、一度もそう言えなかった。言えば笑われると思っていたし、笑われる前に黙ってしまっていた。だからここでは最初から残す。残して、誰かが真似できる形にする。


 春の気配が近づくころ、村の鶏舎は見違えていた。成鳥の数が増え、卵の歩留まりが上がり、子どもたちは孵化日を数えるようになった。マルタ婆は羽毛を詰めた寝具を試作し、若い母親たちは卵を塩漬けにする保存法を覚えた。鶏だけではない。少数の山鳥も馴らして運搬に使えるか試す話まで出た。


 「村ひとつ、鳥で回す気かい」


 マルタ婆が呆れたように笑う。


 「回ります」


 「本気で言ってる」


 「本気です」


 私は保温槽の石を撫でた。


 「冬を越すには、食べる分だけじゃ足りません。次の春へ繋がる頭数も要ります」


 「領主みたいなことを言うね」


 「追放令嬢ですから」


 「そこは悪役令嬢じゃないのかい」


 私は少しだけ笑った。


 「その役は王都へ置いてきました」


 平穏が壊れたのは、吹雪の夜だった。


 四月だというのに北から強い寒波が降り、補給隊が峠で足止めされた。村へ届くはずの粉と塩が来ない。しかも古い鶏舎の一つが風で壊れ、抱卵中の雌鳥が散った。


 村じゅうが一気に慌ただしくなる。


 「雛が冷える!」


 「火床の薪が足りない!」


 「卵を運べ!」


 私は外套を掴み、吹き込む雪の中を走った。


 壊れた小屋の中には、割れた箱、散った藁、鳴き声。抱卵が途切れた卵は、このままでは朝まで持たない。


 「ヨナス! 保温槽を全部開けて! マルタ婆、子どもと老人を納屋へ入れないで、火床だけ守って! 殻の薄い卵からこっちへ!」


 言いながら手を動かす。


 卵を両腕へ抱え、黒石の上へ並べる。熱を逃がさない順に箱を重ねる。弱い雛は布で包み、胸元へ入れる。村の女たちも男たちも、もう命令の意味をいちいち問わなかった。私が説明した手順を覚えていたからだ。


 「三番箱の熱が落ちる!」


 「石を替えて!」


 「この雛、呼吸が弱い!」


 「湯を一滴、嘴の端へ!」


 吹雪の唸りの中、納屋の熱だけが濃くなる。


 そのとき私は、自分の掌の感覚が一段深く冴えるのを感じた。卵ごとの薄い熱が、ただの温度ではなく、まだ残る時間として読める。どれが朝までもつか、どれを先に救うべきか、迷わなくなった。


 「この五つを中央へ! 他は外側! 雌鳥は今は使わない、人の熱で支える!」


 誰かが驚いたように息を呑んだ。


 「人で?」


 「今夜だけです! 明け方に戻す!」


 私は床へ座り込み、布と毛皮で囲いを作って卵を抱いた。子どもの一人が真似をする。マルタ婆が叱りつける前に、私は頷いた。


 「その子はそっちの三つを」


 「分かった!」


 夜は長かった。


 風が壁を打ち、火は何度も弱まり、湯はすぐ冷えた。それでも誰も持ち場を離れなかった。ヨナスは半ば凍えながら石を運び続け、マルタ婆は布を絞り、女たちは順番に卵を抱き、男たちは折れた柵を仮留めした。


 朝、吹雪が少しだけ緩んだ頃。


 一つ目の卵が内側から鳴いた。


 かすかな、しかし確かな音だった。


 「……生きてる」


 誰かが呟く。


 殻が割れ、濡れた嘴がのぞく。続いてもう一つ、もう一つ。納屋の空気が、張り詰めたものから別の震えへ変わっていく。


 私はその場でへたり込みそうになるのをこらえた。


 「雛を乾いた箱へ。弱い子から順に」


 声はまだ出る。手もまだ動く。


 その朝、村で落ちた卵は半分以下だった。例年なら全滅していただろうと、マルタ婆があとで教えてくれた。


 補給隊が峠を越えて着いたのは二日後。その荷には、驚いたことに王都からの使者も混ざっていた。


 王太子の紋章をつけた外套。見覚えのある侍従。私は納屋の前で雛箱を乾かしていた手を止めた。


 「エレノア様」


 侍従が、以前よりずっと低い声で頭を下げる。


 「王都へお戻りください。殿下は、あなたのスキルの有用性を再評価なさると」


 私は乾いた藁を払い落とした。


 その後ろにはアルドリック本人までいた。豪奢な毛皮をまとい、雪へ足を取られるのを気にしている顔で、けれど私を見る目には焦りが混じっている。


 「……村ひとつ、鳥で支えたと聞いた」


 「支えたのは村の人たちです」


 「君の力で」


 「君ではなく、エレノアです」


 横からヨナスが言った。


 王太子が眉をひそめる。


 「誰だ」


 「この村の人間です」


 王都ではありえない返答だ。だがここでは、それで十分だった。


 アルドリックは私へ一歩近づいた。


 「王都には新しい保護舎計画が必要だ。君が戻れば、適切な地位を」


 そこで私は、ふと可笑しくなった。


 必要なのは地位ではなく、意味だったはずだ。意味が見えなかったから、彼らは切った。今さら地位を吊るしても、見えなかった目はそのままだろう。


 「殿下」


 私は納屋の後ろを振り返った。


 そこには新しく組んだ保温槽が三つ並び、子どもたちが箱へ餌皿を置き、マルタ婆が羽毛袋を縫い、ヨナスが成鳥数の板書きを直している。


 「ここは、私がいなくても回るように作っています」


 それから王太子へ向き直った。


 「王都では、そうできませんでした」


 彼は言葉を失ったように見えた。


 「なら、今からでも」


 「いいえ」


 私ははっきり言った。


 「今からでも必要なのは、私が戻ることではありません。価値を笑わないことです」


 風が吹き、外套の裾が揺れる。


 アルドリックはしばらく黙り、ようやく低く問うた。


 「戻らないのか」


 「戻りません」


 その返事は驚くほど軽かった。


 王都で背負っていた悪役令嬢という役も、役立たずという烙印も、この村の雪と藁の前ではもう薄かった。


 「私はここで群れを増やします」


 「群れを」


 「卵も、鳥も、人手もです。春の終わりには、隣村へ雛を分けます。秋には羽毛と塩卵を回せる。冬の前には山道用の運搬鳥も育てる」


 ヨナスが小さく笑う。


 「もう次の年の話か」


 「当たり前でしょう」


 私は言った。


 「暮らしは来年まで含めて暮らしです」


 王太子は、そこでようやく自分が遅れたのだと理解した顔をした。けれどそれは、私が待つべき理由にはならない。


 侍従が困ったように主人を見る。アルドリックは最後に一度、納屋と群れと、私の手元の雛箱を見てから、何も言い返せずに踵を返した。


 去っていく馬車の轍を見送りながら、私は少しだけ肩の力を抜く。


 「後悔してるかい」


 マルタ婆が横へ並ぶ。


 「何をですか」


 「王都に戻らないことを」


 私は首を横に振った。


 「いいえ。あちらでは、卵はただの飾りにも笑い話にもなりました。でもここでは、朝になる」


 マルタ婆はふん、と鼻を鳴らし、それから珍しく優しい顔をした。


 「じゃあ残りな」


 「ええ」


 「村長の寝床の隣、空いてる小屋がある。春のうちに直せば住める」


 「借りるだけですか」


 私が聞くと、ヨナスが板を抱えたまま近づいてきた。


 「借りるんじゃない」


 「では?」


 彼は少し言いにくそうに視線を逸らし、それでも言った。


 「お前が図面を引いて、皆で直す。鶏舎も納屋も、お前の保温槽も置けるようにする」


 「つまり」


 「住め、ってことだ」


 私はその言葉をすぐには飲み込めなかった。


 王都では、私に与えられるものはいつも誰かの気まぐれだった。婚約者の機嫌、宮廷の価値観、流行りの才能。けれど今ここで差し出された場所は、違う。私の手で作った熱と群れと数字が積み上がった先にある。


 雛箱の中で、小さな鳴き声がした。


 私は笑ってしまう。


 「なら、まず床下を高くしてください」


 「いきなり注文か」


 「雪が吹き込むので」


 「分かったよ」


 ヨナスが苦笑する。マルタ婆も、周りの村人たちも笑った。


 その笑いは、王都で聞いていたものと全然違った。


 春が来れば、卵はもっと増えるだろう。


 群れも、羽毛も、糞も、畑も、道も、少しずつ繋がる。ここでは一つの卵が、ただの一つで終わらない。


 私は胸の前で手を開いた。


 かつて王都の北門で守った薄茶色の卵は、もう立派な若鳥になって、納屋の隅を忙しなく走っている。


 役立たずだと言われた手で、私はその背をそっと撫でた。


 「さあ」


 誰に言うでもなく呟く。


 「次を孵しましょう」


 雪解け水の音が、村の外れで静かに鳴り始めていた。

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