裏通路のひと
十一月の昼過ぎ、店の排水が詰まった。
受付の女が業者に電話をかけ、三十分後に男が来る。紺の作業服。くたびれた工具箱。ロゴのステッカーが半分剥がれかけている。ヘルメットを脱いで、受付に軽く頭を下げる。短い言葉で状況を確認して、それだけで動き始める。
男は無駄なことを言わない。床にシートを敷いて、工具を並べて、それだけに集中する。ときおり低い金属音が響くが、それ以外は静かなものだ。受付の女が「何かあれば声かけてください」と言っても、「はい」とだけ返す。愛想がないわけでもない。ただ、言葉が少ない。
配管の詰まりはひどくなかった。一時間もかからず、男は片づけを始める。使った道具を一本一本拭いて、工具箱に戻す。シートを丁寧に畳む。来たときよりも床が綺麗になっていた。
女が裏通路を通ったのは、そのときのことだった。
シフト前の準備を終えて、ロッカーから出てきたところだった。狭い廊下で、男と正面から向き合う形になる。男は工具箱を持っていた。帰り際だったのだろう。
「すみません」
男が先に言う。壁に寄って、道を開ける。
女は少し笑って通り過ぎる。
それだけのことだった。
廊下を歩きながら、女はもう男のことを考えていなかった。今夜の客のことを頭の片隅で整理しながら、仕事の顔に切り替えていた。
男はその背中を、三秒ほど見ていた。
男の名前は佐伯といった。
三十二歳。水道設備の下請け会社に勤めて、八年になる。現場は毎日違う。マンションの改修工事、飲食店の配管、戸建ての水回り。一日中、狭い場所に潜ったり、重いものを運んだりして、夜には体が重くなる。
給料は安かった。手取りで十九万いくかいかないか。東京で暮らすには、ぎりぎりの金額だった。
アパートは駅から二十分歩く場所にある。六畳一間。風呂は追い焚きなし。冬は足元から冷える。それでも家賃が五万を切っていたから、ここに決めた。もう四年、同じ部屋に住んでいる。
食事は簡素だった。朝はコーヒーだけ。昼は現場近くのコンビニでパンを一個買う。百二十円か百三十円のやつ。夜はカップ麺か、安いスーパーの惣菜。たまに自炊もするが、疲れているとそれも面倒になる。
友人は少ない。現場の同僚とは話すが、仕事を離れると連絡は取らない。誰かと飲みに行く習慣もない。休日は部屋で過ごすか、近所を散歩するかだった。
女と付き合ったのは、二十代の半ばが最後だった。三ヶ月で終わった。男が不器用すぎると言われた。連絡が少ない、何を考えているかわからない、一緒にいても楽しくないと言われた。反論できなかった。
そういう人間だと思っていた。
裏通路で女とすれ違った夜、男はアパートに帰ってカップ麺を食べた。テレビをつけたが、何も見ていなかった。
あの笑顔が、頭から離れなかった。
二週間後、男は店の前に来た。
入るまでに、十分かかった。
近くのコンビニで缶コーヒーを買って、飲み終わっても動けなかった。こういう店に来たことがなかった。いや、正確には一度だけあった。二十代のころ、同僚に半ば引っ張られるように入ったことがある。それきりだった。
自分には縁のない場所だと思っていた。
でもあの笑顔が頭から離れなかった。
意を決して入る。受付の女性が声をかけてくる。男は緊張した様子で名前を告げ、指名するか訊かれて、少し間があってから、女の源氏名を言う。カウンターに貼ってあるプロフィールで確認した名前だった。声が少し小さかった。
案内された部屋で待っていると、ドアが開く。
女が入ってくる。
男は一瞬、動きを止める。
裏通路の女だった。
「はじめまして」と女は言う。仕事の声だった。明るくて、柔らかくて、どこにも引っかかりのない声。笑顔も同じで、きれいに整っていて、何も読み取れない。
男は何も言えなかった。
どう説明すればいいのか、言葉が見つからない。いや、言葉があったとしても、きっと言えなかった。あの日の裏通路のことを話したところで、何になるのか。気持ちの悪い客だと思われるだけかもしれない。
「はじめまして」と男も言う。
女は気づいていなかった。
その夜、女は明るく話しかけてきた。仕事のことを少し訊かれて、設備関係です、とだけ答えた。女はそれ以上は掘り下げなかった。代わりに、自分が最近読んだ本の話をした。男はあまり本を読まないと言うと、じゃあ映画は、と訊いてきた。
話すのが上手い人だと思った。
男が帰り際に、また来てもいいですか、と訊いた。我ながら情けない聞き方だと思ったが、他に言いようがなかった。
「もちろんですよ」と女は言った。
仕事の答えだとわかっていた。それでも男は、少し救われた気がした。
男は月に二度、店に来るようになる。
給料日の翌週と、月末。それが男のペースだった。
昼飯はコンビニのパンにする。百二十円のやつを一個。コーヒーはなし。夜はカップ麺。休日に外へ出るのをやめる。服も買わない。去年の冬物をまた引っ張り出して、ほつれた袖口は自分で縫う。現場で使い捨てにしていた手袋も、洗って干してまた使う。
それだけで、月に一度余分に行けるようになった。
同僚に飲みに誘われても断るようになった。理由は聞かれなかった。もともと口数が少ない男だったから、断っても誰も深く気にしない。
女の前では、男は普通の会社員のように振る舞う。嘘はつかなかった。ただ、何の仕事をしているかを訊かれたとき、「設備関係です」とだけ答える。それ以上は言わない。スーツで来ていた。二着しか持っていなかったが、きちんとアイロンをかけて、ネクタイも締めた。靴は磨いた。それが男なりの、精一杯だった。
女はよく覚えていた。
先週話した近所の定食屋のこと。通勤路に咲いていたと言っていた金木犀のこと。男が好きだと言っていた古い映画のこと。
次に来たとき、さりげなく話題に出す。
男はそのたびに少し驚く。覚えていてくれたのか、という顔をする。それは仕事で身につけたものかもしれないと頭のどこかでわかっていても、その顔をしてしまうのを止められない。
女にはそれが、少し苦しかった。
こんな顔をする人が、他にあまりいない。
男が通い始めて二ヶ月が過ぎた頃、女は気づき始めていた。
この人は、他の客と何かが違う。
何が違うのか、うまく言えなかった。馴れ馴れしくない。かといって他人行儀でもない。品定めするような視線がない。どこか遠慮がちで、それでいて話すときは真剣に聞いている。
女の話を、本当に聞いている。
この仕事を長くやっていると、客が話を聞いているふりをしているのか、本当に聞いているのかが、なんとなくわかってくる。目の動きや、相槌のタイミングや、次の言葉を探している間の沈黙の質。
この男はちゃんと聞いていた。
だから女も、少しずつ本当のことを話すようになっていた。仕事の愚痴ではなく。客に言う台詞でもなく。ただ自分が思っていること。最近疲れていること。子供のころ犬を飼いたかったこと。
男はそういう話を、静かに聞いた。
何かコメントをするわけでも、アドバイスをするわけでもなかった。ただ聞いた。でもそれがよかった。余計なことを言わない人だと思った。
ある夜、女が「あなた、変わってますね」と言った。
「そうですか」と男は言った。
「褒めてます」
男は少し間を置いてから、「ありがとうございます」と言った。照れているのか、戸惑っているのか、その表情はよくわからなかった。でも耳が少し赤かった。
女はそれを見て、笑った。仕事の笑顔ではなかった。
通い始めて三ヶ月が過ぎた頃、二人の間に、ゆっくりと何かが積み重なっていった。
男の手は大きかった。現場仕事で荒れた、節くれだった手。女の手に触れるとき、その手はいつも少し遠慮がちだった。壊れ物を扱うように、丁寧だった。
「手、冷たいですね」
ある夜、男が言う。
「冬だから」
「温めましょうか」
そう言って男は女の手を両手で包む。それだけのことなのに、女は少し黙った。
乱暴な客も、馴れ馴れしい客も、いくらでもいた。でもこの男の触れ方は違う。何かを主張しない。ただそこにいる。その重さと温度だけがある。
「上手いですね」と女は言う。仕事の言葉のつもりだった。
「何がですか」
「こういうの」
男は少し考えてから、首を振る。
「上手くないです。ただ、大事にしたいと思ってるだけです」
女はその言葉を、笑って流した。でも流しきれなかった。
部屋を出てから、廊下でしばらく立ち止まった。胸のあたりに、何か小さくて温かいものが残っている気がした。それが消えるまで、次の部屋に入れなかった。
春になってから、男は女の首筋に口づけをしながら、ぽつりと言った。
「きれいだ」
お世辞ではなかった。そういう言い方じゃなかった。独り言みたいな、自分でも気づかずに漏れてしまったような声だった。
女はその言葉に、返事ができなかった。
きれいと言われることには慣れていた。仕事柄、毎晩のように言われる。でも全部、鏡の表面を撫でるような言葉だった。どこにも届かない。
男の「きれいだ」は違った。
どこに届いたのかわからないけれど、どこかに刺さった。
「そういうこと、あんまり言わない人かと思ってた」
「言えないだけです、普通は」
「じゃあなんで今」
男は少し黙った。
「なんででしょうね」
答えになっていなかった。でも女は、それ以上訊かなかった。
その夜、男が帰ったあと、女は鏡の前で自分の首筋を見た。何も残っていない。当然だった。それでも、しばらく見ていた。
女はこの頃から、男が来る日を、指折り数えるようになっていた。
男の日常は、変わらなかった。
朝、五時半に起きる。現場の集合が七時のことが多いから、六時前には家を出る。電車で四十分。現場につくと、先輩や同僚と簡単に打ち合わせをして、すぐ作業に入る。
冬の現場は寒い。外の工事なら風が刺さる。建物の中でも、古い配管の奥は冷気が溜まっている。手袋をしても指先が痛くなることがある。それでも丁寧にやらないといけない。雑にやると後で必ず問題が出る。
昼は近くのコンビニでパンを買う。公園のベンチか、現場の隅で食べる。十五分で終わる。
夜、アパートに帰ると体が重い。風呂に入って、カップ麺を食べて、横になる。テレビをつけることもあるが、たいてい途中で眠ってしまう。
それが男の一日だった。
給料日になると、男は封筒に入れた現金を引き出しの奥にしまう。生活費と、残りと。残りは、次に店に行くための金だった。
封筒を引き出しに戻すとき、男は少しだけ女のことを考えた。
次は何を話そうか。
そんなことを考えるのは、何年ぶりだろうと思った。
五月のある夜、男が来たとき、女は少し疲れた顔をしていた。
隠しているつもりなのだろうが、男にはわかった。目の端が、いつもより重い。笑顔は変わらないが、笑うまでの一瞬が、かすかに遅い。
「今日、疲れてますか」
男が訊いた。
女は少し目を丸くした。
「わかります?」
「なんとなく」
「隠してたんですけど」と女は言って、それから少し笑った。今度は仕事の笑顔じゃなかった。「ごめんなさい、ちょっと嫌なことがあって」
「話せますか」
「聞いてくれるんですか」
「聞きたいです」
女はしばらく黙っていた。それから、ぽつぽつと話し始めた。常連客のことだった。最近態度が変わってきた客がいる。最初は普通だったのに、だんだん馴れ馴れしくなってきた。仕事の外で会いたいと言われた。断ったら機嫌が悪くなった。
男は黙って聞いた。
「怖いですか」と男が訊いた。
「少し」と女は言った。
男はそれ以上何も言わなかった。アドバイスも、励ましも、何もしなかった。ただ、女の手の上に自分の手を置いた。
女はその手を、しばらく見ていた。
「ありがとう」と女は言った。
男は何も言わなかった。それでよかった。
その夜、女は男が帰ってから、ロッカールームの鏡を見た。自分が今、何を感じているのかを、確認するように。
仕事とそうでないものの境目が、はっきりしなくなっていた。
夏になっても、男は来続けた。
現場は暑くなった。炎天下の工事は体に堪える。帰りの電車で眠ってしまい、乗り過ごしたこともあった。
それでも男は節約を続けた。
昼飯のパンは一個。夜はカップ麺。休日は出かけない。
同僚が「最近、何かあったのか」と訊いてきたことがある。「何もないです」と男は答えた。嘘ではなかった。何かがあるわけではない。ただ、行きたい場所ができただけだった。
女との会話は、季節を重ねるごとに変わっていった。
最初の頃は女が一方的に話すことが多かった。男は聞く側だった。でも少しずつ、男も話すようになっていた。
現場で見た夕焼けのこと。配管の奥で見つけた古いコインのこと。子供のころ川で釣りをしていたこと。
「楽しそうですね、子供のころ」と女は言った。
「普通だったと思います」
「でも目が違う。昔のこと話すとき、ちょっと柔らかくなる」
男は自分では気づいていなかった。
「そうですか」
「そういうとこ、好きです」
女は言ってから、少し間を置いた。仕事の言葉のつもりで言ったのか、そうでなかったのか、自分でもわからなかった。
男は何も言わなかった。でも少し、うつむいた。
冬になってから、店の浴室の給湯器が不調になる。
別の業者が来た。女は廊下から、開いたままのドアごしに作業を眺めていた。手持ち無沙汰な、ただの時間つぶしだった。
業者が工具箱を床に置く。
金属の箱。側面に貼られた会社のステッカー。
女はそれを見た瞬間、何かが引っかかった。
見たことがある。
どこで。
同じ形。同じ質感。剥がれかけたステッカーの、あの感じ。
業者が工具を取り出す音を聞きながら、女は記憶をたぐった。
裏通路。
狭い廊下。
作業服の男。
くたびれた、金属の工具箱。ロゴのステッカーが半分剥がれかけていた。
「すみません」
壁に寄って、道を開けた、あの男。
女は廊下の壁に、そっともたれた。
浴室から聞こえる金属音が、遠くなる気がした。
古いスーツを着ていた、といつも思い返せる。
よく見れば、いつも同じ二着を着回していた。少し擦り切れた革靴。どこかで安く買ったような腕時計。それでも清潔で、きちんとしていた。だから気にしていなかった、というより、気にしないようにしていた。客のことを詮索するのは仕事のやり方ではない。
設備関係、と彼は言っていた。
水道屋だ。
女はロッカーへ向かう足を止め、廊下の窓から外を見る。十二月の午後の光が、駐車場のアスファルトに薄く伸びている。
男が来るたびに、女は部屋で笑っていた。話を聞いていた。楽しいと思っていた。仕事とそうでないものの境目が、いつからかぼんやりしていた。
その大事にする手つきのために、男は昼飯を削っていたのかもしれない。
あの独り言みたいな「きれいだ」のために、服を買うのを我慢していたのかもしれない。
飲みに行くのを断っていたのかもしれない。
夏に言った「そういうとこ、好きです」という言葉を、男はどう受け取ったのだろう。
仕事の言葉だと思っていたのだろうか。それとも。
女はしばらくの間、廊下に立ったままでいた。窓の外で、枯れ葉が一枚、風に持ち上げられてから落ちた。
もし自分が何も知らなかったら、と思った。
何も知らなければ、この関係はもう少し続いたのかもしれない。
でも知ってしまった。
次の来店は、三日後だった。
男がいつもの部屋に入ってくると、女は立ったまま迎える。座るよう勧めない。いつもと何かが違うと男も気づくはずで、実際に男の目が少し細くなった。
「ねえ、正直に言っていい」
「……どうぞ」
「あなた、こういう店向いてないと思う」
部屋に沈黙が落ちる。暖房の音だけが低く続いている。
「どういう意味ですか」
「来ない方がいい。お金ないなら特に」
男の顔が変わった。怒っているわけではない。何かを探るように、静かに女を見ている。
「必死すぎて、怖い」
女は目を逸らさなかった。声を平坦に保つ。笑顔も、柔らかさも、今夜は全部しまっておく。長年の仕事で身につけた、感情を乗せない話し方。本当に伝えたいことがあるときほど、それを使う必要がある。
男はしばらく黙っていた。
女が何を知っているのか、気づいているのか、わかったのかもしれない。あるいはわからなかったのかもしれない。男の表情からは何も読めなかった。
それから、静かに言う。
「そうですか」
立ち上がって、ドアへ向かう。振り返らない。
ドアが閉まる。
廊下を歩く足音が、少しずつ遠くなっていく。
女は音が完全に消えるまで、動かずにいた。
男は思った。
嫌われた、と思った。
何か気に障ることをしたのか、何度か考えた。思い当たることはない。向いていない、という言葉が頭に残る。必死すぎて怖い、という言葉も。
そうかもしれない、と思う。
場違いだったのだろう。最初からわかっていたことを、ただ認めなかっただけだ。
男は節約していた分を、少しずつ口座に戻し始める。特に使い道はない。昼にパンを一個だけ買う習慣だけは、なぜかしばらく続いた。変える理由もないし、変える気力もない。
現場から帰ってカップ麺を食べて、横になる。
テレビをつけても、何も見ていない。
次に何を話そうか、と考える癖だけが残っていた。話す相手がいないのに、それだけが残っていた。
十二月が終わり、年が明けても、男は店に近づかなかった。
封筒は引き出しの奥にある。使い道のなくなった金が、そこにある。
男が帰ったあと、女は更衣室に入る。
鍵をかけて、床に座る。背中を扉に預けて、膝を抱える。
泣くつもりはなかった。正確に言えば、泣く理由がどこにあるのかよくわからなかった。自分が追い払ったのだ。それが正しいことだと思ってやった。彼のためを思ってやった。
あの手の温度を、もう感じることはない。
あの独り言みたいな「きれいだ」を、もう聞くことはない。
疲れたとき、何も言わずに手を置いてくれた、あの重さも。
涙が出た。
止める気にもなれなかった。
「ばか」
小さく、声に出す。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。彼のことかもしれない。自分のことかもしれない。どちらでもよかった。
しばらくして、女は立ち上がる。鏡の前で顔を直す。仕事はまだ終わっていない。
廊下に出ると、受付の女性がいた。
「大丈夫ですか」と訊かれた。
「大丈夫です」と答えた。
それだけのやり取りだった。
数週間後、浴室の給湯器がまた止まった。
受付から内線が入ったとき、女はロッカールームにいる。
水道屋が来た、と言われた。
女は少しだけ、息を止める。
急ぐでもなく、ゆっくり廊下へ出る。浴室のドアが開いている。中から工具の音がする。
作業服の背中が見える。
体格が違った。
確かめる必要もない。
女は元来た方向へ戻る。ロッカールームのドアをそっと閉める。
壁に背中をつけて、少しの間、立っていた。
廊下には静寂が戻り、浴室からだけ、工具の音が聞こえてくる。金属がタイルに触れる、乾いた音。規則的で、無関心で、誰のことも気にしない音。
春になっても、夏になっても、男は来なかった。
女は少しずつ、男の声を忘れていった。手の温度を忘れていった。でも最後まで忘れられないものが、一つあった。
壁に寄って、道を開けた、あの「すみません」だけが。
ずっと残った。
彼は、もう来なかった。




