第4話 大きな失敗と、夜の涙
午前中のオフィスは、いつもより少しだけ慌ただしかった。
月初の処理が重なり、経理課には、ひっきりなしに電話とメールが届いている。
茜は、画面に並ぶ数字と書類を何度も見比べながら、慎重に入力を進めていた。
――大丈夫。落ち着いて。
自分にそう言い聞かせながら、指先を動かす。
けれど、ほんの一瞬の気の緩みが、思いもよらない形で表れた。
「……え?」
上司の声に呼ばれ、差し出された書類を見た瞬間、茜の指先が、わずかに震えた。
月次決算の集計表。
その中で、取引先への振込額が、別の部署の経費として処理されている。
しかも、それは――すでに送金処理が完了したあとだった。
頭の中で、血の気が一気に引いていく。
「……私、ですか」
震える声でそう尋ねると、上司は静かにうなずいた。
「入力と最終確認、両方、君の名前になってる」
視界が、ぐらりと揺れた。
金額は大きく、すぐに訂正と再処理が必要になる。
社内調整、取引先への連絡、謝罪、再送金――
すべてに、時間と手間がかかる。
「……すみません」
喉の奥が締めつけられ、声がうまく出なかった。
何度も確認したはずだった。
入力も、チェックも、慎重にやったはずだった。
それでも、間違えた。
誰かの手を煩わせ、
会社に迷惑をかけ、
取引先にも、不安を与えた。
「大きなトラブルにならなくてよかった。今回はフォローするから」
そう言われても、胸の奥の重さは、少しも和らがない。
――取り返しのつかないことをした。
その思いだけが、頭の中を支配していた。
仕事を終え、会社を出たときには、すでに外は暗くなっていた。
足取りは、いつもより重い。
駅までの道が、やけに遠く感じられた。
電車の窓に映る自分の顔は、ひどく疲れて見えた。
――ちゃんと、笑えてない。
その事実が、胸に突き刺さる。
部屋に帰り着くと、明かりもつけずに、玄関に座り込んだ。
バッグを床に置いたまま、しばらく、動けなかった。
喉の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
視界が、滲んでいく。
「……なんで、こんなこと」
小さくつぶやいた瞬間、こらえていたものが、一気に溢れ出した。
頬を伝う、あたたかな雫。
声を殺して、泣いた。
誰かに見せる涙ではない。
自分だけの、弱さ。
しばらくして、ようやく立ち上がり、カーテンを少しだけ開ける。
窓の外には、夜の街の灯りが、静かに瞬いていた。
その光を見た瞬間、胸の奥に、ふっと、懐かしい感覚がよみがえる。
石畳。
やわらかな灯り。
鈴の音。
「……帰りたい」
無意識に、そう呟いていた。
どこへなのか。
なぜ、そんな言葉が浮かんだのか。
わからない。
ただ、その言葉と同時に、胸の奥が、ひどく切なくなった。
布団に倒れ込むと、涙の跡が残る頬に、夜風がそっと触れる。
目を閉じると、意識が、ゆっくりと沈んでいった。
その深い底で、
微かな灯りが、静かに、揺れているのを感じながら――。
(つづく)




