第2話 仕事終わりと、夜の灯り。
夕方、オフィスの窓から差し込む光が、少しずつ橙色に染まっていく。
パソコンの画面に並ぶ数字を確認しながら、茜はそっと息を吐いた。
「……よし」
最後の確認を終え、保存ボタンを押す。
今日の業務は、これで一区切りだった。
経理の仕事は、静かで、地味で、そしてとても神経を使う。
ひとつの数字のズレが、大きな混乱を生むこともあるから。
それでも、一日の終わりに「間違いはなかった」と確認できた瞬間、
胸の奥に、小さな達成感が生まれる。
デスクの上を整え、バッグを肩に掛ける。
「おつかれさま」
同僚の声に、小さく笑って返事をし、オフィスを後にした。
エレベーターを降り、ビルの外へ出ると、名古屋の街は、すっかり夜の表情になっていた。
ネオン。
車のライト。
行き交う人々の影。
昼間の喧騒とは違う、少しだけ落ち着いた空気が、街を包んでいる。
茜は、駅へ向かう人の流れからそっと外れ、路地に入った。
目当ての場所は、会社から少し歩いた先にある、小さなカフェ。
古い木造の建物を改装したその店は、派手さはないけれど、
夜になると、柔らかな灯りが、まるで道しるべのように灯る。
扉を開けると、コーヒーと焼き菓子の甘い香りが、ふわりと鼻先をくすぐった。
「いらっしゃいませ」
穏やかな声に迎えられ、いつものカウンター席に腰を下ろす。
「ブレンドと……今日は、チーズケーキもください」
それだけで、今日一日の緊張が、少しほどける気がした。
カップから立ちのぼる湯気を眺めながら、茜は、ゆっくりと息を整える。
店内には、静かなジャズが流れ、他の客も、それぞれの時間を過ごしている。
本を読む人。
ノートに何かを書き留める人。
窓の外をぼんやり眺める人。
誰も、誰かを急かさない。
そんな空間が、茜はとても好きだった。
フォークでチーズケーキをひと口運ぶ。
やさしい甘さと、少しの酸味が、舌の上で溶けていく。
「……おいしい」
思わず、声が漏れる。
その瞬間、胸の奥に、ふっと温かいものが広がった。
――こういう時間があるから、明日も頑張れる。
窓の外に目を向けると、夜の街が、静かにきらめいている。
不意に、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
理由は、わからない。
ただ、この光景が、どこか懐かしく感じられた。
高い場所から見下ろす街の灯り。
遠くで響く、かすかな鈴の音。
――また、あの景色。
最近、時々、そんな感覚に包まれる。
夢だったのか、現実だったのか。
それすら、はっきりしない。
けれど、確かに胸に残っている、あの光と、あの空気。
茜は、そっと目を閉じた。
まぶたの裏に浮かぶのは、石畳と、やわらかな灯り。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
なぜ、こんなにも懐かしいのか。
なぜ、安心するのか。
答えは、まだ、見つからない。
会計を済ませ、店を出る。
夜風が、頬を優しく撫でる。
見上げた空には、薄い雲の向こうに、いくつかの星が瞬いていた。
帰り道、茜は、ゆっくりと歩いた。
今日の疲れと、静かな満足感と、
そして、名前のない違和感を胸に抱えながら。
この夜が、
やがて大きな変化へと繋がっていくことを、
まだ、彼女は知らない。
(つづく)




