第30話 心が帰る場所
朝の光で、目が覚める。
特別な日ではない。
予定も、いつも通り。
それでも、胸の奥に、やわらかな安心感が広がっていた。
ベッドから起き上がり、
カーテンを開ける。
窓の外に広がる街は、
変わらない朝を迎えている。
車の音。
遠くの話し声。
電車の走る気配。
そのすべてが、
今の自分の居場所だと、はっきり感じられた。
キッチンでコーヒーを淹れ、
湯気の立ちのぼる様子を、ぼんやり眺める。
何も考えていないのに、
心が、静かに整っていく。
ふと、思う。
以前は、
この感覚を取り戻すために、
どこか別の場所へ向かっていた。
石畳のある街。
やわらかな灯りの夜。
並んで歩いた時間。
名古宵。
その名前を、胸の奥で、そっと思い出す。
懐かしさはある。
でも、寂しさはない。
あの街は、
もう外にはない。
けれど、
その灯りは、確かに、ここにある。
胸の奥に、手を当てる。
ゆっくりと呼吸をする。
それだけで、
名古宵にいたときと同じ、
あの安心感が広がる。
「……大丈夫」
小さく呟く。
それは、誰かに向けた言葉ではなく、
自分自身に向けたものだった。
支度を整え、外に出る。
朝の空気は、少し冷たい。
けれど、足取りは軽い。
歩きながら、街の灯りを見る。
ビルの窓に映る光。
街路灯のやわらかな明かり。
すれ違う人たちの気配。
そのすべてが、
どこか、名古宵の灯りと重なって見えた。
気づけば、
特別な場所に行かなくても、
心が帰れる場所を、
自分の中に持てるようになっていた。
仕事で疲れた日も、
少し気持ちが沈んだ日も、
目を閉じて、ゆっくり呼吸をすればいい。
そこに、やわらかな灯りが、ともる。
あの街で過ごした時間が、
確かに、自分を支えている。
名古宵は、なくなっていない。
ただ、
どこへ行く必要もなくなっただけ。
心が帰る場所は、
いつのまにか、
自分の内側にできていた。
空を見上げる。
ゆっくりと流れる雲を見ながら、
ふと、微笑む。
どんなに忙しくても、
どんなに迷っても、
心が帰れる場所は、
きっと、ここにある。
もう、私は知っている。
それだけで、
これからの毎日を、やさしく歩いていける気がした。
(おわり)




