第1話 朝の支度と、名古屋の街
目覚まし時計の音が、遠くで鳴っている。
――あ、もう朝なんだ。
篤羽 茜は、布団の中で小さく息を吐いた。
カーテンの隙間から差し込むやわらかな朝の光が、部屋の壁を淡く染めている。
名古屋の朝は、いつも少しだけ静かだ。
遠くから車の走る音が聞こえるけれど、まだ街は完全には目覚めていない。
スマートフォンを手に取り、時刻を確認する。
6時32分。
いつも通りの時間。
ベッドから起き上がり、カーテンを開けると、低層の住宅街の向こうに、薄く霞んだ空が広がっていた。
今日も、きっといい一日になる。
そんな確信はないけれど、そう思うことで、心がほんの少し整う。
洗面所で顔を洗い、歯を磨き、髪を整える。
黒くて少し長めの髪を、ゆっくりとブラシでとかす。
――この時間、けっこう好き。
朝の準備は、慌ただしいはずなのに、茜にとっては心を落ち着かせる大切なひとときだった。
キッチンでお湯を沸かし、ドリップコーヒーの香りを部屋いっぱいに広げる。
湯気と一緒に立ちのぼる、ほろ苦くてあたたかな香り。
それだけで、胸の奥が少しやわらぐ。
マグカップを両手で包みながら、小さく深呼吸する。
「……今日も、がんばろ」
誰に聞かせるでもない、小さな独り言。
経理の仕事は、決して華やかではない。
数字と向き合い、書類を確認し、ミスがないか何度も見直す。
それでも、茜はこの仕事が嫌いではなかった。
誰かの役に立っている、という実感が、ほんの少しだけ心を支えてくれるから。
コーヒーを飲み終え、軽く朝食を済ませると、支度を整えて家を出た。
マンションのエントランスを抜けると、ひんやりとした朝の空気が肌に触れる。
空を見上げると、雲の切れ間から淡い青がのぞいていた。
駅までの道を、ゆっくりと歩く。
通学中の学生、急ぎ足の会社員、犬の散歩をする人。
それぞれの一日が、同時に動き始めている。
名古屋駅に向かう電車に揺られながら、茜は窓の外をぼんやりと眺めていた。
高層ビルが連なる街並み。
ガラスに映る自分の顔。
――ちゃんと、笑えてる。
そう思うと、少し安心する。
けれど、その胸の奥には、言葉にできない小さな空白があった。
理由はわからない。
ただ、時々、どこか懐かしい場所を思い出しそうになる。
見たこともないはずの、石畳の道。
やわらかな灯り。
静かな夜の空気。
「……変なの」
首を振って、その感覚を追い払う。
夢の続き、だったのかもしれない。
電車はやがて、名古屋駅に到着した。
人の波に流されながら、改札を抜け、ビル群の中へと歩き出す。
今日もまた、現実の一日が始まる。
それでも、茜の心の奥では、まだ名前のない“何か”が、静かに息づいていた。
まるで、どこか別の世界が、そっと呼んでいるかのように――。
(つづく)




