第24話 選ぶ夜
その夜は、特別な出来事があったわけではなかった。
仕事を終え、家に帰り、
いつも通り、食事をして、
いつも通り、部屋の明かりを落とす。
それでも、胸の奥に、
ゆっくりと満ちていく感覚があった。
静かな、決意のようなもの。
窓の外には、現実の夜景が広がっている。
ビルの灯り、車の光、遠くの街の音。
そのすべてが、
今の自分の居場所だと、はっきり感じられる。
ベッドに腰を下ろし、目を閉じる。
深く息を吸う。
名古宵へ向かう感覚は、
もう、無意識ではなかった。
意識して、扉を開けるような感覚。
石畳の感触が、ゆっくりと戻ってくる。
目を開けると、
名古宵の夜が、静かに広がっていた。
灯りは、少ない。
けれど、澄んでいる。
まるで、この夜を待っていたかのように。
「来たね」
声がして、振り向く。
彼女は、少し離れた場所に立っていた。
その表情を見た瞬間、
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
もう、わかっている。
今日が、ただの夜ではないことを。
二人で並んで歩き出す。
言葉は、ほとんど交わさない。
石畳を踏む音だけが、静かに響く。
「ねえ」
やがて、彼女が口を開いた。
「ここに来る理由、もう変わってるよね」
うなずく。
以前は、
ここに来ないと、呼吸ができなかった。
今は、
会いに来ているだけ。
それは、
名古宵の役目が、終わりに近づいている証。
「……うん」
それを、否定しなかった。
彼女は、やさしく微笑む。
「それで、いいんだよ」
灯りの下で、二人は足を止める。
「名古宵は、あなたを守るための場所だった」
「でも、あなたは、もう自分で立てる」
胸の奥に、
あたたかいものが、ゆっくり広がる。
寂しさとは違う。
痛みとも違う。
静かな、納得。
「……私、どうすればいい?」
その問いは、
彼女に向けたものでもあり、
自分に向けたものでもあった。
彼女は、少しだけ考えてから言う。
「選んで」
短い言葉。
でも、その意味は、重い。
「ここに来続けるか、
ここを、自分の中に戻すか」
どちらも、間違いじゃない。
どちらも、正しい。
でも、同じ形では、続けられない。
私は、ゆっくりと、街を見渡した。
石畳。
灯り。
静かな夜。
何度も、ここに救われた。
何度も、ここで呼吸を取り戻した。
その記憶が、胸の奥に、しっかり残っている。
「……戻す」
自然と、言葉がこぼれた。
ここを、失うんじゃない。
ここを、自分の中に戻す。
彼女は、静かにうなずいた。
「うん。それが、いちばんきれい」
灯りが、
ふわりと、やわらかく揺れた。
名古宵は、消えない。
ただ、形を変えていく。
私は、
この街を、胸の奥へ、そっとしまい込むような感覚を覚えていた。
それは、別れじゃない。
帰る準備だった。
(つづく)




