第23話 静かな満ち
現実の毎日は、確実に形を変えていた。
新しい部署。
新しい席。
新しい呼び名。
周囲の人の目が、
「経理の人」ではなく、
「調整役の人」として向けられているのを感じる。
それは、悪い変化じゃない。
むしろ、
今まで積み重ねてきたものが、
別の形で生きている証だった。
それでも。
ふとした瞬間、
胸の奥に、静かな空白が生まれる。
以前なら、その空白は、
名古宵へ向かう扉になっていた。
けれど今は、
その空白に、別の感覚が満ち始めている。
自分で、自分を整えられる感覚。
深呼吸をすれば、
少しだけ心が軽くなる。
夜の窓の外を眺めるだけで、
穏やかさが戻ってくる。
名古宵に頼らなくても、
同じ場所に辿り着ける瞬間が、
少しずつ増えていた。
それが、嬉しいはずなのに、
どこか、寂しかった。
その夜、名古宵に辿り着いたとき、
街は、驚くほど澄んで見えた。
灯りは少ない。
けれど、一つひとつが、深く、静かに光っている。
「……きれい」
思わず、そう呟く。
「うん」
隣で、彼女が微笑む。
二人で並んで歩く石畳は、
以前よりも、広く感じられた。
「最近、あなたの心、落ち着いてるね」
彼女が、そう言う。
「そう、かな」
「うん。名古宵に来なくても、
呼吸できるようになってる」
その言葉に、胸が、少しだけ痛む。
「それって、いいことだよね」
そう言いながら、
自分でも、確信が持てない。
彼女は、やさしく頷いた。
「とても、いいこと」
「でも、少しだけ、寂しい」
同じ気持ちだった。
名古宵は、
必要だから来る場所から、
会いに来る場所へと、変わり始めている。
その違いが、
はっきりと、わかる。
灯りの下で、二人は足を止めた。
「ねえ」
彼女が、静かに言う。
「もし、来られなくなったら、どう思う?」
胸が、わずかに強く打つ。
想像したことは、何度もある。
けれど、口にしたことは、なかった。
「……寂しいと思う」
正直に、そう答える。
「でも」
言葉が、自然と続いた。
「きっと、大丈夫だとも思う」
彼女は、うなずく。
その表情は、
どこか安心したようにも見えた。
「それが、答えに近いんだよ」
灯りが、静かに揺れる。
名古宵は、
満ちる場所でもあり、
引いていく場所でもある。
潮の満ち引きのように、
必要なときに満ちて、
役目を終えると、静かに引いていく。
私は、
その流れの中にいる。
まだ、選ぶときじゃない。
けれど、
選ばなければならない夜が、
近づいていることだけは、
はっきりと感じていた。
石畳の感触を、
足の裏で、確かめる。
この感覚を、
忘れたくないと思った。
忘れないために、
もうすぐ、向き合わなければならない。
そんな予感が、
静かに、胸の奥を満たしていた。
(つづく)




