第20話 減っていく灯り
異動の内示は、思っていたよりも早く出た。
正式な辞令は来月。
それまでの数週間で、引き継ぎと準備を進める。
ただそれだけのはずなのに、
一日の密度が、急に変わった。
業務改善チームの説明資料。
新しい上司との顔合わせ。
求められる役割の確認。
今までの「経理としての自分」を終わらせながら、
同時に、「別の自分」を立ち上げていく。
切り替えなければならないことが、
想像以上に多かった。
帰宅時間は、自然と遅くなる。
「今日は、無理だな」
名古宵のことを考える前に、
そう判断する日が増えていった。
それは、諦めではなかった。
ただ、
現実に使う力が、確実に増えているだけ。
それでも、
夜、ベッドに横になると、
胸の奥に、わずかな空白が残る。
石畳の感触。
やわらかな灯り。
名古宵の空気。
思い出すだけで、
少しだけ、呼吸が楽になる。
けれど――
行けない。
そういう夜が、続いた。
数日ぶりに名古宵へ辿り着いたとき、
街は、相変わらず静かだった。
灯りは、消えていない。
石畳も、そこにある。
でも、
以前よりも、空間が広く感じられる。
人の気配が、少ない。
「……久しぶり」
そう声に出すと、
自分の声が、やけに響いた。
「うん」
名古宵のあっちゃんは、
少し先に立っていた。
相変わらず、同じ顔。
同じ声。
それでも、
雰囲気が、少し変わった気がする。
「最近、忙しそうだね」
責める調子じゃない。
確認するような声。
「……異動、決まった」
短く、そう伝える。
彼女は、一瞬だけ、目を伏せた。
「そう」
それ以上、何も言わない。
その沈黙が、
今までよりも、長く感じられた。
二人で歩く。
石畳の感触は、変わらない。
でも、歩く距離が、
確実に短くなっている。
「前より、来る回数、減ったね」
ぽつりと、彼女が言った。
否定できなかった。
「……うん」
「無理して来なくていいよ」
その言葉が、
やさしくて、
胸の奥を、きゅっと締めつける。
「名古宵は、義務じゃないから」
灯りの下で、
彼女は、静かに微笑んだ。
その笑顔は、
受け入れる人の顔だった。
「でも……」
言いかけて、言葉を止める。
ここで何を言っても、
事実は変わらない。
現実での立ち位置が変われば、
心の余白の形も、変わる。
それを、
彼女は、もう理解している。
「あなたが前に進むのは、
ちゃんとしたことだよ」
彼女は、続けた。
「ここに来られない日が増えても、
それは、悪いことじゃない」
「……それでも」
声が、少しだけ震えた。
「この街が、薄くなるのは……」
彼女は、首を振る。
「それも、間違いじゃない」
「名古宵は、
“変わらない場所”じゃないから」
灯りが、
ふっと、弱く揺れた。
私は、はっきりと感じていた。
彼女が、
少しずつ、覚悟を固めていることを。
私のために。
名古宵のために。
そして、
いつか来る別れのために。
名古宵から戻るとき、
振り返るのを、少しだけためらった。
振り返れば、
また、戻りたくなる。
でも、
今は、前を向かなければならない。
現実で、新しい役割が始まる。
それは、
名古宵から離れることと、
同じ意味を持ち始めていた。
減っていくのは、
灯りの数だけじゃない。
行き来できる時間。
心に残る余白。
それらすべてが、
静かに、形を変え始めていた。
この変化が、
何を連れてくるのか。
その答えは、
まだ、見えない。
ただひとつ確かなのは――
別れの輪郭が、
少しずつ、はっきりしてきている
ということだった。
(つづく)




