第19話 移ろう立ち位置
その話を切り出されたのは、
月曜の朝、始業前だった。
「少し、時間いいかな」
上司にそう声をかけられ、
茜は、小さくうなずいた。
向かった先は、会議室ではなく、
人の少ない応接スペースだった。
窓から差し込む光が、
やけに白く感じられる。
「急な話になるんだけどね」
前置きのあと、
上司は、静かに言葉を選ぶように続けた。
「近いうちに、異動してもらえないか、
という話が出ている」
――異動。
その二文字が、
思った以上に、胸の奥で重く響いた。
「経理としての仕事ぶりは、
ずっと評価されている」
「数字を見る力もそうだけど、
周囲との調整や、気配りの部分も含めてね」
上司は、
資料を一枚、差し出した。
そこには、
別部署の名前が記されている。
業務改善。
社内調整。
複数部署と関わる立場。
「新しく立ち上がるチームで、
全体を見られる人が必要なんだ」
「君なら、向いていると思う」
評価だということは、
頭では、理解できた。
けれど、
胸の奥に浮かんだのは、
喜びでも、誇らしさでもなかった。
「……少し、考えてもいいですか」
そう答えた声は、
自分でも驚くほど、静かだった。
「もちろん」
上司は、すぐにうなずいた。
「無理に、とは言わない。
でも、前向きに考えてもらえたら嬉しい」
その言葉が、
やさしいからこそ、
断りにくいことも、はっきりと伝えていた。
席に戻ると、
いつもの景色が、
少しだけ違って見えた。
慣れた机。
慣れた画面。
慣れた業務。
それらが、
すでに「過去」になりかけているような感覚。
――私は、ここに留まらない。
その事実が、
じわじわと、実感として広がっていく。
昼休み、
屋上に出て、空を見上げる。
雲の流れが、
ゆっくりと動いていた。
「……変わるんだ」
誰に言うでもなく、
そう呟く。
前に進む、という言葉が、
必ずしも、
自分の意思だけで決まるものじゃないことを、
改めて思い知る。
その夜、
名古宵に辿り着いたのは、
ほんの、短い時間だった。
街の灯りは、
相変わらず、やさしい。
けれど、
以前よりも、遠く感じる。
「……来られたんだね」
名古宵のあっちゃんが、
そう言って微笑む。
「うん」
それ以上、言葉が続かない。
「現実で、何かあった?」
問いかけは、
責めるものじゃなかった。
それが、
かえって、胸に刺さる。
「異動の話が、出て」
短く、そう伝える。
彼女は、
少しだけ目を伏せた。
「そう……」
その一言に、
多くの意味が込められているのを、
私は、感じ取ってしまった。
「それは、悪いことじゃないよ」
彼女は、静かに言う。
「あなたが、ちゃんと生きてきた証」
「……でも」
言葉が、詰まる。
現実で前に進むほど、
名古宵との距離が、
確実に、広がっていく。
それを、
もう、否定できなかった。
街の灯りが、
微かに揺れる。
石畳の感触が、
以前より、短く感じられる。
私は、はっきりと悟っていた。
これは、始まりじゃない。
変化が、現実になった瞬間だ。
名古宵は、
変わらず、そこにある。
けれど、
私の立ち位置は、
確実に、動き始めている。
その夜、
名古宵から戻るとき、
胸の奥に残ったのは、
静かな予感だった。
――もうすぐ、
何かを選ばなければならない。
そんな未来が、
確かに、近づいていた。
(つづく)




