第18話 このままでは、いられない
名古宵から戻った夜、
部屋の空気が、いつもより静かだった。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
窓の外を走る車の音が、遠くで反響する。
明かりをつけても、
心の奥に残る影は、消えなかった。
ソファに腰を下ろし、深く息を吸う。
肺の奥まで空気を入れても、
どこか満たされない。
――余白。
名古宵で聞いた言葉が、
胸の内側で、何度も波紋のように広がっていた。
現実の私は、確かに前に進んでいる。
仕事は増えた。
責任も増えた。
「任せていい人」として、
周囲の視線が変わってきているのも、感じている。
それは、嬉しいことのはずだった。
評価されること。
必要とされること。
社会の中で、自分の居場所を持つこと。
ずっと、望んできた未来。
それなのに――。
名古宵の灯りが揺れていた理由が、
今なら、はっきりとわかる。
余白が、減っている。
何も考えずに呼吸するための空間が、
現実の役割で、少しずつ埋め尽くされている。
「……両立は、できないんだ」
声に出した瞬間、
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
現実か、名古宵か。
そんな単純な話じゃない。
どちらも、私を生かしてくれた。
どちらも、欠けてはいけない場所だった。
それでも、
“今の形”を続けることが、
いちばん残酷なのだと、
気づいてしまった。
名古宵は、逃げ場じゃない。
でも、
疲れた心を預ける場所であるがゆえに、
無意識のうちに、頼りすぎてしまう。
逃げていないつもりでも、
逃げに近づいてしまう境界線が、そこにある。
私は、
その境界線の上に立っていた。
名古宵に行ける夜。
行けない夜。
どちらも、
以前とは意味が違う。
行ける夜は、
「戻ってしまった」ような感覚を伴い、
行けない夜は、
「失いかけている」ような不安を連れてくる。
どちらも、苦しい。
「……このままじゃ、だめだ」
誰に聞かせるでもなく、
そう呟いた。
何かを、変えなければならない。
けれど、
すぐに答えが出るほど、
簡単な問題じゃない。
現実を捨てるつもりはない。
名古宵を、
なかったことにする覚悟も、まだない。
それでも、
今の往復は、仮の形だ。
期限つきの、猶予期間。
その事実を受け入れたとき、
胸の奥に、静かな覚悟が芽生えた。
――選ぶ日が、来る。
それは、
突然、突きつけられるものじゃない。
今日でもない。
明日でもない。
けれど、
確実に、近づいている。
窓の外を見ると、
夜の街が、淡く光っている。
現実の灯り。
名古宵の灯りとは、違う色。
それでも、
どちらも、確かに、私の世界だった。
「……ちゃんと、向き合おう」
逃げずに。
誤魔化さずに。
名古宵がくれた安らぎを、
無駄にしないために。
そして、
現実を、生き続けるために。
私は、ようやく理解した。
選択とは、
どちらかを切り捨てることじゃない。
形を変えることなのだと。
名古宵が消えるわけではない。
現実が壊れるわけでもない。
ただ、
同じ場所に、同じ形では、
もう、立ち続けられないだけ。
その答えに辿り着くまで、
まだ、時間は必要だ。
けれど――
私はもう、
何も知らなかった頃の自分には、戻れなかった。
静かな部屋の中で、
私は、確かに次の一歩を、見据えていた。
(つづく)




