第16話 両立の境界線
忙しさは、突然増えたわけじゃなかった。
気づいたら、
予定表の空白が減っていて、
気づいたら、確認すべき名前が増えていて、
気づいたら、「任せるね」という言葉を、当たり前のように受け取っていた。
「……大丈夫」
その言葉は、もう、癖になっていた。
午前中は会議が続き、
午後は書類と数字に追われる。
集中しているはずなのに、
頭の奥で、ずっと別の音が鳴っている。
――名古宵。
仕事をしている最中に、
ふと、あの街の灯りが浮かぶ。
振り払うように、画面を見つめ直す。
今は、現実。
今は、ここ。
「篤羽さん、この件なんですけど」
呼ばれて、顔を上げる。
「はい」
即座に返事はできる。
内容も理解できる。
でも、ほんの一瞬、
反応が遅れる自分に気づいてしまった。
その小さなズレが、
胸の奥に、静かに引っかかる。
――ちゃんと、やれてるよね?
問いかける相手はいない。
帰宅は、また少し遅くなった。
電車の中、
スマートフォンを眺めながら、
無意識に、深呼吸をしている。
「……行けるかな」
家に着き、明かりを落とす。
目を閉じる。
呼吸を整える。
意識が、ゆっくりと、名古宵へ――
そう思った、その途中で、
頭の奥に、仕事の数字が割り込んできた。
訂正した箇所。
明日の締切。
未確認のメール。
「……っ」
思わず、目を開ける。
まだ、行けない。
行こうとすれば、行ける。
でも、完全には、入り込めない。
名古宵の灯りは、
遠くで、ぼんやりと揺れているだけだった。
「……大丈夫」
また、その言葉。
名古宵に入れなくても、
今日は、眠ればいい。
そう、頭では理解している。
けれど、胸の奥に、
小さな焦りが生まれていた。
数日後。
名古宵に辿り着いたのは、
ほんの、短い時間だった。
石畳を踏んだ感触は、確かにある。
灯りも、消えてはいない。
でも、長く、留まれない。
心が、落ち着ききらない。
「……今日は、短いね」
名古宵のあっちゃんが、そう言った。
責める声じゃない。
でも、見抜かれている。
「うん。ちょっと、現実が……」
言葉を濁す。
「大丈夫?」
その問いに、即答できなかった。
「……大丈夫、だと思う」
言った瞬間、
自分でも、その言葉の薄さを感じた。
彼女は、それ以上、踏み込まなかった。
ただ、
少しだけ、灯りのそばへ歩いていく。
「両方を大事にするって、難しいよね」
ぽつりと、そう言った。
胸が、きゅっと縮む。
「どちらかを選ばなくていい、ってわけでもないし」
続く言葉に、
名古宵の揺らぎが、重なる。
私は、何も言えなかった。
現実を手放したくない。
名古宵も、失いたくない。
その二つの願いが、
静かに、引き合っている。
「……でも」
彼女が、こちらを見る。
「無理をしたまま続けるのが、いちばん、危ない」
その言葉は、
忠告というより、祈りに近かった。
名古宵から戻るとき、
胸の奥に、重さが残った。
行けないわけじゃない。
失ったわけでもない。
それでも、
確実に、何かが、ずれ始めている。
現実では、
役割が増え、期待が増え、
「できる人」としての私が、形を持ち始めている。
名古宵では、
灯りが揺れ、時間が短くなり、
留まることが、難しくなっている。
その境界線の上に、
私は、立っていた。
まだ、壊れてはいない。
でも、
このままでは、続かない。
その予感だけが、
静かに、確信へと変わりつつあった。
(つづく)




