第14話 行けない夜
その日は、いつもより少し遅い帰宅になった。
残業、というほどではない。
ただ、確認事項が増えて、
帰るタイミングを逃しただけ。
電車の窓に映る自分の顔は、
疲れているのに、どこか無理をしているように見えた。
「……大丈夫」
何度目かもわからないその言葉を、
心の中で繰り返す。
部屋に戻り、鞄を床に置く。
靴を脱いだ瞬間、
足元から、どっと力が抜けた。
シャワーを浴び、
湯気の中で目を閉じる。
今日一日の出来事が、
途切れ途切れに浮かんでは消えていく。
上司の言葉。
後輩の質問。
数字の並ぶ画面。
――ちゃんと、やれていた。
そう思えるはずなのに、
胸の奥には、薄い膜のような疲労が張りついていた。
ベッドに腰を下ろし、
明かりを落とす。
静寂。
その中で、
ふと、思い出す。
石畳。
やわらかな灯り。
名古宵。
「……行きたい」
自然に、そう思った。
逃げたいわけじゃない。
慰めてほしいわけでもない。
ただ、
自分を、元の位置に戻したかった。
目を閉じる。
深呼吸をする。
いつもなら、
ここで、空気が変わる。
胸の奥が、ほどけて、
意識が、静かに引き込まれていく。
――でも。
何も、起きなかった。
闇は、ただの闇のまま。
部屋は、現実のまま。
「……あれ?」
もう一度、目を閉じる。
呼吸を整える。
待つ。
それでも、
鈴の音は聞こえない。
石畳の感触も、
あの街の匂いも、
どこにもなかった。
胸の奥が、ざわりと揺れる。
「……今日は、行けない、だけ」
そう自分に言い聞かせる。
忙しい日もある。
気持ちが整わない日もある。
それは、当たり前のこと。
――でも。
その“当たり前”の裏側で、
小さな不安が、芽を出していた。
名古宵に、
行きたいのに、行けない。
それが、
こんなにも、心をざわつかせるなんて。
「……依存、してるのかな」
ぽつりと呟いた言葉に、
自分で、少し驚く。
そんなつもりはなかった。
名古宵は、必要な場所。
でも、なくても生きていける場所。
そう、理解していたはずなのに。
布団に潜り込み、
天井を見つめる。
現実の生活は、
ちゃんと、回っている。
仕事もある。
評価もある。
役割もある。
それなのに――
何かが、欠けている気がした。
名古宵がない夜は、
心のどこかが、薄く寒い。
「……戻れなくなったら、どうしよう」
その考えが浮かんだ瞬間、
胸が、きゅっと締めつけられた。
もし、もう二度と行けなかったら。
もし、あの場所が、
ただの幻だったら。
現実の中で、
私は、ちゃんと呼吸できるだろうか。
答えは、出ない。
ただ、
不安だけが、静かに積もっていく。
それでも、
目を閉じるしかなかった。
名古宵のない夜を、
ひとりで、越えるしかなかった。
この夜が、
ただの“行けなかった一日”ではなく、
後になって、
境界が揺れ始めた夜だったと気づくのは、
もう少し先のことになる。
(つづく)




