第13話 増えていく役割、揺れる心
その変化は、とても静かに始まった。
朝のミーティングで、上司が資料をめくりながら、ふと顔を上げる。
「今月から、この案件も篤羽さんに任せたいんだけど」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……私、ですか?」
声が、少しだけ上ずる。
「前回の対応、落ち着いていてよかった。
細かいところにも、ちゃんと気づいてくれていたし」
周囲の視線が、いっせいにこちらに集まる。
否定でも、批判でもない。
むしろ、評価。
それなのに、胸の奥が、きゅっと縮こまった。
「はい……わかりました」
そう答えながら、
心のどこかで、小さな不安が芽を出していた。
――できるだろうか。
――また、失敗しないだろうか。
業務量は、少しずつ増えていく。
チェックする書類。
確認する数字。
判断を求められる場面。
ひとつひとつは、今までと大きく変わらない。
それでも、積み重なると、確実に重さが違った。
昼休み、席でお弁当を食べながら、
無意識にため息をついている自分に気づく。
「……疲れてるのかな」
自覚した瞬間、
名古宵の景色が、ふっと浮かんだ。
石畳。
やわらかな灯り。
静かな朝の空気。
あそこでは、
何も証明しなくてよかった。
午後、資料の最終確認をしていると、
後輩が、不安そうに声をかけてくる。
「ここ、合ってますか?」
画面を覗き込み、丁寧に説明する。
「うん、ここは大丈夫。
でも、この項目は、一度見直した方がいいかも」
後輩は、ほっとしたように笑った。
「ありがとうございます」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥に、微かな温かさが広がる。
誰かの役に立てている。
頼られている。
それは、嬉しいことのはずなのに。
同時に、
肩に何かが、そっと乗せられたような感覚もあった。
帰り道、夜の街を歩きながら、
空を見上げる。
ビルの隙間から見える星は、少ない。
「……ちゃんと、やらなきゃ」
口に出したその言葉が、
自分を縛る鎖みたいに感じて、少しだけ怖くなった。
部屋に戻り、明かりをつける。
静かな空間。
誰にも見られていない時間。
ソファに腰を下ろした瞬間、
張りつめていたものが、ふっと緩んだ。
「……行きたいな」
名古宵。
癒されたい、というよりも、
確認したい、という気持ちに近かった。
私は、まだ大丈夫なのか。
壊れずに、ちゃんと歩けているのか。
目を閉じると、呼吸が、自然と深くなる。
名古宵は、
甘やかす場所じゃない。
それでも、
自分の状態を確かめるためには、必要な場所だった。
「……まだ、行けるよね」
問いかける相手はいない。
それでも、
胸の奥が、静かに応えるのを感じた。
大丈夫。
でも、無理はしてる。
その、曖昧な境界線の上に、
今の自分が立っている。
現実での役割は、確実に増えている。
同時に、
名古宵の存在も、確かに重みを増していた。
それが、
これから先の揺らぎの始まりだと、
このときの私は、まだ、気づいていなかった。
(つづく)




