第12話 必要な場所
その日は、特別な出来事があったわけじゃなかった。
忙しすぎることもなく、
大きな失敗もなく、
淡々と、一日が流れていった。
それなのに、夜になると、
胸の奥に、静かな疲れが溜まっているのを感じた。
「……今日は、普通だったのに」
部屋の明かりを落とし、ベッドに腰を下ろす。
何かが足りないわけじゃない。
何かが壊れたわけでもない。
ただ――
少し、心が乾いている。
その感覚に気づいた瞬間、
思い浮かんだのは、ひとつの景色だった。
石畳。
やわらかな灯り。
夜の空気。
名古宵。
行きたい、と思った。
逃げたいからじゃない。
慰めてほしいからでもない。
「……整えたいだけ」
自分の心を、
少しだけ、元の位置に戻したい。
それだけだった。
目を閉じると、
呼吸が、自然と深くなる。
焦りも、不安も、
全部、ここに置いていける場所。
名古宵は、
頑張れなくなった人のための場所じゃない。
頑張り続ける人が、
壊れないための場所。
そのことを、
茜は、はっきりと理解していた。
「……必要なんだ」
自分に言い聞かせるように、そう呟く。
それは、依存でも、逃避でもない。
呼吸と同じ。
眠ることと同じ。
生きるために、
自然に必要なもの。
窓の外を見上げると、
夜の街が、静かに瞬いていた。
現実の光。
現実の音。
それらを嫌いになったわけじゃない。
ただ、
ここだけでは、足りないだけ。
「……明日も、ちゃんと生きる」
そのために、
名古宵がある。
そう思えた瞬間、
胸の奥に、穏やかな安心が広がった。
無理に強くならなくていい。
無理に弱さを隠さなくていい。
戻ってこれる場所がある。
それだけで、
人は、また前に進める。
名古宵は、
私にとって、必要な場所。
その答えに、
もう、迷いはなかった。




