第10話 名古宵・中区を歩く
名古宵の朝は、気づかないうちに、人を外へ連れ出す。
特別な理由があるわけじゃない。
ただ、歩きたい、と思っただけ。
石畳の通りを進むと、街は少しずつ表情を変えていった。
低い建物が並ぶ路地を抜けると、
視界がひらけ、背の高い建物が増えてくる。
ガラス張りのビル。
規則正しく並ぶ街路樹。
広めの歩道を、ゆったりと行き交う人たち。
「……似てる」
思わず、そう呟いた。
どこかで見たことがある景色。
胸の奥が、少しざわめく。
ビルの間を抜ける風。
朝の光を反射する窓。
遠くに見える、高い塔のような建物。
現実の街を歩いているときと、
ほとんど同じ感覚なのに――
決定的に、違うところがある。
誰も、急いでいない。
スマートフォンを見ながら歩く人もいる。
待ち合わせをしているらしい人もいる。
けれど、全体の空気が、どこか穏やかだった。
「ここは、中区」
隣を歩きながら、名古宵のあっちゃんが言った。
「名古宵市の中心。
仕事も、人も、いちばん集まる場所」
「……現実の街と、すごく似てるね」
そう言うと、彼女は少しだけ笑った。
「うん。似せてる、って言った方が近いかな」
歩道の中央に、小さな広場が見えてくる。
噴水の水が、静かに揺れていた。
その周りには、カフェやショップが並び、
テラス席でコーヒーを飲む人の姿もある。
にぎやかなのに、うるさくない。
「ここではね」
彼女が続ける。
「現実で抱えた“役割”が、そのまま形になってる」
「役割?」
「責任とか、立場とか、期待とか」
噴水を見つめながら、彼女は言った。
「だから、中区は現実にいちばん近い。
でも――」
少しだけ、言葉を区切る。
「現実ほど、息苦しくならないようにできてる」
確かに、そうだった。
ビルは高い。
街は広い。
人も多い。
それなのに、胸が締めつけられない。
「……現実の名古屋を歩いてるときはさ」
思わず、言葉がこぼれる。
「ちゃんとしなきゃ、とか
遅れたらどうしよう、とか
ずっと、頭の中が忙しい」
彼女は、うなずいた。
「中区は、それを“思い出させる”場所。
でも、同時に――」
「ここでは、立ち止まってもいい、ってことも教えてる」
歩道の端に、ベンチがあった。
腰を下ろすと、
街の音が、やわらかく耳に届く。
足音。
話し声。
遠くで鳴る、鈴のような音。
すべてが、ほどよい距離感だった。
見上げると、高い建物の隙間から、
澄んだ空が見える。
「……現実も、こうだったらいいのに」
ぽつりと呟くと、
彼女は、すぐには答えなかった。
代わりに、同じ空を見上げる。
「だから、名古宵があるんだよ」
その一言が、胸に、すっと落ちた。
中区の街は、
現実に似ていて、
現実より、やさしい。
私は、その中心を歩きながら、
少しずつ、“戻る勇気”を、蓄えている気がしていた。
(つづく)




