第9話 名古宵の朝
やわらかな光に、目を覚ました。
見上げた空は、深い藍色から、少しずつ朝の色へと溶けていく途中だった。
「……ここ」
名古宵。
そう意識した瞬間、胸の奥が、ふっと緩む。
足元には、冷たくもやさしい石畳。
どこからともなく、湯気の立つ匂いと、焼きたてのパンの香りが流れてくる。
夜だけの街だと思っていたこの場所が、
朝を迎えていることに、少し驚いた。
通りには、人の気配があった。
忙しなく行き交うわけでもなく、
それぞれが、自分の速度で歩いている。
挨拶を交わす人。
店先で湯を沸かす人。
路地を掃く、静かな音。
不思議と、誰も急いでいない。
「……落ち着く」
現実の朝とは、まるで違う。
ここでは、
“ちゃんとしなきゃ”という声が、聞こえてこなかった。
歩いていると、小さな水路に出た。
澄んだ水が、石の間を静かに流れている。
そのそばに、木のベンチが置かれていた。
腰を下ろすと、
胸いっぱいに、深く息が吸える。
――大丈夫。
理由はないのに、そう思えた。
「無理、してたね」
ふいに、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、少し先に、もうひとりの私が立っていた。
名古宵の、あっちゃん。
「……うん」
それだけ答える。
詳しい説明も、言い訳も、ここでは必要なかった。
彼女は何も言わず、隣に座る。
二人で、流れる水を眺める。
沈黙は、気まずくない。
むしろ、心地いい。
「ここではね」
彼女が、ぽつりと口を開く。
「役割も、評価も、失敗も、置いていける」
水面に映る光が、ゆらりと揺れた。
「ただ、息をするだけでいい」
その言葉に、胸の奥が、じんと熱くなる。
現実では、
少しのミスも、
少しの弱さも、
許されない気がしていた。
でも、ここでは違う。
「……ありがとう」
小さく言うと、彼女は笑った。
「どういたしまして。ここは、そういう場所だから」
名古宵の朝は、静かで、やさしい。
この時間が、永遠であってほしいと、
少しだけ、思ってしまった。
けれど同時に、
現実に戻る自分の姿も、ちゃんと想像できている。
逃げているわけじゃない。
ここで、心を整えているだけ。
それが、わかった。
立ち上がると、街の灯りが、少しだけ強く瞬いた。
「……また、来るね」
そう呟くと、
名古宵は、何も言わずに受け入れてくれる。
私は、この街に背中を預けながら、
静かに、目を閉じた。
(つづく)




