第8話 現実の重さと、帰りたい夜
朝の光に目を細めながら、茜は、ゆっくりと息を吐いた。
あの街の灯りは、もうどこにも見えない。
聞こえていたはずの鈴の音も、遠くで消えてしまった。
けれど、胸の奥には、まだ、あたたかな余韻が残っている。
「……名古宵」
小さくつぶやいた名前が、静かな部屋に溶けていった。
身支度を整え、いつものように家を出る。
駅へ向かう道、電車の揺れ、ビルの立ち並ぶ街並み。
すべてが、昨日までと同じはずなのに、
どこか、現実が遠く感じられた。
オフィスに着くと、パソコンを立ち上げ、業務を始める。
慎重に。
丁寧に。
何度も、自分に言い聞かせながら。
――もう、あんな失敗は、しない。
そう強く思っていた。
けれど、昼前。
取引先からの一本の電話が、その緊張を揺さぶった。
「先日お送りいただいた請求書ですが……」
言葉を聞いた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷える。
「記載されている日付が、前月のものになっています」
血の気が、すっと引いた。
確認不足。
ほんの、わずかな見落とし。
すぐに訂正し、謝罪し、再送する。
大きな問題にはならなかった。
それでも、胸の奥には、重たいものが、静かに積もっていく。
――また、やってしまった。
ほんの小さなミス。
けれど、続くと、心を削っていく。
午後の仕事は、指先だけが動いているようだった。
頭の中では、同じ言葉が、何度も繰り返される。
ちゃんと、できていない。
迷惑を、かけている。
退社時刻を過ぎ、ビルの外に出ると、街はもう夜の色に染まっていた。
ネオンの灯り。
行き交う人々の影。
そのすべてが、どこか遠く感じられる。
帰りの電車に揺られながら、窓に映る自分の顔を見つめる。
疲れている。
無理に作った笑顔が、痛々しい。
「……帰りたい」
ふと、口をついて出た言葉に、自分で驚いた。
家じゃない。
この街でもない。
思い浮かぶのは、
やわらかな灯りと、静かな石畳。
名古宵。
その名前を思い出すだけで、
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
――あそこなら。
――あそこなら、少し、息ができる。
部屋に戻り、電気もつけず、ベッドに腰を下ろす。
静寂の中で、今日一日の出来事が、波のように押し寄せる。
まぶたを閉じると、
あの街の光景が、はっきりと浮かんだ。
石畳。
やわらかな灯り。
やさしい声。
「……また、行きたい」
小さくつぶやく。
その願いは、
祈りのように、胸の奥に沈んでいった。
(つづく)




