第二節 海の帝国(3)
「さて、そろそろ話し合いを始めようか」
そう切り出したのは、パガン側の国王、ヴァースナーであった。
壮年を過ぎて人生の円熟期に入ろうか、という年頃に見えるその国王は、穏やかながらも、威厳をも感じさせる笑みを湛えていた。パガンの国王は「神王」と呼ばれ、民に慕われていると聞く。その理由が、タカネにはよく理解できる気がした。
「お初にお目にかかります、神王陛下。我がアルタイアの建国に際し、徳を持って国を導かれる陛下より祝賀の大使をお遣わしいただいたこと、我が国にとって瑞祥であり、身に余る光栄に存じます。改めて、深く感謝の意を表します」
タカネもまた、柔和な笑みを浮かべてそう切り返す。
「ジョンファ、モゴイド両国での皇帝陛下のご活躍は聞き及んでおる。蘭陵王に比肩する勇将として名高い皇帝陛下と、かくして会談の席を設けられたこと、そして富国強兵を成したアルタイア帝国との正式な外交樹立に向けこの場を設けられたこと、余も光栄に思う。ジョンファ帝国から派遣された大使より、すでに要点は承っている。本日は、国交樹立に向けた具体的な調整を行えれば、望外の喜びである」
北国の遊牧民と熱帯の農耕民。
二つの異なる文化圏の最初の対話は、外交儀礼に則った、しかし形式的ではなく温かさのこもった対話であった。タカネの頬はかすかに上気し、桜のような薄紅色に見える。相手との対話に満足している時の、それはタカネの身体的反応であった。
「さて、海峡通過の件だが当国としては問題ない。むしろ、海賊行為を働く者たちを一掃するというのであれば、こちらこそ協力をお願いしたい」
ヴァースナーはそう切り出した。その傍らに座すプレア・サンガラージ(高僧の意)が、語を引き継ぐ。
「我らにとってチロク・サムナクは、単なる海峡ではない。輪廻を司る聖なる水域なのだ。この世の穢れで染め上げることなきよう、お願い申し上げる」
そう言って合掌するプレア・サンガラージに対し、タカネは一礼する。
「無駄な流血を避けることは、我々も望むところ。あくまで海上を聖域として扱い、可能な限り生け捕りにし、貴国の海域でのことは貴国の裁きに委ねると、この場でお約束しましょう」
その率直な言葉に、ヴァースナーは口元に笑みをたたえた。
「皇帝陛下にはご苦労をかける。私は戦場のことには疎いのだが、相手を生かして捕えるのは大変なのではないか? こちらからお願いしておいて、差し出がましいようだが…」
「確かに難しい場合が多いです。ですが海賊行為を働く者たちは、元々武装商人であったと聞き及んでいます。まっとうに商売ができ、かつ武装せずとも航海することが可能となれば、そしてそれが海賊行為より利益となるならば、自ずとその数を減らせましょう」
一つ一つ言葉をかみしめるかのように選ぶタカネに対し、ヴァースナーは問いかけた。
「我々に、そのような利益を彼らに与えることが果たして可能だろうか?」
「可能です」
そう断言するタカネに、ヴァースナーは無言で続きを促す。
「お招きいただいた王宮の道すがら、街の人々の姿を見ました。彼らは皆身体つきがしっかりとしており、街も清潔で物資がとても豊かでした。なにより、子供たちの笑い声があちこちから聞こえてきたことがとても印象的です。これは一重に、神王陛下の徳の高さが、国中に満ち溢れているからだと断言できます」
「その上で神王陛下に申しあげます。アルタイアとの交易もまた受け入れて下さるのならば、商人たちに利益をもたらす事も可能でしょう。いかがでしょうか?」
そのタカネの言に、ヴァースナーは頷いた。
「面白い提案だ。試しに行ってみることとしよう」
そこでヴァースナーは言を切り、傍らの侍従に何かを申し付けた。そしてタカネの方へと向き直る。
「ところで、皇帝陛下は庭園の散策などは好まれますか? ぜひお見せしたい場所が、この王宮内にあるのだが」
タカネは心底驚いたかのように、目を見開いた。
「毎朝の日課でしたが…」
「それは良い。今はちょうど蓮の花が見頃でね。この機会だ。是非ゆっくりとして行ってほしい」
そしてヴァースナーは、タカネ自身の侍従たちにも目配せをする。タカネ本人はその意図に気付かなかったが、侍従たちは何かを察した様子だった。
タカネ自身には自覚症状がない様子だが、彼の唇はすでに紫色だ。
「私の末の娘に案内させよう。陛下とは歳も近いだろうから、色々と話し易かろう」
「ご配慮、痛み入ります」
「ジェン提督とアヌシュカ嬢は、この場に残ってもらえないだろうか。海峡通過に関して、そして海賊掃討戦に関して、細部を話し合いたいのだ」
「分かりました」
半刻も過ぎぬうちに、うら若き女性が広間に現れ、そしてタカネに対し一礼する。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。パガン国王ヴァースナーが娘、チャントレアと申します。以後お見知りおきを」
「アルタイア連邦帝国の皇帝、タカネと申します。こちらこそ、よろしくお願いします」
一礼するタカネの仕草は、まるで野を跳ね回るユキウサギのようで、周囲の微笑を誘った。
「陛下を、いえ、殿方を私の庭園にお招きできること、光栄ですわ」
チャントレアはそう言って、いたずらっぽく微笑みかけた。上品ながらも、言葉遊びを好む女性と見受けられた。タカネの耳はすでに真っ赤になっており、やや気まずそうであった。
「こちらにいらして下さいな」
そう言ってチャントレアが、タカネとその侍従、侍女たちを先導する。
その後ろ姿が、部屋の外に消えた時である。
「わが娘がすまぬな」
そう言葉では謝りながらも、ヴァースナーは微笑みを浮かべている。
「いえ。それより、陛下にお気遣いいただいたこと、感謝いたします。お恥ずかしい話ですが、我が帝は身体が…」
そう言いかけたジェン・ヘの言葉を、ヴァースナーは手で遮った。
「遮って済まない。だが、私はこれを貸しにするつもりはない。他国に付け込まれるような言葉は、軽々しく言ってはいけないよ。特に皇帝陛下の玉体に関わることは、貴国の弱みになり得るし、他国にとっても動揺の種だ。解るね?」
「はい。ご鞭撻、感謝いたします」
ヴァースナーは言葉を続ける。それもアヌシュカに向かって。
「アヌシュカや。あなたが今、皇帝陛下に異国の文化を教えているのだったね」
「はい、神王陛下」
「皇帝陛下の振る舞いは実に見事であった。ジョンファ帝国が、アルタイアを対等な帝国とお認めになるのもよく理解できる。あなたの教育のお陰だね。我が国に対する配慮、深く感謝している」
ヴァースナーはただ、二人の前で微笑んでいるだけであった。それであるにもかかわらず、アヌシュカとジェン・ヘの表情には緊張の色が走った。
二十年にわたり、神王として国を治めた王者の威厳。
一言で言い表すならば、神王の徳の高さとその威に打たれたからである。それが緊張の正体であった。
「アルタイアの民は、あくまで尚武の民。その牙を失っては、その輝きを消すこととなる。そして皇帝陛下は、伝説によれば狼を祖とする血筋だという。大いなる神の名を継ぐ陛下の御身を、人の手で鎖に繋ぎとめてはいけないよ。解るね?」
「はい」
アヌシュカの額にはすでに、大量の脂汗が浮かんでいる。
「よろしい。我が国に多大なる配慮を頂いたこと、改めて感謝する。私にとって身に余る光栄だ。だからこそ伝えたい。無理をしてまで、他国に迎合する必要はないよ。陛下の身に何かあれば、貴国の民も動揺するであろうし、我が国にとっても陽光を失うよりも大きな損失だ。御身を大切にされるよう、是非伝えてほしい」
「ご配慮、感謝いたします…」
目を回しそうなほど衝撃を受けているアヌシュカに対し、ヴァースナーは再び温和な表情を向けた。
「説教臭くなってすまないね。年寄りの悪い癖だ。アヌシュカや。あなた自身もよく頑張っていることには、気付いているよ。久しぶりにあなたの顔を見れて良かった。君のご両親にもよろしくお伝えくだされ」
ヴァースナーに対し、アヌシュカとジェン・ヘは深々と頭を下げるのだった。
その東屋は湖上の中島に建てられていた。風が良く通る場所で、宮城の中ではわずかながらも冷涼である。睡蓮は湖水に青々とし、静かな雨音の地を叩く音のみが、子守唄のごとくに鳴り響いていた。
「お加減はいかがですか?」
チャントレアはタカネにそう問いかけた。力なく横たわるタカネは、かすかに目を見開いたのみである。表情に暗い影を落とす彼の睫毛は、音が鳴らなかったことが不思議なほどに長い。幾度かの瞬きの後に口から漏れたのは、苦しげな吐息のみであった。
医官の手を借りながらタカネの身体を抱き起し、チャントレアはその口元に湯呑み茶碗を近づける。
「すみません、お気遣いいただいて…」
かろうじて言葉になるタカネの声は擦れて、風の中に消えていきそうである。タカネが医官の調合した水を飲み干したのを見届けると、チャントレアは彼の身体を抱き寄せた。
「前にも同じ事がございましたね。立場は逆でしたが。三年ほど前、ジョンファ帝国の宮殿でのことです。貧血で倒れた私を、あなたが介抱して下さったのです。ずっと御礼したかったのですよ」
そう口にし、過去を懐かしむかのようなチャントレアのこの時の表情は、観音菩薩の微笑みそのものであった。胸の中に抱いたタカネの頭を、そっと撫でる。それは母が子にするような、あるいは姉が弟を安心させようとしているかのような、慈愛に満ちた手つきであった。その傍らでは二人の侍従が、大きな団扇で風を送っている。そして医官が、井戸水で冷やした布を頻繁に取り換え、タカネの頭や首、脇を冷やし続けている。
タカネは何かを言おうとして、しかし開きかけた唇からは言葉はない。苦しげだった呼吸も次第に静まり、やがてチャントレアの腕の中で寝息をたてはじめた。医官の手を借りて、彼の体を横たえる。枕を差し出そうとした侍女を手で制止し、チャントレアは悪戯っぽく侍女に微笑みかけた。その仕草に、周囲の者たちは目を見開いた。チャントレアが長椅子に腰かけ、自らの太腿にタカネの頭を乗せ、抱え込んだからだ。まるで母が子をあやすかのように、あるいは親密な異性にそうするかのように、甘い色が感じられる光景であった。
タカネのみ今の状況を知らぬまま、ただ寝息をたて続けていた。
「今この時だけでも、心安らかに過ごされませ」
タカネの顔を覗き込み、その頬に指先で触れながらつぶやくチャントレアの声は、誰の耳にも届くことはなかった。




