婚約破棄をする前に~迷わず行けよ、行けばわかるさ!だけど少しは考えましょう~
※連作化してきたので連載にまとめることにしました。
魔女のお悩み相談室~婚約解消から始まる新たな関係~
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俺には婚約者が居る。
口煩く、何をしても俺の保護者面している彼女に辟易し始めたのはいつからだったろうか。
俺を立てるような事は無く、どんな時でも俺の行動に駄目出しをしてくる。
俺は確かにあまり頭が良くない。
だからこそ、そこ以外の長所を伸ばすために体を鍛えに鍛えた。
昔は小さかった体躯も今では成長した。
でも、それは彼女からすれば美点にはならないのだろう。
なにかにつけて彼女は俺を小さな子供のように扱うのだ。
そのような扱いに俺は不満が溜まっていった。
俺は彼女と幼い頃から家の事情で婚約を結んでいた。
それなりに大きな貴族同士が幼い頃に婚約するというのは何も珍しい事ではない。
だが、俺はいつからか婚約というのは理不尽だと感じていた。
当人たちの意思や感情など考慮に入れずに親の都合で子供の人生を縛る。
結婚など人生に於いて大きな出来事を当事者の了承無しに決めているのだ。
こんな事は許されてはいけない。
成長した俺はそう考え始めていた。
「婚約破棄をしようと考えている?お前本気か?」
目の前に居るのは学園でとてもお世話になっている先輩だ。
俺はこの先輩をとても尊敬している。
王家にも繋がるという高貴な生まれに相応しい能力の高さ。
誰も目を逸らすことができない自信に満ち溢れた姿。
そして、何よりも自分の信念を貫き通す意思の強さ。
それを証明している出来事があった。
「はい。俺も先輩を見習って理不尽に抗おうと思います」
何を隠そう先輩は先日、自身の婚約を破棄したのだ。
それを聞いた時は立ち上がり「すげーすげー」と賞賛を連呼してしまった。
先輩は自身に降り掛かった婚約と言う名の理不尽極まりない呪縛を自身の力で断ち切ったのだ。
流石は俺が憧れ、尊敬する人だと感動に打ち震えた。
「いや、俺を見習うとかそういうのは……」
「俺も先輩と同じなんです……親に勝手に決められた婚約者が居るんです。でも、俺と彼女は根本的に合わないと思うんです。彼女と相性が良いなら俺だって文句は言わないですよ。でも、違うんです」
力強く拳を握り熱く語る。
先輩の元婚約者は噂に聞く限りでは地味で陰気な女であり、はっきり言ってこの貴公子のような先輩の隣に立つのに相応しくはない者だったという事だ。
人間には相性という物がある。
並び立ち、支え合うにはどうしたって相性が良くないといけない。
きっと先輩もそう考えて自分の運命に逆らったのだろうと思う。
「お前な……よく考えたのか?」
興奮している俺を先輩は微妙な表情で見つめる。
先輩なら俺の肩を叩いて応援してくれるだろうと想像していたが思っていた反応と違ったと言わざるをえない。
だが、その反応も仕方の無い事だ。
婚約破棄というのは中々出来る事ではない。
そもそも両親が決めた事に反旗を翻すというのは貴族としてはとてもむずかしい事だ。
貴族の親は親としての立場よりも当主としての立場を重んじる場合が多い。
その顔に泥を塗ると言っても過言ではない行いだからだ。
だからこそ、それを成し遂げた先輩に俺は尊敬の念が強まったわけだが。
「はい!もう段取りも考えています!今度、俺の誕生パーティーがあるんです。そこに当然婚約者も来るんですけど、そこで婚約破棄を宣言してやるんです!公衆の面前でやる事で既成事実を作って、そのまま話を進めるんです!」
肝としてはやはり多数の目に止まる所で婚約破棄を宣言するという所だ。
これは先輩も使った手であり恐らくは王道。
先輩の場合はパーティー会場ではなかったという事だが、これは相手が違うので仕方がない。
先輩の婚約者は評判が悪い女だったようだが俺は違う。
俺の婚約者は外面が良いので一歩間違えれば俺が悪者になってしまう。
戦う場所を自分に有利な条件とするのは常套手段だ。
俺の家が主催するパーティー会場で宣言する事によりこちらの正当性、そして相手の悪辣さを世に知らしめる。
そして、自身の退路を断つことによって自らを鼓舞する。
そう、俺はもう止まる事は無い。
自由へ向かって走り出した俺を止める事など誰もできはしないのだ。
「お前の決意はわかった」
先輩が額に手を当て天を仰ぐ。
肩を落とすのは俺の決意の固さに止めても無駄だと理解してくれたからだろう。
後輩思いの先輩としては茨の道へ進もうとする俺の事を止めたいと思っているのだろう。
「だが、その前にちょっとだけ人に会って話を聞いたほうが良い」
誰と会って何を話すというのだろう?
だが、なんと言っても先輩の言う事だ。
もしかしたら、先輩も婚約破棄をする前に色々な人に相談をしてから走り出したのかもしれない。
何も考えずに突っ走るなとは教官からもよく言われる俺の悪癖。
今回の件に関してはそうならないように練りに練った計画があるわけだが、それでも少しだけ不安だったのは本音だ。
だからこそ、一番信頼が置けて何よりも先駆者である先輩に事前に打ち明けたのだから。
「ちょっと付いてこい。うってつけの人物が居るからな」
◇
「……それで私に話を聞いて欲しいと?私に何を言えと?」
連れてこられたのは学園の図書室。
そこに居るのは長い黒髪の理知的な女生徒だった。
窓際の椅子に少しだけ気怠げに座り、手には一冊の本を持っている。
彼女は読書を中断しなければいけない事に溜息をつきながら俺達を見る。
読んでいたのであろう本に綺麗な栞を挟んだ後、こちらへ向いた視線は胡乱げだ。
「そう言わんでくれ。こいつは俺の可愛がってる後輩でな、手遅れになる前に何とかしたいのだ……頼む!」
聞いたことがある。
最近、先輩が懇意にしている相談役が居ると。
余人では気づけぬ視点から色々な事柄に的確なアドバイスをくれると評判であるその女生徒は“図書室の魔女”と呼ばれているのだとか。
先輩だけではなく魔女のアドバイスに助けられたと言う人が増えているのだと聞いた事があった。
話の流れから考えれば先輩は俺の婚約破棄計画を魔女に手直しして貰おうと考えているのだろう。
俺の計画は完璧だとは思う。
しかし、その完璧な計画で補えていない所を見つける事ができるとなれば、それはこの魔女しか居ないと先輩は考えた訳だ。
「何度も言うように私が出来るのは私が感じた事をそのまま伝えるという事だけです。何やら最近、妙な噂が聞こえてくるせいで勘違いしてませんか?」
「それで良い!それで良いのだ!こいつの話を聞いてありのままに思ったことを伝えてくれ!」
先輩が魔女に頭を下げて頼み込む。
その姿に俺は少しだけ驚いてしまう。
先輩はまさしく王者の風格を持つ男だ。
当然、目上の者に対して頭を垂れる事はある。
大貴族と言えど上には上が居るわけだし、先輩は教官などにも敬意を払っているからだ。
しかし、自分と同年代。
それも女に対してこのように頼み込む姿を俺は見たことがなかった。
それほどまでに俺の計画を成就させようとしてくれているのだと思うと胸に熱いものが込み上げてくる。
「あなたはそれで良いのですか?」
「先輩がここまでしてくれているのだ……嫌と言えるものか!俺が立てた婚約破棄の計画!それを貴女に採点してもらおう!」
こちらの着座を促す魔女。
そして、溜息を吐きながら魔女は懐から小さなメモ帳とペンを取り出し俺の話を聞く姿勢を取る。
「はぁ……では、どうぞ」
そうして俺は先輩に話したよりも少しだけ詳しい内容を魔女に伝える事にしたのだった。
◇
「まず、俺の誕生パーティーで大々的に婚約破棄を宣言します。これは周囲の人間を味方につけるためです。俺の誕生パーティーですから。基本的に顔見知りや実家の繋がりがある者達が多いはずですから俺の賛同者で周りを固めます」
何と言っても味方を一人でも多く作る。
これが重要だと考えた。
戦いは数。
こちらに不利な立場で戦うというのは愚の骨頂。
彼女は口がよく回るのであくまでこちらの有利な場所で戦いを始めるのだ。
「次いで彼女が俺に今まで行ってきた悪逆非道を晒して糾弾します。これによって中立を保とうとする者も少なくなるはずです。俺が日常的にされていた事を聞いて義憤に駆られなければ男ではありません!」
これによって俺の正当性を主張する。
婚約破棄をするのは彼女の素行が悪いのだからこれは当然の行いなのだと。
俺のプライドをズタズタに引き裂き続ける彼女の行為、周囲に知られていないその本性を暴き糾弾する。
「後は流れに身を任せれば問題ないでしょう。彼女がこれで少しは自分の行いを悔いてくれれば婚約継続を考えても良いですがね」
完璧。
完璧すぎる計画だ。
なぜ今までこうしようと思わなかったのか不思議に思ってしまうほどだった。
唯々諾々と家の言うことに従おうとしていたかつての自分の馬鹿さ加減に今更ながら呆れるばかり。
魔女は目を瞑り、頭の中で俺の計画を反芻しているのか微動だにしない。
それはそうだろうと思う。
ここまで練りに練られている計画。
先輩から頼まれた手前、なにか意見を言わなければいけないのだろうが言うことが無い。
そういう事だと思う。
たっぷりと時間をかけた後に目を開いた魔女が先輩へと体を向けて口を開く。
「………………何か言う事は?」
「すまん……俺も何故にここまで暴走しているかわからないのだ……」
◇
「言いたいことは星の数ほどありますが、確認を幾つか」
「なんですか?」
「まずあなたの婚約者が行った悪逆非道とやらの内容です」
確かに、それは重要な要素である。
俺が婚約破棄を考えるに至ったのは彼女の行いがあったからだ。
何も単純に気に入らないから婚約破棄をすると言っているわけではないのだから。
「そうですね、まず彼女は俺のやる事なす事全てが気に入らないのか一々口出しをしてくるのです。その中には男としての誇りを踏みにじるものもありました。例えば俺が軍事訓練で下級生に怪我をさせてしまった時です。軽く怪我をさせただけだというのに今すぐに謝罪に行けと言ってきたのです」
「怪我をさせたのは良くない事では?」
「それが軟弱な考えなのです。訓練は本気でやらなければ意味がない。その過程で怪我をさせてしまう事など日常茶飯事!だというのに、彼女はわざわざ謝罪するようにと言ってきて、拒否した俺を保健室へと引き摺って行ったのです」
俺の言葉を聞いた魔女が目線を先輩へと向ける。
「こいつの言うことは事実だ。訓練で怪我をする事は多い、その度に仰々しい謝罪をする必要は無いだろう」
「先輩はわかってらっしゃる」
「だが、それが不必要な怪我であれば話は別だ。あの時はお前は興奮していて訓練終了の合図が聞こえずに不意打ち気味に怪我をさせてしまっていたな」
「うっ……!しかし、それは油断をしたあいつが悪いのであって……実戦では終了の合図など……」
「悪いのはお前だ。百歩譲れば訓練終了とともに気を抜きすぎた相手にも非があったと言えるかもしれん。それでもお前が悪くないという事にはならん」
魔女が冷徹な目で俺を見る。
その視線は全てを見通そうとする魔眼のようで体に寒気が走る。
「問題はそこではありません!重要なのは彼女が俺に謝罪を強要したと言うことです!男としてのプライドという物がわかっていない!頭を下げるという事がどれほどの物かという事が!軽々しく頭を下げるなど貴族として、何よりも男としてあるまじき行為であると!俺も怪我をした事はありますが相手から殊更に謝罪をされたことなどありません!」
「……と仰ってますが?」
「私に話を振らないでくれ……」
魔女がいくら聡明であり、先輩が重宝している相談役だとしても所詮は女だ。
男には女では理解できない物があるのだ。
こればかりはわかれと言ってわかる物ではないだろうから仕方ないかもしれない。
「彼女の蛮行はまだあります。私は将来は軍に身を置く事になる者だというのに無理矢理に勉学を教えるという名目で拘束をしてくるのです。勉学などそれしかできぬ者が行えば良いでしょう。領地経営などは家の者に任せれば良い。戦場に身を置く者に必要な事柄ではありません!だというのに少しでも手を抜こう物なら厳しく非難してくる。確かに彼女は頭が良いのでしょうが、それを私に求めてくるのは筋違いというものです!」
適材適所というものがある。
できない事、適性がない事に割く時間の何と勿体ない事か。
私は軍に身を捧げるのだ。
そのような些事に使う時間など無い。
「わかっていないのです。女には入り込む事ができない世界がある事を。そこでは必要のない物を学ぶということが無駄だという事を」
「……と仰ってますが?」
「私は苦手な座学にも励んでいる!そのような目で見ないでくれ……」
私はその後も幾つもの例を魔女に話した。
その度に魔女と先輩の表情は暗く淀んでいった。
そうなってしまうほどの仕打ちを彼女は私に繰り返していたのだ。
「婚約者の方の行動はわかりました。あとは、そうですね……この話を知っている者は私達の他には誰かいますか?」
「居ません。そもそもはもっとも信頼の置ける……何よりも婚約という呪縛から解放されるという偉業を成し遂げた先輩にしか話す気はなかったのですから!」
魔女に内容を話しているのも俺にとっては少しだけだが不本意な事ではあった。
先輩の勧めでなければ相談など絶対にしなかっただろうと思う。
「俺も先輩のように自由になる。そのための婚約破棄です。聞けば先輩の元婚約者も碌な女ではなかったという話。陰気陰鬱でセンスが悪く口汚く弁だけは立つ。腹黒く周囲の人間を貶める事しか考えていない。そのような悪女から脱した先輩に俺は続きます!」
「……………………と仰ってますが?」
「俺が言ったわけではない!俺は決してそんな事は言っていない!本当だ!信じてくれ!そんな事を言うわけがないだろう!」
何故か先輩がこれまでにないほど焦っていた。
人伝に聞く先輩の元婚約者も中々に酷かったとは言え既に関係は絶たれている。
だとしても元婚約者。
心優しい先輩は事実であったとしても心が痛むのかもしれない。
この器の大きさこそ俺には真似できない所だ。
「はぁ……まぁ良いです。それでは私見を述べさせてもらいますね」
◇
「色々と思う所はありますが一番は“何故大多数の目がある場所で婚約破棄を宣言”する必要があるのかという事ですね」
「……理由は先程説明しましたが彼女は周りからはとても評判が良い。周囲の目を覚まさせて、こちらの味方に付ける必要があるのです」
「いえ、それは必要ありません」
魔女は静かに語る。
私を見つめる目は冷たく、そこには呆れの感情が多分に含まれているように思えた。
「あなたが虐げられていたとしても、彼女が本性を隠している悪女だとしても、それを周囲の人に知らしめる必要はありません」
「……」
「貴族の婚約はあくまで両家での契約。その他の人間は第三者であり言ってしまえば無関係な他人です。そこを味方に付けたとしても婚約破棄はできません」
「しかし!そうでもしなければ両親も私の主張を認めはしない!」
「それも違います。認めはしない“と思う”ですよね。あなたはこの話を私達以外にはしていないのですから。ご両親がどういった反応をするのかもまだわからないはずです。だというのにあなたは一足飛びに話を進めようとしています」
魔女の言葉に俺は反論ができない。
両親ともに彼女の事を気に入っているのだから私が何を言っても取り合ってはくれないのは間違いが無いはずだ。
初めからわかりきっているのだから必要は無いと俺は思った。
だが、それを確かめてはいない。
「ご両親に一言告げるだけです。更に言うならば当事者である相手方にも先に話をするべきです。それだけで無用なトラブルを防げます。何故それをしないのですか?」
「それは……そんな事を言っても受け入れられるはずが……」
「受けいられるはずがない“と思う”。だから自分の中だけで話を進める。何故そこに違和感を覚えないのです。婚約を無かった事にしたいと考えたのであれば、まず最初に行うのは当事者同士での話し合いですよ」
魔女の言葉は続く。
完璧だと思っていた俺の計画。
それはそもそもスタート時点からして間違っていると。
「もしも、話し合いで解決ができないような何かがあった場合、それこそ無理矢理に話を進めるべきではないんです。婚約には何かしら家同士の事情があるはずですから」
「家の事情など俺には関係がありません!」
「それならば単純に婚約に従わなければ良いだけではありませんか?例えば家督を捨てて家を出れば良い。あなたがそうしないのは家から出奔する気が無いからです」
魔女の言葉は一々正しく聞こえる。
婚約は当事者同士だけではなく家同士の契約でもある。
それはわかる。
わかってはいても納得はできない事柄だと俺は感じて行動に移そうとした。
理不尽を強いてきたのは実家の方なのだから俺が好き勝手したって良いはずだと思った。
それがあまりに浅い考えだと魔女が俺に突きつけてくる。
自分に取って都合の良い事しか見ていないと。
「こんなやり方で婚約破棄をしたとして、相手側の家が納得すると思っているのですか?あなたの行動は実家に多額の賠償、負債を背負わせる可能性があるものだという認識が無いように見えます」
「くっ……」
「実家の言う事は聞かない。実家にかかる迷惑なんて知らない。自分のしたいようにする。でも、家からは出たくない。相手は泣き寝入りするはずだ。何というか……あまりに幼稚です」
言われてみて初めて気づく。
俺は自分の事しか考えていなかった。
実家がどうなるかは考えていなかった。
相手がどういう反応をするかなんて考えていなかった。
俺は下唇を噛むことしかできない。
「そもそも誕生パーティーに来た婚約者に対して一方的に婚約破棄を宣言。こんな事をして周りがあなたの味方に着くと本当に思っているのですか?」
「当然です!私がされた数々の仕打ちをあなたも聞いたでしょう!」
「それを聞いた上でですよ。断言しますが、不興を買うのはあなたです。賛同者など出る事はありません。冷静にそして客観的に考えてみてください。あなたが呼ばれたパーティーで同様の事が起こったらどう思いますか?主賓である男性が婚約破棄だ!などと喚き散らす姿を想像してみてください」
和気藹々と歓談するパーティーの出席者たち。
楽しく過ごす時間。
そこに主賓が現れて唐突に婚約を破棄すると宣言し女性を罵倒する。
その姿は想像するだに醜い物であった。
地獄絵図だ。
そんな事を始めた者に対して好意的な感情が向くはずがない。
何も言えなくなってしまった俺に魔女の言葉は続く。
「色々言いましたが最終的に私が感じたのは、あなたは別に婚約破棄がしたい訳ではないのでは?という事です」
「…………」
「あなたは婚約者を貶めたいだけに見えます。彼女に何かしら傷をつけてやりたい、彼女よりも優位に立ちたい。そうして選んだ手段が婚約破棄だったと言うだけ。私個人としての意見を述べるならば是非婚約を破棄してあげて下さい。あなたのような男性から一人の女性が解放される。それはとても素晴らしい事でしょうから」
◇
魔女に告げられた言葉によって俺の心はボロボロだった。
あの時に自覚させられたコンプレックス。
俺は彼女よりも優位に立ちたいというだけの感情で動いていると指摘されたのだ。
その言葉に俺は反論ができなかった。
それによって熱に浮かされていたような頭は冷めきり、頭の奥で何度も何度も俺は心の内に問いかけた。
一体、何故婚約破棄などしようと思ったのか。
そんな状態で軍事訓練をすればどうなるかは火を見るより明らか。
俺は普段ならば難なく回避できるであろう一撃をまともに受け、意識を失い保健室に運ばれたのだった。
「うっ……」
「あら。目が覚めたのね」
ベッドに寝かされていた俺の横には件の婚約者が居た。
傍目から見ても美しいと言って良いだろう顔。
流れるような栗色の髪。
甲斐甲斐しく俺の世話を焼くその姿をいつから疎ましく思うようになっていたのだろう。
不安そうな表情から一変、いつもの勝ち気そうな顔になった彼女が俺の額に乗っていた冷えたタオルを取り替えてくれる。
「あなたらしくないわね。軍事訓練の時だけは意気揚々としているっていうのに」
「ふんっ……」
「あなたが訓練で倒されて意識を失ったと聞いた時には本当に驚いちゃったわ。最近はこういう事、本当に少なくなったものね」
また弱みを見せてしまった。
俺はこんな姿を彼女に何度見られているのだろうか。
屈辱だ。
以前までならばただただそう思っていただろう。
だが、今の俺は冷静にその姿を見る事ができた。
柔和な顔で俺の額の手拭いを交換してくれる彼女の顔には心配している色が見て取れる。
傍から見てもその姿に俺を見下すような物は無い。
俺を非難ばかりしてくるような姿はどこにもない。
だというのに、俺はこのような事が屈辱に感じていた。
「でも、大きな怪我とかじゃなくて安心したわ。昔はよく傷だらけになってたわよね。最近は体も大きくなって強くなっちゃったから……ふふっ、あなたの看病するなんていつ振りかしら、少しだけ懐かしいわね」
彼女の言葉に羞恥の記憶が蘇る。
俺は元々は体が小さくて弱くて、訓練で倒される事ばかりだった。
地面を転がされて土の味を知った。
周囲から才能が無いなどと言われた事も幾度とある。
それでも俺は努力をした。
だから、生傷が絶えなかった。
その度に彼女が俺の傷の手当をしてくれていた。
ボロボロにされた俺を心配してくれる彼女の視線が嫌で堪らなかった。
悔しくて悔しくて俺はとにかく体を鍛えた。
成長とともに大きく育った体。
訓練でも先輩のような本当の強者以外には負けることはなくなった。
それとともに彼女に看病される事もなくなった。
「……油断しただけだよ」
「そうね、あなたが強くなった事はよく知ってるわ。でも、それでも怪我はするんだから気をつけてよね。私に心配されないように強くなるんでしょ」
その言葉にハッとしてしまう。
原初の記憶が蘇る。
幼い日、何を目標として俺は努力をしていたのかを思い出す。
俺は何のために体を鍛えていたのか。
何を思って厳しい訓練を耐えていたのか。
彼女を見返すためなんかじゃない、彼女を見下すためなんかじゃない。
それは彼女に余計な心配をかけないためではなかったか。
彼女に相応しい男になるためじゃなかったか。
「まぁ強くなったらなったで違う心配も出てきちゃうけどね。ほら、あなたが前に怪我させた子なんて妾腹とは言っても公爵お気に入りの実子だったんだから……なにか失礼があったらって顔が青ざめたわよ……本人は庶民出で気の良い子だったから良かったけど」
俺は何を勘違いしていたのだろう。
彼女は俺の事を立ててくれない?
男の事なんて理解していない?
そんな女性が俺の事をこんなにも考えてくれているのか?
魔女の言葉の正しさを今更ながらに理解する。
気づいてしまったらこれまでの俺の馬鹿な考えが押し寄せてくる。
全てが酷い裏切りだ。
行動に移していないだけで罪は無くならない。
何よりも俺自身が自分を許せない。
涙が込み上げてくるほどに俺は後悔する事しかできない。
「俺は……俺は……」
情けなくて涙が出る。
当たり前に享受していた彼女の優しさ。
それがどれだけ尊い物だったかをやっとわかった。
自分のちっぽけなプライドを満たすためだけにそれを投げ捨てようとしていたなど、今更ながらにぞっとしてしまう。
「ちょっと、どうしたの?打ちどころ悪かったんじゃないの?」
「俺が……俺みたいなバカの婚約者なんて……嫌じゃない?」
魔女の最後の言葉が蘇る。
彼女は俺と一緒にならないほうが幸せになると思えた。
やはり婚約というのは理不尽な物というのは間違いではない。
俺みたいな男に束縛されるなんて不幸でしかないかもしれない。
「あなたがバカなのはずっと前から知ってるわよ。でも、バカなだけじゃない事だって知ってるわ。最近なんて憧れの先輩の真似ばっかりして……あなたにはあなたの良い所があるから気にしなくて良いのにね」
ニコニコと笑顔を浮かべて俺の良い所を指折り数える彼女。
美味しそうにご飯を食べる。
くだらない話で笑わせてくる。
好物を差し入れしてくれる。
どれだけ負けても挫けない。
そのどれもが他愛も無い事だった。
俺だってそうだったはずなのだ。
彼女の良い所をいっぱい知っているはずだった。
だって俺達は婚約者同士なのだから。
「ごめん……ぐすっ……本当に……ごめん……俺……情けない……」
「ちょっとちょっと!本当にどうしたのよ!」
泣きじゃくる俺を見る彼女は困惑し切りだ。
何故泣いているのか彼女はわかっていない。
俺が酷い裏切りをしようとしていた事を彼女は知らない。
落ち着いたら話をしなければならないだろう。
それによって、俺は本当に愛想を尽かされるかもしれない。
それでもだ。
当たり前すぎて忘れていた事に俺は気づく事ができた。
一歩目を踏み出す事はとても大変な事で素晴らしい事だと誰かが言っていた。
それは本当の事だと思う。
迷っている暇があったら、とりあえず行動してみるというのも間違いでは無いはずだ。
しかし、それと同時に踏み止まる事もとても重要なことだと俺は思い知った。
自分一人では見えていない物があり、人の話を聞いてこそわかる事がある。
俺は何も考えずに奈落へと落ちる事となる一歩目を踏み出すところであった。
崖下へと転落するであろう一歩目を俺はギリギリで踏み止まる事ができたのだ。
俺の婚約者は誰よりも俺の事を考えてくれてる女の子だった。
身近すぎてわからなくなっていた幸せが確かにそこにはあった。
デリケートな話題は人前で言う必要無いよねという話。
特に読まなくても問題ないように書いたつもりですが、以前に書いた「逃した魚は大きいようですがもう遅い!何故なら婚約破棄したからです!」と同一舞台です。
https://ncode.syosetu.com/n3879ha/
拙作ですが、興味が湧いたらこちらも読んで頂ければ幸いです。