1 草の波
拙作「黒のシャンタル」シリーズの外伝です。
「第一部 過去への旅(完結)」のさらに三年前、ベルとアランがトーヤとシャンタルと出会って仲間になるまでの話になります。
本編への導入部、「エピソード0」としてお読みいただけるとうれしいです。
小さいが激しい息が、草いきれの中を進む。
背の高い草丈ほどの大きさの人影。
濃い茶の髪が、走ると揺れに合わせて草の上からちらちらと見える。
そんな小さな影がざわざわと草を揺らし、どこかへと急ぐ。
(誰か、誰か、お願い、助けて……)
はぁはぁと息を切らしながら必死に走る。
どこへ走ればいいのかは走っている本人にも分からない。
だが、走らなければならない。
走らなければ「大事なもの」を失ってしまう。
その思いだけで走り続けていた。
季節は夏。
今朝まで雨が降っていたせいで、日が上ると共に気温も上がり、草に残るしずくが湿度となって体に絡みつく。走るためにしたたる汗と露が混じり、そこにまた涙が混じる。
小さな影が立ち止まり、息を整えながら後ろを振り向いた。
考えなしに走ってきたが、あまりに遠くへ行くと戻る道が分からなくなる。
視線が見ているのは走ってきた方向、その先に一本の木が生えているのが見える。
その木の根元に「大事なもの」が眠っている。
その「大事なもの」のためにこの小さな影は走り続けてきたのだ。
「誰か、誰か、いませんかあ!」
消え入りそうな声は少女のものであった。
少女の名前はアナベル、愛称をベルという。
今年10歳になる。
木の根元に置いてきた「大事なもの」は彼女の兄だ。
一昨日終わった戦の最中にケガをして、患部が化膿し、熱が出て死にかけているのだ。
「兄貴、おれ、誰か探してくる! そこでじっとしててくれよな!」
そう声をかけたが、彼女の兄はもう意識がなく、答えることがなかった。
「絶対絶対誰か探してくるからな! 待っててくれよな!」
そう言い捨てるようにしてその場から走り出した。
誰とも分からぬ「助け手」を求めて。
その影はふと足を止めた。
「どうした?」
同行者が振り返って聞く。
「うん、いや、なんだかね、声が聞こえた気がして」
「こんな町外れの野っ原でか? 風の音じゃねえの?」
「いや、確かに聞こえた」
まだ若い声。
聞きようによっては男にも女にも思える、そんな声だ。
尋ねたのはまだ若い男の低い声だった。
「俺には聞こえなかったがな」
「そう?」
「ああ、気のせいだろ、行くぞ」
「うん……」
そうは答えたものの、なぜだか気にかかり、来た方向よりややずれた角度をじっと見つめる。
「いや、気のせいじゃないみたい」
「うん?」
そう言うと、見た方向に振り返り、まっすぐそっちへ進んでいく。
「しゃあねえなあ」
同行者も仕方なさそうにそう言うと、大人しく後ろから付いていく。
ざわざわと湿った草をかき分けて進む。
足元、草が踏みつけられ、折れ、あちこちに「色々なもの」が転がっている。
ここは一昨日まで戦場であった。
「戦場稼ぎ」たちによって金目の物、金目でなくてもなんとかなりそうな物、そんな物は昨日までにかき集められてしまっている。
今あるのは血の痕、人であったもののかけら、それに集まった獣の残したもの、それに集まる虫たちなど。まあ口にするのも悲惨なものがほとんどである。
「わざわざ好き好んでこんなとこ戻るこたあないだろうに」
同行者がめんどくさそうにそう言う。
残されたものに特に感慨を抱くことはない。
戦場とは、戦の後の場所というものはそんなもの、すっかり慣れてしまっている。
戦いで踏みつけられ、戦場稼ぎたちがうろうろと踏んでまわり、すっかり地面にひれ伏していた草たちは、昨夜の雨で元気を取り戻しつつある。かなりの部分が元通りに立ち上がり、悲惨な状況を多い隠しつつある。
その背丈を取り戻している草の向こう、何かがこちらへ進んでくるのが見える。
濃い茶色をしたふわふわわした何かが、ちらちらと草の上から見え隠れしている。
「なんだありゃ」
じっと見ていると、突然止まってそのまま真下にストンと落ちたようだ。
そしてそのまま見えなくなった。
「見てくるね」
白っぽい影の持ち主がそう言うと、草をかき分けて消えたもののところへと向かう。
「まったく、物好きなこったぜ」
同行者もそう言いつつ、同じように草を漕いで後を付いていく。
ベルは疲れて土の上に膝をついてしまっていた。
昨日は一夜、寝ずに兄の看病をした。
看病といってもできることは少ない。
傷を洗い、当てる布を取り替えるぐらい、額に乗せた水に浸した布を取り替えるぐらい、そのぐらいしかできない。
一昨日の夜、戦が終わったその夜、ケガを負ったために動けなくなった兄と共に、戦があった場所から少し離れた木の根元で休むことにした。
「大丈夫だ、血さえ止まればすぐに動ける。少し休ませてくれ」
そう言った時はまだ兄は笑っていた。
きっとすごく痛かったのに、つらかったのに、自分を励ますために笑っていてくれたのだ。
ベルにもそれは分かっていた。
きっと兄はすぐ元気になる。そう思って一生懸命看病をした。だが兄はどんどんと衰弱し、昨夜一晩、熱と痛みで苦しんで、今朝はとうとう意識を失ってしまった。
休まず看病した疲れ、大事なものを失うかも知れない恐れ、その2つがベルから歩く体力も気力も奪ってしまい、とうとう動けなくなってしまった。