おとなりのご主人サマ。
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それは、年に一度あるかないかのキセキだった。
マクラに溶け込む白のにおい。
膜のはった目をこすると、見慣れた天井がぼやけて見えた。
いつもならもう一度寝てしまうところだけど、今日のあたしは一味ちがう。
なぜなら。
カーテンのすきまから待ちに待っていたアレが見えたからだ。
「……き、た!」
抑えきれない興奮と衝動に布団を押しのけて、玄関から飛び出す。
顔や手足に襲いかかる刺すようなつめたさなんてなんのその。
鉄錆の浮いた階段を駆け下りて、自分の部屋の窓側に回りこむ。
白にうずもれた足を蹴り上げて、鈍くたちこめた空へ手をかざした。
てのひらに触れて、じわっと溶けて、ゆっくりとこぼれ落ちる水。
ねむい。つめたい。さむい。いたい。
でも、きれい。
吐き出した息の向こうにかすむ氷のかけら。
手を伸ばすだけじゃたりなくて、真上を向いて口をあける。
口のなかに落とし込んでやろうと、足跡すらない真綿の敷地をうろついていれば。
背後から、こらえるような笑い声が聞こえた。
「おい、腹ァ壊すぞ」
一瞬にして凍りついた首。
振り向けばそこには、窓から紫煙をくゆらせる隣人がいた。
「ちっ、こんなに積りやがった。仕事だりぃな」
落下する白い花に吹きかけられた煙。
灰色に染まったそれにつりあがった口の端。
その恐ろしいばかりの笑顔に息を飲み下せば、鋭い三白眼が向けられた。
「雪、見たことねェのか?」
「こ、こっちに引っ越してきて、はじめて見た、んです」
「雪ぐれェどこも共通だっつーの。ったく朝からハシャギやがって。犬か、おまえは」
突然、雪に向けられていたはずの煙を吐きかけられて目の前がかすむ。
吸い込んでしまったそれは苦くて、思い切りむせてしまった。
「っ、げほ、っ、……なにす、」
「雪ごときで起きれんなら、普段から早く起きろ。毎朝毎朝俺の手をわずらわせんじゃねえよ、このダメ学生が」
「そっちが毎朝勝手に起こすんじゃないですか!」
たまらず反撃とばかりに言い返したとたん。
窓越しに見下されて、その眉間にシワが総集結。
根性焼きでもされそうなほど火種を近くに寄せられて、息が止まった。
「――テメェ、俺がいなくてまともに起きれんのか? 単位はいいのか? もうピンポン押してやんねェぞ、コラ」
思わずひくついたノド。
あたしに用意されていた選択肢は、頭を下げること以外、何もなかった。
目覚まし代わりに毎朝鳴らされるアパートのチャイム。
おとなり、という垣根を越えたこの奇妙なカンケイ。
ヒドイ低血圧に遅刻グセのあるあたしは、親切なのか何なのかよくわからないこの隣人に頭が上がらないのだ。
「おい、ポチ」
「ちょ、犬扱いですか! 少し雪を見てただけなのに、」
「っせェな。寒みー中駆け回って、雪食ってたじゃねえか。犬みてェによ」
やっぱり。
さっきの間抜けな行動はカンペキに見られていたらしい。
ダメ学生から犬扱いにランク落ち。
思わず肩を落とせば、正面から手を差し伸べられた。
「ポチ。上手くお手できたら、ごほうびに車出してやってもいいぜ」
「ありがとうございま、って、もう! その設定やめてください!」
「アァ? 俺のいうことが聞けねえってのか」
「ど、どどど、どう、してもっていうなら、先にお手本見せてくださいよ! ハイ、お手!」
悪態をついてすごんでくる隣人に向って手を差し出す。
足元からくるふるえが、寒さからなのか恐怖からなのか分からない。
激安オンボロアパートの前。
無言と静寂に、後悔だけが込み上げてくる。
手を振り払われるくらいならいい。
笑われるくらいなら耐えてみせる。
でももし、これから起こさないとか送ってやらないとかいわれでもしたら。
脳裏をかすめる落第の二文字に差し出したてのひらを引っ込みかけた瞬間。
目の前の体が傾いて、なまぬるくてぬるっとしたものがてのひらを這った。
「っや!」
驚きのあまり勢いよく手を引き抜きすぎて、バランスが崩れた。
ぐらつくカラダ。反転する視界。
空からこぼれる真綿の花。
見事にしりもちをついてしまい、痛みとつめたさが同時に襲いかかってくる。
腰を押さえて耐えていると、真上から乾いた笑いが落ちてきた。
顔を上げれば、窓辺でにやついた笑みを浮かべる隣人の姿。
真っ赤な舌で自分のくちびるを舐めあげると、耳に悪影響といわんばかりの水音が届く。
「おまえの味がする」
つめたくて、さむくて、いたくて、きれいで。
そんな真っ白なセカイに包まれているはずのあたしを染め上げる卑猥な赤。
「なあ、俺にどんなごほうびくれんだよ。ご主人サマ?」
これじゃ、どっちが上の立場なのかさっぱりわからない。
降りそそぐ六花をふるわせた口笛に、重い腰を持ち上げる。
見えない鎖であたしを呼び寄せるこのひとにいったいなにをすればいいのか。
はたまた、なにをされるのか。
ごほうびなんてなにも考えられなくて、考えたくなくて。
三文の徳にもならなかったキセキの早起きを、ただひたすら呪うことしかできなかった。
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第1回「恋愛ファンタジー小説コンテスト」に投稿した作品です。
思い切り季節を外しまくっていてすみません。
読んでくださってありがとうございました!
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