サンタマリア
あるところに、白い病棟がありました。
そこに一人の少女が暮らしていました。
少女は真っ白な病室の中で何年も生活をしており、それより前のことは覚えていませんでした。自分が病気なのかもわかりませんでした。病室にはベッドの他に、少女が大切にしているサボテンの鉢がいくつもありました。そのサボテンは、病室を彩る唯一の色でした。
病室の一面には、片面からだけ向こう側が見れる窓があります。少女がいる病室からその外を見ることはできません。少女はその外に何があるのかも知りませんでした。見えないから、興味もありませんでした。だけどその隣にあるドアから、いつも誰かが入ってきてくれるのを待っていました。
少女はアルファベットのパズルが大好きでした。一文字ずつ並べて単語を作るパズルです。少女はいつもそれで人の名前を作っていました。それが一番大好きな遊びでした。
看護婦さんが画用紙とクレヨンを持ってきてくれると、お絵かきもしました。多くを知らない少女は、いつもサボテンと自分の絵を描いていました。看護婦さんは病室の壁に貼るかどうかいつも聞いてくれましたが、少女はいつもいらないと答えました。
毎日サボテンに話しかけ、遊んで、そうして少女の毎日は過ぎていきました。その様子を、お医者様はいつも見守っていました。
幼い頃から病棟で暮らしてきたお医者様は、窓の外からいつも少女を見守っていました。お医者様の目は、野に咲く花を見つめるような優しいものでした。少女の様子を見ることを一日も怠ったことはありません。けれど決して、病室へ入るためのドアを開けることはありませんでした。
もともと少女は、病室の外で暮らしていました。優しいお医者様と親子のように仲睦まじく穏やかに過ごしていましたが、ある時から少女はお医者様と暮らすことができなくなってしまったのです。
少女は、お医者様のお姉さんの子供でした。お姉さんは病棟を逃げるように飛び出し、お医者様の知らないところで暮らしている間に少女を生みました。だけれども少女を愛することができず、いつも少女を傷つけてしまいました。少女の体は傷だらけになり、笑顔もなくなりました。いくつも南京錠をかけたように、心を開くことができなくなってしまいました。やがて少女は口を閉ざしていきました。やがてお姉さんは重い心の病気になり、少女はお姉さんから引き離されました。お姉さんの過去をたどって頼れる誰かを探した末に、少女はお医者様のいる病棟に連れて行かれることになりました。
少女の存在にお医者様は最初たいそう驚きましたが、慈悲深い心を持つお医者様は快く少女を受け入れました。毎日少女の名前を呼び、温かい食事を作り、フカフカのベットを用意し、話しかけ、お医者様はいつも少女を気にかけました。ですが少女の心は深く深く閉ざされたままで、一言も口をきけませんでした。
ある時お医者様は、自分の部屋にあるサボテンの中から小さなものを一つ、少女に与えました。サボテンは毎日話しかけると、きれいな花を咲かせるんだよ、と教えてあげました。一緒にきれいな花を咲かせよう、と優しい声で言いました。
少女は話しかけることができませんでしたが、サボテンを大事にし、いつも持ち歩くようになりました。お医者様が患者さんを診ている間、外に持ち出して一緒にひなたぼっこをしたり、いろいろな風景を見たりしました。少女に大事にされていることをサボテンもわかったのか、やがてサボテンには小さなつぼみができました。お医者様はそれを見ると、少女の頭をなでてあげました。大事にしてくれてありがとう。お医者様がそう言うと、少女の心は温かくなりました。
それからも少女はサボテンを大事にして過ごしました。そしてその頃になると、少しずつ話せるようになりました。お医者様はそれをとても嬉しく思いました。そうして何年も一緒に暮らしているうちに、少女は明るく笑うようにもなり、二人は本当の親子のように暮らしていました。サボテンには花が咲き、鉢はどんどん増えていきました。
ところがある時、お姉さんが病棟にやってきてしまいました。あの子はどこ。私の子供はどこなの。そう言ってお姉さんは病棟を歩き回り、少女を探しました。お医者様は少女を隠し、お姉さんを帰そうとしました。ですがお医者様が何を言っても、お姉さんは聞いてくれません。私からあの子を奪わないで。私の幸せを返して。泣け叫びながらお姉さんはそう繰り返します。その声を聞いているうち、少女はたまらなくなって飛び出していきました。お母さん!お医者様が止める声を聞かず、少女はお姉さんの胸に飛び込みました。お姉さんは愛おしそうに少女を抱きしめ、ごめんね、ごめんねと繰り返しました。お医者様はお姉さんと少女を引き離すことができず、その様子を見ていました。痛い思いをたくさんさせてごめんね、もうそんなことないからね。そう言って、お姉さんは隠し持っていたナイフを振り上げ、少女をめがけました。少女が驚いている間に、出来事がいくつも起こったようでした。いつも白い病棟は、見たことがないくらい鮮やかな赤に染まっていました。お姉さんの持っているナイフには赤い液体が滴っています。少女は誰かに抱きしめられています。お医者様の腕の中でした。お医者様の名前を呼びましたが、お医者様は返事をしてくれませんでした。少女は怖くなり、涙が溢れてきました。何度も何度も名前を呼びました。そうしている間に、お医者様の白衣は血に染まっていきます。お姉さんは煩わしそうに舌打ちをしました。どうしてみんな私を幸せにしてくれないの。少女はお姉さんを見ました。幸せになりたいのに。幸せになりたいのに。お姉さんはそう繰り返していました。そして少女を見ると、ナイフを構えました。一緒に死のうね、私のかわいい子供。少女はどうしていいのかわからず、ただ光るナイフを見つめました。お医者様を助けなければと思ったのかもしれません。ですがよくわかりませんでした。少女はお姉さんに噛みつき、お姉さんは悲鳴を上げると少女を刺し、突き飛ばしました。突き飛ばされた少女が転がった先には大事にしているサボテンがあり、少女は心の中でごめんなさいと言って、鉢をお姉さんに投げました。サボテンのトゲはお姉さんの顔にぶつかり、お姉さんは呻きながらその場にうずくまりました。少女は何をするのかわかっているかのように、お姉さんからナイフを奪い取ると、ひたすら刺しました。ただ、恐ろしかったのです。
辺りは真っ赤に染まりました。
サボテンの鉢は割れてしまいました。
少女はそのことを覚えていませんでした。それ以前のことも忘れてしまいました。お医者様のことも忘れてしまいました。けれどお医者様の姿を見ると、ひどく怯えました。少女自身でも何故かはわからないまま泣き叫びました。
お医者様は、少女の心に深い傷ができてしまったのだとわかりました。自分も少女の傷の一部になってしまったのだともわかりました。
それ以来、お医者様が少女の前に姿を見せることはなくなったのです。お医者様が少女のいる病室の中に入らないのは、そんな理由があるからです。
少女はすべてを忘れてしまいましたが、サボテンを大事にしていたことは覚えていました。看護婦さんが何かほしいものはあるかと聞いたとき、真っ先に答えたものがサボテンでした。毎日話しかけるときれいな花が咲くんだよと、少女は嬉しそうに看護婦さんに話しました。
少女はパズルで名前を作ります。
作る名前はいつも決まっていました。
お医者様の名前でした。
少女はお絵かきをします。
病室の中しか知らないはずなのに、画用紙には青空が広がっていました。
少女とサボテンと、病棟が描かれていました。
お医者様の絵はありませんでした。
少女はいつも、窓の隣のドアから誰かが入ってきてくれるのを待っていました。
誰を待っているのかはわかりませんでした。




